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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

阿津賀志山防塁

2009-04-03 19:11:18 | 歴史・民俗






 遠野とその周辺地域の中世城館跡探訪をひとつの趣味としている小生であるが、以前から是非とも見てみたい、探訪したいと念願していた史跡に福島県伊達郡内、国見町に残されている「阿津賀志山防塁」がありました。
 宮城県と福島県との境付近であるということで、岩手の遠野からなんとか行け付ける場所であるも、それでも何かの用とか、そのついでというわけにもいかず、その思いだけで、なかなか出かけることは叶わず状態、機会はこちらで作るものとはいいますが、思い立ったらが吉日という例えもあり、今回、時間的な制約はありましたが、やっと見学することができました。


 
阿津賀志山(厚樫山)麓の防塁跡








 主に二重の空堀と三重の土塁によって構成されている防塁、年月による風化は避けられない現実ではありますが、自分的には残存度良好といった思いでもあり、凄いものを見させていただいたという思いが強く意識されました。


攻める鎌倉軍が陣を敷いた福島市内方面




 阿津賀志山麓から阿武隈川岸までの約3.5キロにわたって築かれた防塁であるが、東北本線(鉄道)、国道4号線、その他農地開発等で、年月を重ねるうちにその遺構のほとんどが消滅という状態でありますが、阿津賀志山(厚樫山)麓の始点部分と南側の終点付近にその遺構跡が残されている。



南側部分の遺構
















 
厚樫山方向




 文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏征討のため、源頼朝は御家人達に同年7月までに軍を整え鎌倉に参集せよと命じた。
 一方、平泉の藤原泰衡は、鎌倉方の動向を察知すると伊達郡と刈田郡の境に位置する阿津賀志山に堅固な防備施設を構築、さらに山麓から阿武隈川岸までの大防塁を築いて鎌倉軍の来攻に備えていた。

 同年7月、鎌倉軍団は太平洋側を進軍する海道軍と中央の大手軍、北陸軍の三軍が編成され、7月末には早くも白河を越え、8月7日には藤田宿(国見町)に到達して陣を構える。

 迎え撃つ平泉軍は藤原泰衡の庶兄、藤原国衡(西木戸国衡)を大将に奥羽の精兵2万騎を以て阿津賀志山防塁に配して迎撃態勢を整え、天下分け目の大決戦が開始されようとしていた・・・・・。







 次回エントリーは阿津賀志山の戦いの予定です。


 

中沢本堂舘跡

2009-03-31 19:26:54 | 歴史・民俗
 先日、笛吹童子さんと探訪した月山深山宮(八幡社)及びその近在は本堂舘という城舘跡であったという結びでエントリーを閉じておりましたが、早速、再度中沢に足を運んで探訪して参りました。


青笹町中沢地内
深山宮真下の草地から・・・


 いつもの資料に掲載の図面を見ながらの探訪、感覚からすれば八幡社の真下(北西)に広がる草地辺りが館跡と思しき雰囲気であったので、草地と山際の境目付近を探索する。

 図面によれば、かなり残存度良好な空堀が存在することになっているが、なかなか見つけ出すことができない。

 今一度、地形と共に図面を照らし合わせると、かなり下側の平地に残されている雰囲気、今度は市道側の草地下部付近に移動すると・・・・。



 かなり怪しい・・・








 どうやら空堀跡を発見・・・かなり地域の生活空間に近い場所にあって違和感を覚えるも図面に示された位置と合致、また紛れもない堀跡であると確信する。


 それでも前回の深山宮探訪でみた斜面下の段差や空堀跡のことが気になり、そのまま北西側の斜面を八幡社めがけて進む・・・・。



 
 さらに前回以上に周囲の山野も探索するも前回以上の収穫はなかった。






 本堂舘・・・・

 探訪した状況や図面によれば、遠野では珍しい平城ということになります。
 また、築かれた年代は、鎌倉期となりますかね?。
 松崎町駒木の阿曽沼館跡、そして綾織の谷地館は鎌倉時代に築かれた城館であるという・・・まさにその造りに近い雰囲気でもありますが、俗にいう安部時代の名残を残した館跡なのか?・・・ほとんど山城ばかり見てきた小生には新鮮な思いがしております。


