なんとか冬らしい遠野の風景となりました、まさに吹雪乱舞です。
愛車「濁酒特区スッケ号」もスミ(凍って)でしまった。


本題・・・幻の遠野柵
吹雪の一日、このまま春にまっしぐらかが暗転、既に陽気に誘われて例年より2ヶ月も早く市内の城館跡探訪もはじめておりますが、中休みといったところ、本来は画像の姿がホントのところなんですが、ここは外出もままならず先人が調べ上げた城館跡の郷土資料なんかを眺めつつ、今後の探訪予定でも考えますか・・ということで大人しくしておりました。
さて、以前から気になっていたこと、標高が高く、山猫氏くらいの意思の強さでもあればなんとかなると思うのですが、物見山の探訪が最大の難関という位置づけでもあります。
物見山というくらいですから、物見すなわち見張りという観点から名付けられたものと思われますが、どうやら先人の見解では南部藩政以前、阿曽沼時代よりも古く安倍時代か・・・いやっ蝦夷時代なのかもしれないという考察でもあります。
遠野柵という表現は私は初見でもありましたが、館跡調査をされた二人の郷土史家は標高の高い貞任山(小友・土淵)と呼ばれている2箇所と鳥海(上郷町佐野山)も調査、砦跡のような高台と石を集めた痕跡を確認したともいいます。
この高山で古の人々は何をしようとしていたのでしょう、また何をしたのでしょう・・・。
小友貞任山、土淵貞任山、上郷鳥海の三点から遠野盆地が見下ろせ、3点を結ぶ三角形の中には遠野物見山も有り、北上川方面を遥かに見渡せる小友種山の物見山もあって、物見山とは下界から付けられた名称ではなく、山上から付けられた名称に他ならないものとしております。
小友種山の物見山は胆沢城からの連絡を直接受ける場所、高台が築かれ狼煙等で連絡を取り合っていたものと推測されます。
また遠野物見山は、数箇所の高台を山に築き現に2段の物見台跡が残されているといいます。
すなわち胆沢城方面の北上川流域に何かがあれば直ぐに遠野にもその異変が知らされ、逆に遠野に何かがあれば逆のルートで異変が知らされるシステムが構築されており、遠野盆地そのものは山々を防塁となした柵、つまり城塞であり、このシステムによって盆地内の館にいる人々は皆連携が取れる体制を構築していたといわれる説でもあります。
これはなかなか興味ある内容でもあり、実際に遺構やらその痕跡が認められるということでもありますから、山猫氏にお願いして共に探訪してみたいと考えております。
無論、熊さんとかが出歩かなく、しかも雪が少ない時期となりますが、これもまた難しいですな・・・・。
それにしても一気に冬になりました。

おまけ
綾織町新里の西風館の図

まずは物見山も大いに興味ありますが、麓の館跡調査が先決でもあります。
愛車「濁酒特区スッケ号」もスミ(凍って)でしまった。


本題・・・幻の遠野柵
吹雪の一日、このまま春にまっしぐらかが暗転、既に陽気に誘われて例年より2ヶ月も早く市内の城館跡探訪もはじめておりますが、中休みといったところ、本来は画像の姿がホントのところなんですが、ここは外出もままならず先人が調べ上げた城館跡の郷土資料なんかを眺めつつ、今後の探訪予定でも考えますか・・ということで大人しくしておりました。
さて、以前から気になっていたこと、標高が高く、山猫氏くらいの意思の強さでもあればなんとかなると思うのですが、物見山の探訪が最大の難関という位置づけでもあります。
物見山というくらいですから、物見すなわち見張りという観点から名付けられたものと思われますが、どうやら先人の見解では南部藩政以前、阿曽沼時代よりも古く安倍時代か・・・いやっ蝦夷時代なのかもしれないという考察でもあります。
遠野柵という表現は私は初見でもありましたが、館跡調査をされた二人の郷土史家は標高の高い貞任山(小友・土淵)と呼ばれている2箇所と鳥海(上郷町佐野山)も調査、砦跡のような高台と石を集めた痕跡を確認したともいいます。
この高山で古の人々は何をしようとしていたのでしょう、また何をしたのでしょう・・・。
小友貞任山、土淵貞任山、上郷鳥海の三点から遠野盆地が見下ろせ、3点を結ぶ三角形の中には遠野物見山も有り、北上川方面を遥かに見渡せる小友種山の物見山もあって、物見山とは下界から付けられた名称ではなく、山上から付けられた名称に他ならないものとしております。
小友種山の物見山は胆沢城からの連絡を直接受ける場所、高台が築かれ狼煙等で連絡を取り合っていたものと推測されます。
また遠野物見山は、数箇所の高台を山に築き現に2段の物見台跡が残されているといいます。
すなわち胆沢城方面の北上川流域に何かがあれば直ぐに遠野にもその異変が知らされ、逆に遠野に何かがあれば逆のルートで異変が知らされるシステムが構築されており、遠野盆地そのものは山々を防塁となした柵、つまり城塞であり、このシステムによって盆地内の館にいる人々は皆連携が取れる体制を構築していたといわれる説でもあります。
これはなかなか興味ある内容でもあり、実際に遺構やらその痕跡が認められるということでもありますから、山猫氏にお願いして共に探訪してみたいと考えております。
無論、熊さんとかが出歩かなく、しかも雪が少ない時期となりますが、これもまた難しいですな・・・・。
それにしても一気に冬になりました。

