遠野物語研究第6号 2002年11月(遠野物語研究所)の記事から・・・
明治時代末期、遠野新聞というものが月2度発刊されていたそうですが、その中での記事
「郷社八幡宮」
八幡宮のお祭りは、例年9月14日と15日の両日行なわれていたが、この年は農作物が案外の豊作だったので、1ヶ月延ばして10月14日、15日の両日行なわれることになった。
各村からは太神楽、獅子踊り、町内からは屋台、内囃などの出し物がでることになっており、近年稀な賑わいをみせるだろう。
なお、引き続き鍋倉神社のお祭りが行なわれるので、町内の若者は張り切って走り回っている。
(明治39年10月5日付け)
遠野南部流鏑馬・・・2006年9月17日(遠野まつり)

「解説」
明治39年は久々の豊作であったため、八幡宮のお祭りは1ヶ月延ばされて10月14日、15日の開催、さらに引き続き鍋倉神社のお祭りが開催され、若者達は張り切っているという内容ですが、遠野八幡宮の祭典は9月14日、15日とばかり思ってましたが、昔は事情に併せて対応していたんですね、また春祭りとなっている鍋倉神社のお祭りも当時は秋祭りだったようです。
「八幡の祭典」
郷社八幡神社の祭典は、去る14日と15日の両日賑やかに行なわれた。
14日は神輿が八幡神社からお神明神社まで町内を渡御したが、この行列には松崎村のお神楽、附馬牛・青笹・上郷・小友・土淵等の各村からの獅子踊り、町方からは鎧武者20騎(上組丁)・警護の騎兵25騎(六日町)・内囃手踊り(新町)・屋台宝の入船(一日市町)楠公の銅像(穀町)蛸の屋台に内囃手踊り(裏町)等の出し物が賑やかに加わった。
日がようやく没せんとする頃、六日町の神明の社に入御され、同夜はここに安置し、翌15日神輿は、再び前日の出し物を従えて新張の八幡神社へ還御した。
「八幡の境内」
15日の馬場巡りも大変な賑わいだった。
町方よりは勿論、近郷近在より大勢の人が集まり、流石に広い神社の境内も一杯になった。向うの桟敷で弁当を開く者があればこっちの筵では兎の耳で踊る者があるなど、まことめでたい限りであった。
※なお、鍋倉神社のお祭りも引き続き17日、18日開催されたが、あまり浮かれないようにその筋の注意があり、出し物は一日だけで2日目は前日に比べて盛り上がりに欠けていた・・・とある。
(明治39年10月20日付け)
南部囃子・・2006年9月17日 遠野まつりにて(馬場めぐり)

「解説」
松崎村の神楽とは太神楽、町方からは屋台(山車)が出たようですが、町方の出し物に内囃手踊りとあり、町方の代表的な芸能である「南部囃子」の名が見えない。
さらに内囃手踊りが南部囃子なのか、しかし、新町や裏町からしか出ていないのは何故なのか・・・・とありますが・・・・。
14日に八幡の御神輿に付いて行く芸能団体、松崎村の太神楽とは?八幡神楽とばかり思っていたが?、また寛文年間にはじまったとされる南部囃子の名が見えないこと、これはどういうことだろう、しかも一日市や穀町といった有名処が山車と手踊りとは・・・・手踊りが南部囃子だった可能性がございますが、私もいささか疑問でもあります。
また流鏑馬のこともみえませんが明治年間は断続的に有志によって行なわれるも大正~昭和29年までは廃れていたとされます。
それにしても昔は神明神社まで数多くの郷土芸能団体が付いていっていたんですね。
そして遠野祭り、いやっ遠野郷八幡宮のお祭りは昔も今も賑やかで人々の楽しみのひとつだったことが垣間見れる内容でもあります。
遠野郷しし踊り・・・2006年9月15日 八幡宮祭礼(駒木踊り)
明治時代末期、遠野新聞というものが月2度発刊されていたそうですが、その中での記事
「郷社八幡宮」
八幡宮のお祭りは、例年9月14日と15日の両日行なわれていたが、この年は農作物が案外の豊作だったので、1ヶ月延ばして10月14日、15日の両日行なわれることになった。
各村からは太神楽、獅子踊り、町内からは屋台、内囃などの出し物がでることになっており、近年稀な賑わいをみせるだろう。
なお、引き続き鍋倉神社のお祭りが行なわれるので、町内の若者は張り切って走り回っている。
(明治39年10月5日付け)
遠野南部流鏑馬・・・2006年9月17日(遠野まつり)