 また資料によれば舘主を本堂某と称し、隣接山野(観音森)には観音堂を配し、信仰心の厚い一族であったのではと推測されておりますし、その本堂を守護していたことから「本堂」氏を名乗ったと見解が記されている。

 なるほど・・・根拠が見えそうで見えませんが、そんな雰囲気は十分感じ取れる内容でもあり、前回探訪した深山宮の前身との関連性とか、六角牛山を中心とする信仰との関連等、何かしら民俗分野から導き出せそうな思いはしております・・・が・・・やはり難しい・・・。






 市道側から・・・



 堀に囲まれた下部部分がかつての主郭で屋敷があった場所、そしてその上方の社がある山野は宗教的な儀式の場所か?或いは戦時に籠る意味合いがあった場所なのか?この館もかなり難解な雰囲気でもある。


 

深山宮と本堂舘跡

2009-03-28 18:56:56 | 歴史・民俗
 青笹町中沢に住む先輩が、この程、深山宮(しんざんぐう)の世話役に就任したとかで、役を拝命したとはいえ、別当家は既に無く神社の由来や歴史を知る術がなく、しかもほとんど何も知らないので、よかったら調べてくれないか・・・と以前に相談を受けておりました。

 当方としても、この分野は詳しい方ではないので、早速、ブログ仲間の笛吹童子さんに相談、何はともあれ、まずは現地を探訪してからということで、本日午後に共に探訪調査をして参りました。











 情報では遠野遺産に認定申請をしたとか、されたとか・・・どうやら既に認定済みらしい・・・。
 
 ということは、大方の由来や歴史については、地元でも十分把握されている雰囲気でもあり、簡略な由来等は我々が改めて依頼者に明らかにする必要はないと判断しましたが、自己研究という思いに切り替えました。


 石段を登って行きますと、案外大きな社に驚く・・・・。



 近年、茅葺屋根をトタン葺に改装したそうですが、社の下にある別当家は空家となって、少し廃れた時期もあったと想像もできる。
 しかし、こうして地域で遠野遺産に申請、廃れかけた歴史や文化が食い止められたという思いがしたのも事実で、なんとか守り伝えていただきたいと思ったところです。



 地域では八幡様とも呼ばれているそうで・・・・



 中央には八幡様が祀られております。







 白布に包まれた像は、かつて観音堂があって、そのお堂が焼失した際に焼け出された像なようです。





 1600年代後半の年号が入った棟札も以前に確認したと笛吹童子さんが仰せでしたが、今回は探し出せず・・・というより別当家にあるものか鰐口も見当たらず・・・・なんとか見つけ出した棟札の中で古いものは安政年間のもの?・・・・よく目にする地頭、中舘氏の名が・・・・。



 修験は大徳院長学坊とあるようです。


 また、江戸時代に近在で寄進した人々の名がズラリと・・・・寛政年間と文化年間のものが残されております。






 遠野南部家臣では末崎氏、小笠原氏、両川氏の名を確認。


 ということで、間もなく4月となろうとしているのに、雪交じりの寒風の中を探訪、道路沿いの低めの山野ということで、軽装で挑んでしまいましたが、別情報ではかつては館跡ではなかったのか、近隣での伝承に隣接する場所が館跡という内容もあるとかで、こちらの分野での期待も実は大きいのも本音でもありました。

 ですから周囲にも目を凝らして地形なんかも注視しますと・・・・



 社の東側山野には、館跡と思しき形状は確認できませんでしたが、西側の斜面には、4段からなる段差を確認、さらに消えかけておりますが、空堀跡と断定できる形状も確認いたしました。



 今回は軽装であったこと、館分野での下調べが皆無であったこと、昨夜の飲み過ぎで少し体調不良でもあったことでもあり、笛吹童子さんと別れた後は即帰宅したのですが、帰ってから例の資料をみますと・・・・「本堂舘」とあるようです。

