年に2度程、鍋倉城址二の丸にある遠野南部家歴代墓所を訪れている。
定期的に時期を決めているわけでもないが、春と秋といった感じながら、以前からホームページにて遠野南部氏について扱っておりまして、妄想やら私見が入り混じり、心ばかりのお詫びとご報告といった意味合いで手を合わせておりました。
でっ、ここ最近、ぶれんどの皆さんが市民センター付近をエントリーしており、それにつられて思い出したかのように、甚だ失礼な発端ですが、本日お参り方々、画像を数枚撮らせて頂きました。
遠野南部家歴代当主並びにそのご家族の墓所
大工町の大慈寺にあったものを昭和48年に移された。
二の丸御門跡付近の紅葉・・・・色あせしておりますが、既に落葉盛んです。
南部神社
遠野南部歴代8世を祭神としている
「勤皇五世」
4代師行公~8代政光公が勤皇五世となっております。
武家政権の時代、すなわち徳川治世が崩壊し、明治維新が成って明治の世が訪れると明治新政府は、南北朝時代の南朝の正統性を認める立場をとり、北朝は足利尊氏等、足利方の傀儡とみる立場との見解があったようです。
このため、南朝に忠誠を尽くしたかつての武家等や先祖を持つ家々に爵位を贈る、尊王、勤皇がもてはやされた時代でもありました。
遠野南部家歴代5代は、建武親政の時から南北朝合一が成る元中9年(1392明徳3)まで、一貫して南朝方として北奥羽の地で南軍の孤塁を守り通し、またこれらを物語、綸旨やら教書といった古文書を数多く持っていたことによって(遠野南部家文書)明らかであります。
勤皇五世歴代に関しては詳しくは記述はいたしませんが、必ずしも所伝でいう内容と記録等の解読による考察とでは違いも顕著で、むしろ私は史料による見解を重視する考え方でもあります。
このことは更新が停滞気味ですが別家サイトの「遠野南部氏物語」にて若干記述しておりますし、今後も引き続き研究調査をしていくつもりでもあります。
あまり、此処で遠野南部家の歴史を「ばほめがすて」も、難しいとか理解するに時間が要するともいわれそうですし、答えに窮する質問があっても大変ですからね・・・・汗
余談ですが、此処鍋倉城に江戸時代、遠野南部歴代当主やそのご家族が住んでいたと思う方々も多いと思いますが、実は歴代当主(城主)は盛岡の遠野屋敷に居て、無論奥方や子等ご家族は盛岡に居りました。
遠野へはお国入りと称して、結婚された時とか何か特別な行事があった時に限られ、一生の内に1、2度位しか領国たる遠野に来ていないという当主がほとんどであったそうです。
亡くなられた後に遠野へ葬られる、子供達の中には一度も遠野を見ずに亡くなられる方々も多かったものと思います。
隠居後に遠野で過された歴代も若干確認されますが、鍋倉城は家老加判の新田氏を中心に重臣達が守っていたことになります。
皆さんにつられて・・・・
視点は銀杏ではありません・・・鍋倉城の守り、堀の役目の来内川・・・・笑
おまけ1
釜石通いが続いてますが、何か忘れている、釜石といえば・・・・?・・・どこか気にかかっていたが、ようやく思い出した。
甲子柿
これこれ・・・「どふっ」とした食感がたまりましぇん。
マヤマヤずのも一気に吹き飛んだっ・・・笑
おまけ2
数が増えて橋の端から次ぎの橋まで・・・・
定期的に時期を決めているわけでもないが、春と秋といった感じながら、以前からホームページにて遠野南部氏について扱っておりまして、妄想やら私見が入り混じり、心ばかりのお詫びとご報告といった意味合いで手を合わせておりました。
でっ、ここ最近、ぶれんどの皆さんが市民センター付近をエントリーしており、それにつられて思い出したかのように、甚だ失礼な発端ですが、本日お参り方々、画像を数枚撮らせて頂きました。
遠野南部家歴代当主並びにそのご家族の墓所
大工町の大慈寺にあったものを昭和48年に移された。
二の丸御門跡付近の紅葉・・・・色あせしておりますが、既に落葉盛んです。
南部神社
遠野南部歴代8世を祭神としている
「勤皇五世」
4代師行公~8代政光公が勤皇五世となっております。
武家政権の時代、すなわち徳川治世が崩壊し、明治維新が成って明治の世が訪れると明治新政府は、南北朝時代の南朝の正統性を認める立場をとり、北朝は足利尊氏等、足利方の傀儡とみる立場との見解があったようです。
このため、南朝に忠誠を尽くしたかつての武家等や先祖を持つ家々に爵位を贈る、尊王、勤皇がもてはやされた時代でもありました。
遠野南部家歴代5代は、建武親政の時から南北朝合一が成る元中9年(1392明徳3)まで、一貫して南朝方として北奥羽の地で南軍の孤塁を守り通し、またこれらを物語、綸旨やら教書といった古文書を数多く持っていたことによって(遠野南部家文書)明らかであります。