おまけ
綾織町新里の西風館の図

まずは物見山も大いに興味ありますが、麓の館跡調査が先決でもあります。
事実、物見山頂上から線を引くと、遠野の街作りが放射線状に道路が出来ていることに気付きます。また、新里愛宕神社から線を引くと、下組町・元町・六日町が放射線状に道路が出来ていることも解ります。
「見張り」の要素があるかと思います。
本日は大荒れの天候、本来の遠野の冬といった雰囲気で少しだけ安心しております。・・・荒れて安心というのも変ですが・・・。
土室物見山に二つの巨岩有り、その間から見ると早池峰山が真っ向に見えるとか、宗教的な何かで物見山が語られる事は少ないと思いますが、デ~ンと南側に構える物見山、何かしら時代時代において意義があったものと推察しております。
と、思いつつも明日の朝の雪かきが億劫ですね( ̄v ̄;)
濁酒特区スッケ号は屋外待機でしたかー・・・
白龍号も今日はキツカッタカモ(*^_^*)
吹き付ける雪に踊らされて鵢崎を北上!
結局引き返す結果となりましたが、まだまだ現役で頑張れる所を見せてくれました。
さて、物見山ですが湖であった太古から南のなだらかな鯨のようなこの山は江刺や平泉を見つめるにはふさわしい場所。語られない物語がありそうですね。
是非、掘り起こしてくださいm(_”_)m
遅まきながらといった冬将軍の到来、少しくらいは冬らしくても我慢します。
雪掻は確かに大変ですがね、明朝は確実にしなければなりません。
さて、物見山と遠野柵、幻というより謎ですが、何かしら遺物もあるということですから、この方面の探訪も必然的に敢行しなければ・・・と思います。
物部に繋がる何かも内在しているかもしれませんね・・・笑
おそらく、安倍氏・奥州藤原氏にとっても遠野はなにか重要な場所だったのでは?と思います。
遠野に今も残る無数の館と金山・鉱山はロマンをかき立てるような感じです。
安倍氏と遠野、これはかなり関係が深かった気がいたしますし、館にしても安倍時代とされる箇所もかなり存在しているようでもあります・・(資料では全体の半分位)
いずれ鉱山、金山、そして宗教的な何か、これらが複雑に絡み合っている内容もあってなかなか難しいと考えます。
この方面でもご教授願えればと思いますのでよろしくお願いします。
行って見たいどうーな場所です。
歴史的背景はさておき(知らないだけだ)、単に行ってみたいだけ(←失礼者)。
オラホも猛吹雪ですよー
コレまでの分を挽回するかのような。
軟弱なオラホの町の人達、明日朝は慌てることのないよう・・・ですね。
そんなワタクシも早朝出勤となります。
濁酒・・・・スッケがったけど、こんなさぶい夜によく合いますね。
二人なら熊っ子も逃げますし、三人ならとっ捕まえて熊汁にもできます。(しませんけど)
5月ですかね。物見山は登る価値ありです。小豆平がどこかも見てみたいですしね。
てか、この吹雪は山猫のたぁたりじゃ~~~!(爆)
物に纏わるものとして・・・・(意味不明・笑)
時間と体調がよければ・・・・です。
遠野三山はすべて登りましたが物見山は・・・・汗