 場所的にも合致、隣接山野に八幡神社、今は農地として削平されておりますが、空堀跡も現存するとかで、後日再調査の予定でもあります。
 また、神社のある森は観音森ともいわれ、舘跡と共に月山、今は八幡神社である深山宮の知られざる歴史も何かしら垣間見られそうな興味ある館跡でもあると感じております。



阿修羅堂調査と坂牛氏

2009-02-26 14:12:39 | 歴史・民俗
 平成21年2月某日、遠野における郷土史、民俗分野で活躍されるお二人が、土淵町にある阿修羅堂調査を行うということで、及ばずながら小生も同行したいと手を挙げておりまして、この程、日程等の調整が成り共に訪ねて参りました。




 お二人とは・・・笑・・・ぶれんど歴史民俗班の「“about” blog」のaboutさん、そして「遠野なんだり・かんだり」の笛吹童子さん・・・・時折中年探偵団として遠野市内の史跡やら寺社の共同探訪をしております。






阿修羅堂・・・土淵町水内


 今回もaboutさんの下準備のおかげ様で、別当さんの立会で見学できるとのことでしたが、別当さん宅のご主人が風邪で寝込んでいるということで、鍵のみお借りしてお堂に向いました。


阿修羅像



 遠野では珍しい阿修羅堂、といいますか東北各地でもかなり珍しいのではないのか?
 阿修羅(アシュラ)とは帝釈天と戦いを繰り広げ、その戦いぶり等からなりふり構わず奮闘する姿を「阿修羅の如く」とか、争いが絶えない場面、凄惨な場面を「修羅場」といわれる語源でもある。

 
 ということで、阿修羅堂の建立等を残される棟札等から解明、さらに関わった人物等を確認すること、また伝えられる謂れから現地調査で何かを得るといった内容でもありますが、なかなか難しいということは否めないものでもあるようです。




 確認できる棟札では明和3年(1776)が一番古いものでしたが、同年代かとは思いますが、左端が一部欠けた古そうな棟札もあり、欠損部分に何か文字が入っていた可能性が高く、かなり残念な思いでもありました。





 後に別当さんの奥さんが加わり、伝承等をお聞きしながら、それぞれ妄想やら推測を巡らせて有意義な時間を過ごすことができました。

 ちなみに木食上人の足跡があったという言い伝えやら、このことを調べに来られる研究者が多いというお話も伺うことができましたが、地元に居ながら阿修羅堂の存在は知っていても今回が初めての訪問であったこと、もっと地元学に眼を向けなければと反省しております。





 ちょっとボケ画像ですが・・・・汗


 書かれている関係人物では・・・

 檀主 八戸弥六郎義顔(遠野南部家第7代当主・遠野領主)・惣奉行 坂牛新五左衛門 祐賜・御用懸寺社奉行用書 石川門治郎 昌秀・遠野懸合 川原木小兵衛 綱保・所代官 米内弥太夫 吉福・及川五右衛門 恒節・遷宮導師 花厳院・別当 千助(別当家)

 さらに別棟札には願主 中館十兵衛政福 

 まずは、前出の関係者7名ですが、八戸弥六郎義顔は遠野南部家の殿様で第7代当主、八戸家(遠野南部家)の分家である附馬牛八戸家から本家を継いだ殿様で、歴代の中でも名君の誉れ高き殿様と言われております。天明5年正月11日逝去(1785)。

 次に坂牛氏と石川氏、この二人については、後記で詳しく記しますが、遠野南部家中に見えない姓名であり、おそらく盛岡南部家の役人であろうという想像でしたが、やはり藩の役人であるようです。
 また、川原木、米内、及川は遠野家中の役人であるようです。

 さらに別棟札にある中舘十兵衛政福とは遠野南部家の家老加判役のひとりで、中舘本家ではなく分家の当主のようですが、中舘氏に関しては寛永11年の知行地を見ますと 中館勘兵衛 糠前村(青笹町)、細越村(上郷町)、佐比内村(上郷町)の五百石であり、土淵方面とは無関係であるようです。
 中舘氏分家で中舘金次郎70石、土淵村、東禅寺村(附馬牛町)、上栃内村之内(土淵町)があり、おそらくこちらの系譜ではないのかと思われ、その子孫では幕末の頃の支配帳には中舘十兵衛60石とあることから、分家である中舘氏であると推察されます。
 なお、弥六郎義顔時代の家老加判役には中舘勘兵衛照澄と中舘十兵衛政熙の二人の中舘氏が存在することから、勘兵衛は本家、十兵衛は分家といった立場であったものと思われ政福とは政熙だと思われる。
 よってこの阿修羅堂がある一帯は土淵村で中舘氏分家の知行地でもあったと思われます。



〇坂牛新五左衛門

 南部藩関連の書籍等や資料だと思いますが、案外目にしていた名でもあったような・・・そんな記憶が若干あったのは事実で、現地調査での棟札を見た際は遠野南部家中の人物ではなく、盛岡南部家中の人物と即反応しました。

 例のいつもの書籍「南部藩参考諸家系図」で調べますと・・・なかなかの人物だと判明、しかも遠野との関連も決して薄いものではないようです。


 坂牛氏とは工藤小次郎祐行、すなわち厨川工藤氏の末裔で、南部藩士307石の家柄(坂牛本家・坂牛伊右衛門祐豊家)
 新五左衛門はその分家の治左衛門家(祐豊二男)50石

 新五左衛門の才覚なのか、文官として優秀だったのか、もの凄い出世をしている人物である。
 
 盛岡第7代南部利視公時代、享保18年家督相続 50石
 盛岡第8代南部利雄(としかつ)公 宝暦7年2月 御勘定頭御側役兼帯 100石加増 計150石
 宝暦11年5月 寺社御町奉行 100石加増 250石
 
 この寺社奉行時代に遠野阿修羅堂と関わりがあったものと思われる。

 明和3年 御側用人 100石加増 350石・・・翌4年、大向伊織と改名 さらに150石加増 都合500石

 明和6年 側用人兼帯御花巻郡代
      坂牛姓に復姓 坂牛新五左衛門
      やんごとなき事情によりお役御免、家禄没収・・


 さて、50石から10倍の500石の大身と出世、尾去沢銅山を藩直轄として、盛岡中津川の橋脚架け替え工事、夕顔瀬橋の工事に手腕を発揮したことにより、太守である南部利雄の寵臣となったと伝えられている。
 
 明和6年に失脚ととれる内容ではあるが、実は公文書偽装の罪とされるが、新五左衛門は、南部の人間ではなく、芸州(広島)或いは備中(岡山)の浪人といわれ、国許で罪を犯して出奔、流れて奥州に着き、なんらかの事情で坂牛家の養子となったと思われる。
 国許で同僚を斬り出奔、当時他領は国外との位置付けで他領で罪を問われるものではないが、唯一、仇討であれば許される事柄で、新五左衛門はこれを恐れて逃げていたということですが、太守利雄に従って江戸参勤に出向いた際に仇と狙う人物と遭遇、驚いた新五左衛門は南部藩重臣としての地位を利用して公文書を偽装して相手を呼び出して帰り討ちにしたとかで、これが発覚して家禄没収となったようでもある。・・・真相は不明。

 はじめ中野家に預けられたが、明和6年12月に八戸弥六郎に預けられ、遠野へ移送、鍋倉城内御馬屋の番所に幽閉されたが、後に遠野南部家重臣是川孫左衛門屋敷の座敷牢に入れられ明和7年牢死したと伝えられる。



〇石川門治郎 昌之
 
 石川六郎家 7駄3人扶持

 本家の石川家は300石、大崎氏家臣の石川郡主、高清水城主、石川内膳之末裔。




 蝉の抜殻発見・・・抜殻のようにとは言わないが、少なくても輝かしい実績の証拠として何かを残したといえよう・・・。

 
 遠野領の堂社に関わりが若干認められる坂牛新五衛門、その最後の地が遠野であったこと、今回の阿修羅堂を訪ねたことにより、その関係が判明といったところで、やはり郷土史分野は奥が深く幅もかなり広いとあらためて思ったしだいです。


なお、阿修羅堂本来の考察やら詳しい内容はaboutさん、笛吹童子さんのブログで後日エントリーされるものと思います。
 



 おまけ・・・ふたつ


 米田屋・・・中華そば


 
 久しぶりに米田屋の中華そばをいただきました。



 ネネ

 壊れてしまった居間のテレビ・・・ついに新しいテレビを買った・・・汗
 


 いつも違う雰囲気といいますか、テレビの色合いか?形か?ネネもテレビを観てご満悦の様子・・・笑

  

あしざわ不動堂

2009-02-18 19:04:10 | 歴史・民俗
 ビリッと冷えた朝、さらに時折青空が見えるものの、雪交じりの寒風もあって、かなり寒いと感じた一日でもありました。


峠は吹雪模様・・・綾織町小峠



 さて、遠野では福泉寺や常堅寺を手がけた名工小原樗山の系譜として樗山の御子息、喜三氏の遠野での足跡を調べられている「遠野なんだりかんだり」主宰の笛吹童子氏が私の地元、松崎町駒木におけるふたつのお堂建設についてエントリーされておりますが、同氏により、そのひとつ菊池家のお稲荷さんは判明し訪問済みなようですが、もうひとつ、T家の不動堂、こちらも駒木にはその姓、一軒のみですから、こちらもある程度は近づく内容でもあるようです。


 現屋敷のお堂



 ちょっと前、福泉寺檀家役員の寄り合いの際に、檀家の古老にT家のお不動さんについて聞いてみますと、あしざわ(鷲沢)にあるお不動さんのことではないのか・・・とのこと、すなわち福泉寺境内の新四国八十八ヶ所霊場の最奥部に湧水を湛える池があり、さらに足沢とよばれる沢が流れている場所に、不動明王を祀り、不動堂も建っていたことを思い出す。
 まさにその場所とのことであるが、7~8年前にアップダウンが激しく、小路も狭いということで、八十八ヶ所霊場は、歩きやすいように整備され、最奥部に至らないルートに造り替えられた経緯があって、今は道もなくなり、お不動さんは別場所に遷され、お堂もなくなったと記憶しているが、これに関しては記憶が曖昧なので、気候がよくなったら現地調査か、作業にあたった寺関係者に聞いてみようと思っている。




 今回、家人の立会なしで訪問ということで、お堂の扉は開いていたものの、棟札含み中のものは確認はしていない。
 お稲荷さんが祀られていること、古い棟札数枚もあることは視認できましたが、同じ集落内、家人は幼馴染とはいえ、やはり他所の家のものを勝手に手にとるということはいかがなものかと思いとどまりました。


 さて、同集落で密かに情報収集をしましたが、今から10年位前のことなそうですが、新四国八十八ヶ所霊場の最奥部にあったお不動さんを現屋敷に遷し、お稲荷さんと合祀したようです。
 かつては福泉寺と隣接した場所にお不動さんがあったこと、このことはやはり確かだったようです。

 今回、画像は撮り忘れましたが、このお宅と至近を流れる大沢川との中間点に、共に移した石が立てられております。



※足沢(古地名)・・・鷲沢が訛ったものとの見解で、地元では「あすじゃ」と呼んでいる。




本日のネネ

 寒い日でもありましたので、暖かい部屋で寝ていてばかり・・・いつもの如くですがね・・・笑



一明院之墓

2009-02-05 18:24:40 | 歴史・民俗
 立春も過ぎて暦どおりの穏やかな日となった遠野地方、遠野プロガーの中には春の先取りやら小さな春を探した方々もおられたようですが、先日の積雪がまだまだ融けずに残されている我家近辺、小さな春探しはもう少しだけ先になりそうです。

 ということで、柔らかな日差しに誘われて菩提寺福泉寺を散策、参道~本堂~お稲荷さん~大観音~白衣観音~五重塔~仁王門と約1時間、前半は登りも含め少し汗ばむくらい、足腰に負荷もかかり、平地の散歩よりは筋力保持や強化にはもってこいでもありますし、何といっても積雪があるので、いつもよりはきつい行程でもあります。


大観音堂・・・閉山中(3月末まで)



一明院、白山、山神を祀るお堂







○一明院

 寛永4年(1624)八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部家)と共に大慈寺も遠野入り、大慈寺は駒木村海上の廃寺に入ったと伝えられ、後に光興寺へ移り、さらに城下へと移りますが、海上の大慈寺跡には山伏の一明院が入ったと伝えられる。
 一明院三代といわれ、後に空家となるも、中野に住まいする松兵衛の家が野火により全焼したため、一明院跡の家に入ったと伝えられている。
 この家は屋号「坊さま」といい、山伏、修験者は坊様と昔は呼ばれていた。

 大正時代以降、敷地にあった一明院の墓石を開山した福泉寺に移した。


一明院之墓


 以前にも記しておりますが・・・墓石には・・・

「権大僧都前一明院宣恒
「権大僧都前一明院音寛   安永三甲午年  三月初八日」





 別資料には・・・

 大徳院
 駒木村一明院由緒
 初代 一明院栄宥
 土淵村喜楽院の次男。父より継法長円坊と名乗る。
 万治元年 一明院と名乗り駒木村海上の地、大慈寺跡に小庵を建て住す。
 宝永元年甲申7月13日死去

 二代 一明院宥観
 栄宥の嫡子。長円坊と名乗る。
 正徳元年 一明院と名改。
 享保9年12月15日病死

 三代 一明院普観
 宥観の嫡子。
 享保9年2月坊跡相続。享保9年11月多宝院弟子に罷成、明徳坊と名乗る。
 享保15年發丑9月一明院と名改。


 ということが遠野南部修験関連の資料に記されていたが、どうもイマイチ理解できないといいますか、この分野、靄がかかったかのような状態であり、喜楽院に大徳院、本山派に羽黒派・・・笛吹童子氏の「遠野なんだりかんだり」に数多く登場する内容ではあるので、彼のブログにて修験として記されたところを何度も読み返したが、それでも解消されたわけではない。

 江戸期の遠野における修験の対立構造があったことは、少し理解できたが・・・おおよそ・・・大徳院を代表とする本山派と慈聖院や善行院を代表とする羽黒派が霞場争いを含めて争っていた・・・これは理解できるが、一明院由緒には大徳院とあり、さらに羽黒派と思しき喜楽院の子であるという・・・・いずれ笛吹童子氏にこれらのまとめ、特に本山派と羽黒派の争いの図式と共に両者の修験者名とかご教授いただかなければと思っております。

 当方もみた資料を書き写したに過ぎず、大徳院の文字の前に「同派」とあったような・・・この派とはなんであったか再度確認したいと考えております。


 それと一明院は3代であったという伝承はその通りであるが、中野集落の大火、これは明治初年或いは幕末の話といわれ、松兵衛が一明院跡に移ってきたのは、幕末~明治初年ということになり、世話人は駒木村の判四郎とされる。
 また墓石には2代のみが刻まれており3代目は他所へ移ったとみるべきではないのか?享保年間以降間もなく3代目一明院は当地を去ったものなのか?
 疑問や謎ばかり増えますので、このことはまた折あれば・・・ということにして・・・。


海上



 土淵方面を霞場としていた喜楽院は駒木方面までその管轄としていたようでもあり、駒木も喜楽院に連なる名が見えてもおかしくはない。
 また小生から数えて7代前の先祖が俗別当として名を残す愛宕社、これらとの関連はいかに・・・?
 

愛宕大権現・・・福泉寺境内



 福泉寺が開山以前は、本堂が開かれた場所の大杉の根に祠が立て掛けられた状態であったという。
 後に祠ごと本堂に納められたようです。現在は画像のように立派なお堂となっております。
 

中館(中館屋敷) 青笹町

2008-12-22 18:29:51 | 歴史・民俗
 朝、子供達を学校へ送って行く頃は霰が降っておりましたが、霙に変わりやがて本格的な降雪がお昼過ぎまで続き7~8センチの積雪となりました。