勤皇五世歴代に関しては詳しくは記述はいたしませんが、必ずしも所伝でいう内容と記録等の解読による考察とでは違いも顕著で、むしろ私は史料による見解を重視する考え方でもあります。
このことは更新が停滞気味ですが別家サイトの「遠野南部氏物語」にて若干記述しておりますし、今後も引き続き研究調査をしていくつもりでもあります。
あまり、此処で遠野南部家の歴史を「ばほめがすて」も、難しいとか理解するに時間が要するともいわれそうですし、答えに窮する質問があっても大変ですからね・・・・汗
余談ですが、此処鍋倉城に江戸時代、遠野南部歴代当主やそのご家族が住んでいたと思う方々も多いと思いますが、実は歴代当主(城主)は盛岡の遠野屋敷に居て、無論奥方や子等ご家族は盛岡に居りました。
遠野へはお国入りと称して、結婚された時とか何か特別な行事があった時に限られ、一生の内に1、2度位しか領国たる遠野に来ていないという当主がほとんどであったそうです。
亡くなられた後に遠野へ葬られる、子供達の中には一度も遠野を見ずに亡くなられる方々も多かったものと思います。
隠居後に遠野で過された歴代も若干確認されますが、鍋倉城は家老加判の新田氏を中心に重臣達が守っていたことになります。
皆さんにつられて・・・・
視点は銀杏ではありません・・・鍋倉城の守り、堀の役目の来内川・・・・笑
おまけ1
釜石通いが続いてますが、何か忘れている、釜石といえば・・・・?・・・どこか気にかかっていたが、ようやく思い出した。
甲子柿
これこれ・・・「どふっ」とした食感がたまりましぇん。
マヤマヤずのも一気に吹き飛んだっ・・・笑
おまけ2
数が増えて橋の端から次ぎの橋まで・・・・
上郷の○寺家の人に聞いた話ですが、この○寺家の家に、数回お殿様が訪ねて来たのだそうです。
その際、馬に乗ったまま訪ねては失礼に当たるとして途中で下馬し、お殿様自ら歩いて家まで来たのだそうです。
先祖は武士だったと聞きましたが、いったい何者なのだろうか?
一個一個が独立したネタになるのに・・・・嗚呼、ネタ切れ者から見ると裏山すい限りです。
「鍋倉も五日市も全部挙げろ! 出し惜しみはなしだ!」
スンマソン、判る人には判るパロです。
いったい、何部作でしょう?
遠野だけに南部作でしょう・・・・・・お後がよろしいようで。(チャカチャンリンチャンリンデンデン)
”いあだますー”=もったいないくらいなエントリーですね。
詳しくは別棟で・・・・と言うことなんでしょう(^-^)/
お国を護るのは家老で殿様は不在・・・・
今で言う「事務次官=家老」って事ですかね~
自分の領地に足を運ぶことが少なかった事は驚きですね。
てっきり鍋倉の頂上から眺めていたのかと・・・・
そう考えると、如何に優秀な家老を持つかが大きな分かれ目ですね。
社長は対外的にその地位を護らねばならぬ、専務(家老)が実権を握っていた事に思いは馳せます。
新しい感覚で鍋倉を見る事が出来そうですo(^▽^)o
とらねこさんの写真見て分りました
春先に一度行ってみたけど途中までしか行かなかったので機会があったら上まで行って見ますね^^v
甲子柿美味しそうですね^^v私も今年は一度しか食べてません^^;家族で食べるの私だけなのでつい買いそびれます^^;若い人は柔らかさが苦手のようです
今年も、五日市川の藁ガードレールにお会いできて嬉しゅうござります・・・・プッ。
乾す場カクホ、ワラエル鑑賞物、これぞ施設の有効活用!
上郷の○寺さんの件は存じ上げませんでした。
○寺姓、平倉の一部に結構点在する姓ですかね、それと青笹の前川原とか?・・・・○寺姓ですが、遠野南部氏と共に八戸から来たともいわれ、家臣もおりますが、どうなんでしょうね。
以前の阿曾沼氏遺臣でそれなりの地位の方だとしても、そのような敬意は必要ないと思いますし、宗教関連とか何か公共福祉に尽力された何かがあったのですかね・・・いずれわかりませんです。
ちなみに私の母方の大叔父も○寺姓で下組町です。
反応が鈍いといいますか、頭の回転が弱くついていけませんでしたが、皆さんのコメで納得と今さらながら反応しております・・・・汗
↑のような次第で、反応が鈍くすみません・・・汗
静寂の中にある墓所、私はこの場所だけは一人で行くのが好きです・・・笑
遠野は藩中藩とよばれ、南部藩の中でありますが遠野は、司法権含みの統治が遠野南部家に一任されていたようです。
しかし、殿様といっても盛岡の家臣扱い、第一の席とはいえ家臣ですから盛岡城に詰めて政務を司るが仕事でもありました。
領国たる遠野は家老にお任せといったところですね。