「解説」
明治39年は久々の豊作であったため、八幡宮のお祭りは1ヶ月延ばされて10月14日、15日の開催、さらに引き続き鍋倉神社のお祭りが開催され、若者達は張り切っているという内容ですが、遠野八幡宮の祭典は9月14日、15日とばかり思ってましたが、昔は事情に併せて対応していたんですね、また春祭りとなっている鍋倉神社のお祭りも当時は秋祭りだったようです。
「八幡の祭典」
郷社八幡神社の祭典は、去る14日と15日の両日賑やかに行なわれた。
14日は神輿が八幡神社からお神明神社まで町内を渡御したが、この行列には松崎村のお神楽、附馬牛・青笹・上郷・小友・土淵等の各村からの獅子踊り、町方からは鎧武者20騎(上組丁)・警護の騎兵25騎(六日町)・内囃手踊り(新町)・屋台宝の入船(一日市町)楠公の銅像(穀町)蛸の屋台に内囃手踊り(裏町)等の出し物が賑やかに加わった。
日がようやく没せんとする頃、六日町の神明の社に入御され、同夜はここに安置し、翌15日神輿は、再び前日の出し物を従えて新張の八幡神社へ還御した。
「八幡の境内」
15日の馬場巡りも大変な賑わいだった。
町方よりは勿論、近郷近在より大勢の人が集まり、流石に広い神社の境内も一杯になった。向うの桟敷で弁当を開く者があればこっちの筵では兎の耳で踊る者があるなど、まことめでたい限りであった。
※なお、鍋倉神社のお祭りも引き続き17日、18日開催されたが、あまり浮かれないようにその筋の注意があり、出し物は一日だけで2日目は前日に比べて盛り上がりに欠けていた・・・とある。
(明治39年10月20日付け)
南部囃子・・2006年9月17日 遠野まつりにて(馬場めぐり)

「解説」
松崎村の神楽とは太神楽、町方からは屋台(山車)が出たようですが、町方の出し物に内囃手踊りとあり、町方の代表的な芸能である「南部囃子」の名が見えない。
さらに内囃手踊りが南部囃子なのか、しかし、新町や裏町からしか出ていないのは何故なのか・・・・とありますが・・・・。
14日に八幡の御神輿に付いて行く芸能団体、松崎村の太神楽とは?八幡神楽とばかり思っていたが?、また寛文年間にはじまったとされる南部囃子の名が見えないこと、これはどういうことだろう、しかも一日市や穀町といった有名処が山車と手踊りとは・・・・手踊りが南部囃子だった可能性がございますが、私もいささか疑問でもあります。
また流鏑馬のこともみえませんが明治年間は断続的に有志によって行なわれるも大正~昭和29年までは廃れていたとされます。
それにしても昔は神明神社まで数多くの郷土芸能団体が付いていっていたんですね。
そして遠野祭り、いやっ遠野郷八幡宮のお祭りは昔も今も賑やかで人々の楽しみのひとつだったことが垣間見れる内容でもあります。
遠野郷しし踊り・・・2006年9月15日 八幡宮祭礼(駒木踊り)

南部ばやしは一時中断していたんだそうです。
町中の出し物も、私達が子供の頃は、花巻まつりが終わった後に、その山車を借りてきて行なっていましたよね。順風漫帆とはいかないようです。一時中断しても芸が消滅する前に復活させることが大事だと思います。それはそうと、松崎の太神楽とは、どこのものなのだろう?田植踊りとセットとして踊られていたものなのだろうか?(ありえないことではないが・・・)
南部囃子が一時中断していたこと、了解です。
南部直栄が創始に関るという古き伝統ある町方の芸能が無いというのはおかしいと思ってました。
復活され現在に優美に受け継がれていること、すばらしいと思います。
松崎村の太神楽、さて、こちらは果してどういうものだったのか?
オラホはその典型でしょう。
結構重要な役割を果たした歴史上の人物がいても、それを調べたり伝えようとする動きが見えてきません。
たぶん、郷土史家の一人はいるのかも知れませんが・・・・
一度、町の歴史資料館でも見てみないと、恥ずかしくてオラホの歴史を語ることなどできないですねぇ~
そういう意味で、遠野は本当に凄いです。
柳田国男が遠野に遊んだ頃も盛大に行われていたのですね。
官憲がチャチャを入れる程、羽目を外していた???
24日はサーバーのメンテナンスだったようですが、グーの場合は4時間程度、午前10時には復活でした。
さて、まずは己の生まれ育った地、或いは住まいする地域の簡略な歴史は知っていた方が良いでしょう。
地域といいますか集落や町内会には必ず一人は郷土史に詳しいご年配の方がおられるはず、またこうした人達は何かしら後世に足跡を残すもの、どうぞ地域の歴史にも触れられてください。
柳田國男が遠野を訪れて百年近く経過といったところですが、昔も八幡のお祭りは賑やかだったと思います。
今年は分裂開催のお祭りも一緒にできるということで、いつになく賑やかで盛大かと思います。
是非に今年のお祭りもお越しになられ楽しみましょう・・・無論、夜の部も・・・笑
南部ばやし~明治のこの時代は、もしかすると、名前はなくとも、今で言うところの「南部ばやし」が踊られていたと思うようになりました。と言うのも、仲町で笛吹をしている方がお持ちの明笛は、明治時代に使用されていたものだと聞いていること。また、その笛を拝見すると、その時代の作と考えられることによります。一時途絶えたという時期は、戦中戦後ではないかと思います。とらねこさん記述の「内囃子手踊り」というのが、今の南部ばやしだと思われます。
ずっと気にして考えていたもので・・・
新聞での解説をみてますと、何故に南部囃子と記述していないのか、ただ、山車とありましたので、南部囃子を指すものかもしれませんね。