 22日午前9時頃の画像


 寒い日もあったけど、案外穏やかな12月と思ってましたが、クリスマスに合わせたかのような積雪、雪は少ない方が良いけど、それでも降る時に降らなければね・・・・笑



○ 青笹 中館探訪

 12月21日、以前当ブログでエントリーした遠野菊池氏関連にて、青笹中下の菊池系図に関わる舘跡として、鳥古屋砦(館)のことが記述されており、青笹赤羽根辺りの山野に何か館跡と思しき形跡はないかと思い、赤羽根地区の通りをゆっくり車で流しておりますと、八坂神社のある山野西側に空堀跡か?と思えるような形状を確認、山も高くなく、歩きやすい雰囲気でもありましたので、訪ねて参りました。


 
 山というより丘陵といったところ、頂部の平な場所は農地として整地されてはおりますが、さほど手を加えなくても平な場所だった雰囲気が感じられる。



 車中で城館跡の例の資料を見ると、場所的に中館という近世屋敷跡と判明、いささか拍子抜けといったところでしたが、簡略図面には4本の堀が描かれ、屋敷跡というより平山城(館)そのもの、図面と現在地を照らし合わせて早速、空堀探しからはじめる。

 西側中央部分の空堀


 西側の郭との境を区切る堀切というべきか、雰囲気的には山野の西外れまで館跡のようだ。


 背後の空堀





 深さ、幅共に遠野では大きい部類で残存度も良好、今年見た堀跡では一番大きい。


 東側、八坂神社側からの空堀


 北部分の帯郭



 ☆中館・・・遠野市青笹町糠前(赤羽根)
  
 平山城 標高325・比高25   丘陵・堀・八坂神社・墓地
 館主 中館勘兵衛政常(八戸家家老)
 使用年代 南部藩時代(江戸時代)


 近世に使用されていた館跡ということで、空堀跡は明確に残されておりますが、帯郭等の段差ある形状は近年に農地とされていたと推測され、若干であるが平削された雰囲気を感じる。

 空堀が枡型に東西南北に走り、それぞれ仕切られ4つの郭によって構成されている。
 主郭は八坂神社側の一段高い平場と思われますが、形状はかなりの相違がありますが、雰囲気といいますか、考察するに八戸根城のミニミニ版といった雰囲気が小生は感じられました。
 八戸氏重臣の中館氏、遠野に移って来てから故地八戸根城の雰囲気を残す館を築いたものなのか?



 八坂神社





 祭神・・・須佐之男命(スサノオノミコト)



 さて、舘跡について地元の方に訪ねてみようと思い、八坂神社前の地区集会場に車を止める。
 天の助けといいますか、丁度集会所で地域のご年配(老人クラブか?)の皆様の集まりがあったようで、運よくお帰りになるご年配の男性が出て来たので訪ねてみると、この男性、かなり地域の歴史についてお詳しい雰囲気・・・色々と講釈をいただき、たいへん参考になりました。

 舘跡の一角に墓所がありますが、遠野南部家老中館一族の墓所との言い伝えとか・・・。



 中館氏といえば遠野南部家では新田小十郎家に次ぐ第二席の家柄、野辺に墓所があるとは考えられない、あったとしてもある時期に然るべく菩提寺等に移されているとみるべきでは・・・・(喜清院がかつてこの近辺にあったというのでその名残か?)

 それと中館氏といえば鍋倉城三の丸に屋敷があったと伝えられているが、何故に館形式の屋敷が青笹にあったのか?
 三の丸の中館屋敷は慶安4年(1651)に鍋倉城本丸が飛び火で焼けた際に類焼して福田屋敷と共に全焼したとのことで慶安4年以前から三の丸に屋敷があったことになります。

 

 水堀跡






 今は水量の少ない単なる水路と化しているが、お話を伺ったご年配の男性が若い頃は小川であり、釣り等魚捕りもできた流れであったと言います。
 かつての水堀だったとも言われております。

 なるほどと、十分その雰囲気が感じられます。



 最後に、遠野南部氏重臣、中館氏の知行地に糠前は含まれており、他に細越村、佐比内村(上郷)となっている。
 遠野入部当初は新田氏、中館氏、岡前氏の八戸時代からの大身は大守南部利直よりその知行地の指定がなされており、伊達藩との境目の地域に割り当てられ、これらの家臣達が番所に勤務していた関係で中館氏は青笹に一時期屋敷を構えていたのではないのか?

