goo blog サービス終了のお知らせ 

「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

伝承の館・駒木館

2007-02-27 18:58:41 | 歴史・民俗
「伝承の館・駒木館と駒木氏」

 私の住む遠野市松崎町駒木、この駒木地区にも館跡と称する史跡が残されていること、特に駒木館を知ったのは、ここ10年に至っていない。
 
 地元郷土史小冊子に掲載の内容では、7段からなる平場が展開し、南の八幡沢館よりも立派であると記載されていたが、併せて地元でもほとんどの人がその存在を知らないとも書かれていたことを思い出します。

 これは、見つけなければ・・・・、林道を行けば見つかるだろうとタカを括っていたが、これがなかなか見つからない、余程小冊子の著者や郷土史に詳しい古老の教授を受けようとも思いましたが、ちょうど城館跡探訪の面白さが分り始めた頃でもあり、是非に自分の力で・・・・そんな思いが強いものでした。


 主郭背部の土塁跡

 林道となっている部分は、かつて空掘跡を道とした雰囲気がある。


 高楢山テレビ中継塔への道、悪路が待ち受けており、乗用車では侵入不可、ベストはバイク、車なら軽のジープタイプ、軽トラック、或いは小型ボディの普通車ならなんとかなるだろう・・・しかし、四輪駆動車が条件だろう・・・。


 駆け下る空堀


 二重の竪堀跡


 
 概略図


 今回で4度目の探訪、地元としては少ないかもしれない。
 今回の探訪で、西側の突端に4重の空掘跡を発見、他の館なら段状の平場を数段配置しているが空掘によって峰を断ち切る遺構を見、驚きが隠せなかった。

 今回は館域東西南北のあらゆる方向を探訪、なんとか図面を書くことができました。

 いずれ、ここもすばらしい館跡、これらが知らず知らずに消えていくことだけはなんとか避けたいものと思いました。


 帯郭



 伝承の館・駒木館

 伝承の館とされるが、なんの伝承があるのかは不明。
 先人郷土史家によれば、安倍時代の築と考察がなされているが、ここもどう見ても戦国的な館跡という印象でもある。

 館主は駒木氏と語られますが、八幡沢館に居た菊池姓駒木氏との関係も不明といったところです。

 ただ、館下の集落にある寺院、西教寺(現存)の開基に関り、天文年間とも一方では語られ(元亀年間説有り)、この天文年間説では駒木氏の開基と共に駒木館が隆盛を極めていた頃から寺があったともいわれている。

 駒木館に居た駒木氏は何処へ行ったのだろう、そしていつ頃隆盛を極めていたのだろか・・・・。

 鎌倉時代に代官として遠野へ入った宇夫方氏は、下駒木下村に仮館を築いたとされますが、宇夫方氏は綾織谷地館を築き移動、後に遠野入りした主家阿曾沼氏は横田城へ・・・・駒木地域はまさに空白地域となり得ますが、ここには然るべき武家が入っていたものと推測されます。

 その拠点がここ駒木館、そして駒木氏か・・・・前回の同地域八幡沢館の考察、その関り含めまして、本編サイトにて考察を展開する予定です。


駒木館主郭部から遠野方面



 駒木館が機能していた頃から、駒木と海上との境、中野にはひとつの集落が形成されていた。(明治初年、大火で集落は焼失)
 古の駒木館下が抱える主な集落だったと推測がされますが、今は中野と呼ばれる場所の下部に僅か3戸が存在しております。(明治以降別家となった家々)


中野


 駒上げ野、小牧と、馬産関連にて「駒木」の名がついたといわれます。
 その時代は阿曾沼時代からと考察もされますが、まさに中野はその駒上げ野、小牧が設けられていた場所でもあります。
 阿曽沼配下の馬関連に携わった一族があったとしたならば、それは駒木氏なのか、駒木館の駒木氏・・・こちらも大いに気になるところです。


 なお、駒木館跡含みの高楢山、八幡座山は、駒木地区でも名うての熊出没地帯でもありますので、単独での探訪等、特段の注意が必要です。


 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする