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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

チャシと遠野の館

2007-01-21 16:57:00 | 歴史・民俗
 ピリッとした冷え込みがあったものの、朝から雲ひとつ無い快晴の遠野。
 大寒の候というのに積雪は無いに等しく、日中は3月頃の雰囲気、毎度の事ながら暖冬なのだろう・・・・。


早池峰山・・・福泉寺橋付近から



駒木前野から



石上山・・・綾織町

 流石に麓は積雪があって附馬牛町へ抜ける峠道は封鎖、それでも積雪は10センチ程度か。


 「チャシと館」・・・・・

 遠野市内における城館跡、約160余といわれるが、その半数近くは安倍時代の築或いは使用年代との見解が述べられている。
 安倍時代といってもそれ以前の蝦夷時代も含まれる内容と私は受け止めておりますが、鎌倉時代から江戸時代と俗にいわれる阿曽沼時代、それ以前にも人々は住み、生活していたことはその通りであり、館跡と称する遺物が残されていることも容易に想像もできますし、少なからずあっただろうとも言える事でもあります。

 安倍時代とそれ以前の館跡を先人の郷土史家達は「チャシ」或いは「チャシコツ」と言い、例えば「真立チャシ・矢崎チャシ」とか「宮澤チャシ」・・・と名付けております。

 チャシとは、北海道のアイヌの人々が造った砦、見張台、或いは祭壇等を設けた宗教的に神聖とされる場所を指すものと解釈がされておりますが、後に軍事的要素が入り込んだ、城郭施設といったものといわれている。

 その造りは単純で空掘を廻らせただけの山城といったものが多いとされますが、その多くは16世紀から18世紀に登場といった内容が語られております。

 遠野も含み北東北での蝦夷時代~安倍、藤原時代おいてアイヌ民族と同一民族との考えから、北海道のチャシの構造とよく似ている北東北の築年代不詳の館跡のほとんどがチャシとされている点にいささか疑問を感じております。

 北海道のチャシのほとんどは16世紀からという見解の中、何故に9世紀以前といわれる遠野の館跡がチャシとなったものなのか、これはその構造と共にアイヌイコール蝦夷(えみし)という発想から出たものに他ならない内容でもありますが、そうしますと東北での蝦夷達がそのまま北海道のチャシ造営の基となることではないのか、と考えてしまいます。

 つまりチャシの根本は蝦夷時代に東北で確立されて後に北海道へ・・・となるのではないのか、無論、蝦夷時代といわれる古代東北から平安初期において北海道にも同様の館が存在していたものなのか、こちらは私には未確認でもあり、浅学の身ではなんともいえません。

 まだまだ城館研究ではマニアといった趣味の範疇は超えられない現実はありますが、遠野の花館という館跡を探訪した際の一応の私見を掲載しておりますので、参考までにご覧いただければと思います。
こちら


 遠野の城館跡を探訪しておりますと、その多くは阿曽沼時代といった雰囲気があり、その造りもすべてとは言わないまでも類似性が感じられ、比較的遺構もよく残されているものも多い、その中でも先人の研究では阿曽沼時代と安倍時代に区別されているものも多く散見されます。

 私にはその違いが未だに区別できずにおります。遺構ひとつに何かしら決定的な違いやらが見出せればまた違った考えもできるかもしれませんが、こちらはまだ遠野の城館跡の3分の1も探訪していないという現実もありますので、今後の探訪調査で何を発見できるか、何を感じるか、これに係っているものかもしれません。


真立館(別名 真立チャシ・矢崎チャシ)松崎町

 我家から真っ向にみえる館跡ということになります。

 いずれ年代不詳、口伝不詳をチャシとする考え、何故にそう考えたのか、こちらも併せて探求できたら、こちらも今後の課題として取り組めたらと思っております。

 参考・松崎舘と真立舘・・・こちら
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8 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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れれれ。 (玉千代)
2007-01-21 19:13:53
またもや一番糊~。
今日はずっと仙台市内をうろついていて、今帰ってきたばかりなのに・・・なんでかな、なんでかな。

真立舘の辺りって・・・・とらねこさん家から見るとくじらみたいですね(又始まった、お子ちゃま目線;)。
以前、早池峰神社の近くに住む方から、東禅寺から早池峰神社の区間何処かに見張り台があったと聞かされましたが、舘跡のことかも知れないですね。
あの辺・・・・って、調査してます~?

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結構ありますよ (とらねこ)
2007-01-21 19:29:37
たま千代さん
鯨ですか、いわれれば鯨に見えなくもないですね。
通称鯨シャチ、いや鯨チャシとでも名付けますかね・・・笑

早池峰~東禅寺・・・・舘は割りと存在しておりますよ、大萩にも3つ、大野、桑原の3つ、小出にも2つほど一応机上では把握しております。
場所の探訪は春以降となりますが、一応このライン4箇所は探訪調査を目指しております。
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Unknown (about)
2007-01-21 19:36:59
お晩です。
このような歴史的遺構は「それ自体」が語ることもあるでしょうがやはり調査研究は必要ですね。その時代の文化を全体的に調べてみる必要もありそうです。
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切り口 (とらねこ)
2007-01-21 19:54:08
aboutさん、こんばんは。

仰せごもっともと思います。
館跡ひとつにしても、周囲の状況やら地域の伝承、さらに寺社の存在、隣接地域との関係とか、とにかく徐々に広範囲に広がってまいりますからね。
ですから全体的に考察するも大切だとも思います。

ただ、私の場合は遠野郷土史を館跡という分野から切り崩すといった意味合いもありますから、全体からではなくひとつの分野から広がるといったことがあてはまるかもしれません。

笛吹童子さんは民俗学的な分野である社寺や郷土芸能といったところから遠野の歴史をみるといったスタイルもありますから、お互いに情報や意見の交換をしながらそれぞれから考えてみる、こういったことも必要かなとかんがえているところです。

いずれaboutさんにも、ご存知の情報やご意見も拝聴しながら邁進して参りたい思います。
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チャシと館・・・ (湊丸藤九郎)
2007-01-21 20:08:45
チャシ・・・。

南部の中世城館は十把一絡げで「チャシの改造」とされていますが、とらねこさんのおっしゃるとおりチャシの成立と南部の中世城館の成立はうまくつながらないです。

チャシや南部の中世城館成立以前の北方世界、防御性集落の存在が大きな鍵になっているように思いました。

真立館も現地で直接見てみたいです。
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チャシ (とらねこ)
2007-01-21 21:15:27
湊丸さん
仰せの通りかと私も考えております。
遠野にも一応に防御性集落の存在があり、また先人の調査にも山城的な館跡に住居を伴ったものもあるという見解があり、むしろこの方面のものを探訪した方がチャシとの関わり等、見出せるものかもしれません。

今回の真立舘は館跡に住居跡やら遠野での共通の伝説のいくつかが重なった舘であるとのことでもあり、是非に遠野の館めぐりでは松崎舘の再訪と共に真立舘をご案内いたします。

その際はよろしくお願いします。
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やまんば! (romi)
2007-01-22 14:35:30
おお、母の実家が鯨のべろのあたりですたいぃ!
何度と無く流れを変えたであろう暴れ川「ソロゲェス」に悩まされた場所でもあるようですね。
500年前、1000年前の川の流れが気になります。

関係ないけど、鯨の唇をなめるように道が進みますが、子供の頃は「おっかない」通りでした。
山が其の侭襲ってきそうで・・・・・。
山姥などの話を聴いた時はこの場所を思い出したものです。
今では道幅も広くなり交通量もそこそこあるので少しはあかるくなりましたが、トラウマは健在です!
返信する
 (とらねこ)
2007-01-22 17:17:11
romiさん
鯨のべろ辺り・・・べろを少し過ぎた辺りから矢崎の入り口まで私の少年時代は、鬱蒼とした暗い林でした。
やまんばはともかく、マムシなんかも出てきて、少し怖いというイメージがございました。
時折、当時のことを夢で見ることもございます。
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