「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

明治三陸大津波と遠野人

2011-04-09 18:28:47 | 歴史・民俗

 2011年3月11日14時46分、東日本大震災発生!

  この大地震により北海道から千葉県までの広範囲な太平洋沿岸に津波が押し寄せ、特に千葉県~青森県の太平洋沿岸へは大津波となって沿岸各地に甚大な被害をもたらす大惨事となりました。

 その中でも三陸と云われる岩手、宮城の沿岸地域は壊滅的な大きな被害となり、よく比較され、さらに現代において多くの教訓となっているのが明治29年(1896)6月15日に三陸沿岸へ押し寄せた明治三陸大津波でありました。

 ここでは、明治の三陸大津波に関する簡略的な事項と、発災直後に三陸沿岸各地の被害状況を実際に調査した遠野人、山奈宗真の事績について、これまた簡略ながら記述いたします。

 

風光明媚な三陸海岸・・・浪板海岸(大槌町)・・・2010年 春

 

 明治29年(1896)旧暦5月5日(新暦6月15日)午後8時過ぎ、端午の節句の夜、三陸沿岸一帯は、轟音の共に大津波に襲われ、岩手県では南は気仙郡気仙村(陸前高田市)から北は九戸郡種市村(洋野町)までの約324キロ、当時でいう6郡37ヶ町村にわたった。

 電話等、通信手段やメディアによる情報伝達が発達していない時代でのこと、遠野ではそれでも翌日には、釜石では昨夜の地震で、大津波が来て町が無くなったらしいというクチコミが最初であったらしいですし、岩手県庁が大津波を知ったのは翌朝で青森県庁からの急電によるものであったらしい。

 釜石、大槌と同郡で隣接でもあり経済面でも密接な関係である遠野は、釜石、大槌が大津波で壊滅したとの報にて、直ちに町議会を招集して被災地救援を議決すると当時2百円の予算を以て、見舞い方々状況視察員を派遣すると共に同時に消防夫や車両、牛馬等の運搬用具を全て動員して食料、衣類、医薬品を送り救援に当った。

 県や国でも係官を被災地に送り、軍艦も動員され救援物資等の輸送に当ったとされる。

 大津波は、吉浜(現大船渡市三陸町)では波の高さ22メートルといわれ、同じく三陸町の綾里湾では38.2メートルという、とてつもない大波が来襲、3回にわたる大津波までは怒号の声や阿鼻叫喚の凄惨な響きが辺りに響いていたが、それ以降は人の声は全く聞こえなくなったといわれ、その後、翌日までに大小数十回の津波が来襲するといった凄まじいものだったと語られている。

 津波による死者は、全体で約2万2千人、岩手県では約1万8千人、全壊、流出家屋約1万2千棟、船舶流出約7千隻と甚大な被害となった。

 

浪板海岸・・・2010年春撮影

 

 山奈宗真が明治29年7月27日、明治三陸大津波による「三陸大海嘯被害地授産労法取調方」を県から委嘱され、気仙郡から九戸郡種市までの三陸沿岸300もの町村集落全てへの調査巡回に旅立ったのである。

 山奈宗真については・・・こちらをご参照ください。

 

 

〇三陸大海嘯岩手県沿岸見聞誌から(抜粋)

陸中国上閉伊郡釜石町(現釜石市・釜石、佐須、白浜、平田、嬉石、松原)

戸数・1,105戸・・・流出戸数等837戸

人口・6,986人・・・犠牲者3,765人・負傷376人

船舶・748・・・流出船舶等652

 

※当時は現釜石市では釜石町の他、鵜住居村があった。(唐丹は気仙郡)

 

 

陸中国上閉伊郡大槌町(現大槌町・)

戸数・1,172戸・・・流出戸数等523戸

人口・6,983人・・・犠牲者599人・負傷118人

船舶・240・・・流出船舶等224

 

 旧上閉伊郡ということで釜石と大槌の被害について掲載しましたが、釜石町にあっては人口の半数が犠牲となり、家屋も7割に及ぶ被害で、まさに壊滅というか全滅に近い被害であったことが伺われます。

 下閉伊郡田老村(現宮古市田老町)に至っては、家屋の9割が流されたり全壊し、人口の8割以上が犠牲となる凄まじさであった。

 

山奈 宗真

明治三陸大津波調査の時、49歳であった。

 

 平成の世に発生した大災害、「東日本大震災」での大津波では、犠牲者、行方不明者合せて約2万8千人の大惨事となりましたが、現在のように湾口防波堤、防潮堤も整備されてなかった明治29年の三陸大津波と比較して、設備、施設の備えやら遮蔽物があり、ましてや各メディアの発達、津浪予警報発令という迅速な情報伝達が構築されていた現在であったにも関わらず、多大な被害であったこと、いかに凄まじいエネルギーがこの度の津波にあったのかが伺われます。

 もちろん、明治29年及び昭和8年の大津波当時の三陸沿岸各地の人口数と現在の人口比較とでは差異はあると思いますが、当時の漁村が人々と共に全滅に近いという悲劇があったこと、これは紛れもない事実であったのです。

 

 山奈宗真は明治三陸大津波被害調査完了(日誌整理含)まで8ヶ月を擁したとされますが、その後、昭和8年(1933)3月3日、またしても三陸沿岸を大津波が襲った。

 この際も犠牲者、行方不明、負傷合せて3千5百人を超える大きな被害となっているが、山奈宗真が調べ上げた調査結果が後の世に活用されたか?あまり活かされた雰囲気は感じないとされる。

 歴史は繰り返す、三陸の津浪をみても何度となく、被害をもたらし、悲劇を生んでいるのは明らかである。

 先人の教訓を重んじるはもちろんであるし、2度と同じ悲劇は避けなければならないはず、私が言うまでもなく、今一度、防災も含め新たな町づくりをあらゆる面から考えることが必要であると思います。

 

 

参考図書「遠野が生んだ先駆者 山奈 宗真」遠野市教育文化振興財団

                                  著  田面木 貞夫

遠野市史4・・・他

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