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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

興光寺館跡

2007-02-02 15:12:53 | 歴史・民俗
 寒気が強まりまとまった積雪との予報は見事的中ながら、積雪は数センチ、お昼過ぎにはほとんど融けてしまった。
 それでも時折、小雪が舞ったり風も吹いたりと寒いには寒いですが、どこかしっくりこないが正直なところです。

光興寺橋方面・・・2月2日(雪はほとんど融けてしまった)



 興光寺館跡

 2月1日、横田城につづき、探訪してまいりました。

 興光寺館跡

画像は2月1日のものです


 標高340m・比高70m
 館主・興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)・天正年間~慶長年間

 遠野バイパス、光興寺橋正面の山野で主郭とみられる頂部の平場は南北10m東西9m。
 郷土資料には南北36m、東西12mと記述されているが、どうみてもその半分程にしかみえない。
 北西側の背部は二重の空掘で峰を断ち切っており、土砂等の堆積等も含めて風化が著しい・・・・。

 空掘跡


 興光寺氏は阿曾沼氏重臣というよりも、直臣といった印象があり、興光寺館からは眼下に畑中、小平の村々(バイパスを挟んで北が畑中村、南が小平村)が見渡せ、遠く松崎館、海上の八幡館も見ることができ、これらの監視をも含む物見場的な館だったのではと考えております。

 興光寺靭負は遠野阿曾沼最後の当主、孫三郎広長に従って遠野勢の侍大将として南部勢の一員として最上に出陣、広長留守の遠野は鱒沢広勝、上野広吉等の一門、一族による謀反が起こり、広長は遠野への帰還が果たせず、気仙郡世田米(住田)へ亡命、広長舅の世田米広久や伊達政宗の援助により3度、遠野奪還の戦いを繰り広げますが、興光寺靭負は二度目の戦い、赤羽根峠の戦いで討死と伝えられ、主君に最後まで付き従い、最後は戦場の露と消えたことにより、阿曾沼氏の忠臣として語り継がれております。

 残された興光寺氏縁の人々、ご子孫がどうなったのか、その系譜は伝えられているのかは、不明です。


松崎館方面

 松崎館主の松崎監物もまた、興光寺靭負と共に一方の侍大将として広長に従い、同じく赤羽根峠の戦いで討死。
 こちらも忠臣として語られております。

 さて、興光寺館跡の山にもお宝伝説があって、瓶に漆と黄金を入れ土中に埋めたという伝えがあるとか?


 なお、光興寺を興光寺と記述しておりますが、以前は興光寺なそうで、館跡に隣接の山野に興光寺という寺院が存在していたようです。
 後に廃寺となりましたが、江戸時代の明和年間に大慈寺19世、義山和尚により再興、興光寺を光興寺に改め、いつしか村名も興光寺から光興寺になったとか・・。


 おまけ

 今年の館跡探訪をとりあえず開始いたしましたが、まずは今まで探訪した館跡の縄張図的な図面及び画像の収録をと考えて、新規に探訪する館跡、再訪となる館跡が混在した調査になるものと思われます。
 その中でもまずは地元松崎町を主に考えておりますが、下記に横田城の図面を掲載いたしました。

 一般の方々が見てもイメージし易い図面と思いましたが、なかなか難しく、しかも位置のずれやメモの取り忘れ、度忘れもあって若干適当な面もみられます。
 いずれ、3Dとか立体的で誰が見ても解りやすい内容に徐々に取り組んで参りますので、とりあえずご勘弁願います。

横田城(遠野市松崎町)
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10 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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やったー! (稲用)
2007-02-02 18:22:37
興光寺館跡、横田城跡の隣にあって以前からずっと気になっているんですよ。今日はその最新の様子を知ることが出来て嬉しいです。

それと、横田城跡の縄張図、これは横田城跡を詳細に図示したものとしては最も優れたものだと思います。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の図面を見て「たいしたことないなー」と思った人には是非とも見てもらいたい図面です。そして現地に足を運べば、横田城跡の魅力を満喫できるでしょう。私も再訪したい!

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是非に2 (とらねこ)
2007-02-02 18:58:49
稲用さん、コメントありがとうございます。

興光寺館は3年ぶり2度目の探訪、南、西、北側は2度の探訪で遺構等の確認済みですが、清心尼公の墓側の東側斜面は藪が多いため未確認です。
でも感覚は掴みつつあり、ほぼどんな感じなのかの雰囲気は推測できます。

ここは体力勝負という内容がございますから、まずは当方のアップにて我慢願います。

さて、横田城の図面、よくみるとだいぶ手抜きした跡がありありとしてますし、背部の位置も少し南に偏り平場の形も少し大きいような気もいたします。

でもなかなかの遺構群、次回来遠時には是非に再訪いたしましょう。
さらに遠野随一の遺構群を残す謎の館、花館、そして宮守の石倉館、また以前からご案内候補としながら眺めただけで終っている西風館、また火渡館に丑館も是非に・・・早期に実現できることをご期待しております。
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オイラのお気に入りロード・・・・ (タマ千代)
2007-02-02 22:02:52
光興寺のお馴染みの石碑ダァ!
「くじら山」松崎版のシンクロですね(笑)。

横田城も、地図で見ると天然の要害といった所ですね。
木がなければ見晴らしがいい山でしょうし、川に挟まれていたりで・・・・勿論、さっぱり詳しくないです(笑)。

オラホの城跡にも「●理要害」なんて表示が出ていますが、ここほど険しくないですね。
城跡を二つに割って道が通じていますが、昔は鬱蒼としていたようです。
長い間に地形が変わってしまったんですね。
遠野は手がかりを探せるだけ凄いと思いますヨ。
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比高70m・・・ (藤九郎)
2007-02-02 22:57:41
興光寺館、比高70m・・・。
70m・・・。
きつそうですね(^^;

興光寺・松崎氏、主君のために散った忠臣というのはいつまでも名を残すものですね。

横田城の図面、これはまた見事ですね。
今度とらねこさんに八戸周辺の城館の図を作成してもらいたいです。

来訪、お待ちしてます(^^;
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朝は辛いぞガス灯師! (romi)
2007-02-03 12:21:45
遠野遺産の委員に任命します!   と、連絡が来ますね。
その時は宜しく快諾してください。

で、ガス灯・・・・検討して見ますか!
マルイ産業周辺からモデル地区として(#^_^#)
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Unknown (とらねこ)
2007-02-03 14:43:44
たま千代さん
きっとタマ千代さんのところもすばらしい史跡だと思います。
むしろ遠野よりは見易く、住民の皆さんにも身近に触れられる環境だとは思います。
あとは皆さんの歴史に対する思いやら考え方ひとつだと思います。
その点、遠野は遅れている、おざなりになっている、と私は感じます。

歴史や昔のことを考えても飯は食えませんし、今が大切はその通りなのですが、何故に今があるのか、そのひとつとして歴史を捉えていただければといいのですがね・・・。
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結構きつい (とらねこ)
2007-02-03 14:48:06
藤九郎さん

興光館も実はご案内したい館跡なのですが、やはり比高70メートルは結構きついです。
でも斜めについている道があって山で言う6合目辺りまではなんとか行きつけます。
後は斜面登りで一気か、帯郭跡を徐々に登っていくかになります。雰囲気は本宿館に似ております。

図面・・・いわば適当な面もございますが、今後はさらにより精度を高めていけたらと思っております。
無論、八戸へも今年も行きますよ、その際はよろしく。
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戯言 (とらねこ)
2007-02-03 14:54:50
romiさん
ガス灯は私の戯言ですよ、検討いただく価値があるかは別として、雰囲気的に詩情豊かな遠野の夜・・が演出されそうな推測です。

遠野遺産・・・・これは私はもの凄く興味を持つ分野ですし、よく発想したものだと驚いているのが現状です。
またその反面、いよいよという思いもしますし、無論何らかの形で関ることができるのであれば諸手を挙げて参画したいです。

でも、私のようなものが指名される可能性は低いのではないのか、ましてや本業の方も4月以降は消防団の統合などもあって割と忙しくはなると思ってます。
でもそれでも・・・ということであれば郷土史分野に携わってきた我身としてはひとつの節目となり得ることもあり、前向きに考えたいと思ってます。
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四つ目紋 (romi)
2007-02-03 15:47:19
なんでも戯言から始まるんですよー
へへへー。

で、こんなページを見つけました。
遠野が出ていない???
南部家臣団   ↓
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/morioka.html

八戸では四つ目紋と言われてましたが・・・佐々木族なら納得です。

勝手ですがー「遠野遺産選考委員に任命します」(#^_^#)V
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八戸氏 (とらねこ)
2007-02-03 16:27:03
romiさん

ご紹介のページ拝見いたしました。
なかなか細かく分類して調べた成果がみられる内容でもありますが、遠野は八戸氏ということになっております。
便宜上遠野南部氏と呼称してますが、南部藩では遠野は八戸家、南部姓が許されたのは文政年間といわれてます。

四つ目紋・・・・いわゆる佐々木氏の紋がその代表です。

それよりも今淵氏も佐々木族だったのですね、宮古の沼里は津軽との関わりがあるとか、また青森では工藤と佐々木が2大姓氏とか、その流れの今淵姓・・・やはりルーツのひとつは青森か?
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