 しかし、平山城とはいえ、その構えは物々しい内容でもあり、中館氏以前から存在した館跡をさらに修復して使っていたのではないのか?このことが見え隠れする思いでもあります。




○ お知らせ

 「遠野ぶれんど忘年会」
日時・・平成20年12月27日(土) 午後6時30分開宴
場所・・タントタント(中央通り)
会費・・ご心配なく・・・笑



本日のネネ



 笑うしかない格好・・・。




鍋倉城南郭小探訪

2008-12-19 17:12:47 | 歴史・民俗
 本日もスカッと晴れ渡りましたが、良かったのは午前中で見事な遠野ブルーが広がっておりました。
 小生、当直明けでしたが、当直夕方から翌朝まで色々とあって、その事務処理的な内容で帰宅時間がいつもより遅くなり、青空ハンターに出遅れてしまいました。


 ということで、お昼頃でしたが、予てより少し見てみたい城跡の一角があって障りだけですが探訪して参りました。


「鍋倉城(遠野城)」南郭部分



 某果樹園様の敷地に隣接するということで、進入路はりんご畑をかすめるように密かに鍋倉山へと向かう。


遠くから見ても4段のしっかりとした帯郭跡が確認できる。


 

逆側・・・下部方向




南部分の帯郭









 鍋倉城の前面となる城下側(北側)は沢里屋敷や三の丸といった北側斜面は大型の帯郭が見られ、流石遠野の主城といった威厳があり、紫波高水寺城の帯郭となんら遜色はない。
 鍋倉城の裏側といった南側部分は、公園といった意味合いでは、整備がよく行き届いていないという印象もあり、また城館跡ファンも詳しく探訪しない領域であると小生は認識をしております。

 今回は、それでもかなり歩きやすく見やすい一部分の探訪となりましたが、残存度良好の帯郭の数々、空掘跡と思しき遺構も確認でき、市民公園である鍋倉城跡でも城館跡本来の探訪を目指すなら東部分から南東側にまだ人の目に触れ難い遺構の数々が残されている雰囲気でもあります。


空堀跡





 何度となく訪れている鍋倉城、遠野を代表する城館跡であるので、城館跡資料や書籍のほとんどにも取り上げられ、ほぼその全容は網羅されているのですが、それでも郷土史関連では鍋倉城の各郭の名称等、実は案外その詳細を知らないという場面でもあります。
 本丸、二の丸、三の丸・・・というのはお馴染みの内容であり説明板にも示されておりますが、郷土資料に出てくる南館や東館、さらに同じ意味があると思いますが南郭とか・・・・この中でも南郭とは、南館とは・・・・・・。



 さて、手持ちの郷土資料、書籍、城館跡関連資料に書籍、これらを少し眺めてみると・・・・

 「北館」は沢里屋敷・「東館」は三の丸(中館)中館屋敷、福田屋敷
 「西館」は二の丸(新田小十郎屋敷)・「南館」は小新田屋敷

 すなわち南館とは某果樹園様お宅の上方の山野ということになりそうですが、今回、小生が主に見た帯郭が展開する斜面の上方にも小さいながらも平場があり、来内側に突き出た防御の拠点といった雰囲気でもあります。


平場


 むしろこちらの方が南館か?・・・いずれいつでも探訪できるという強みのあった城跡ながら実は表に見える部分のみで、隠れた部分はまだまだということが実感されましたので、今後、じっくりとその解明もしたいと考えているところです。








 おまけ

 今回はキツネどんと出会いました。




 ちょっと大きい画像は・・・こちら

大将屋敷跡(大将洞館)

2008-12-17 19:19:06 | 歴史・民俗
 腰の違和感は若干あるものの、比高の低い城館跡ならなんとか探訪できそうということ、さらに積雪の季節到来も間もなくといった予感もあって、できるだけ探訪数を稼ごうという気持ちもあって、平山城といいますか屋敷跡といわれる土淵町飯豊の大将屋敷跡を探訪いたしました。

 大将屋敷跡は今回で3度目となりますが、大将稲荷やその周辺を少しみただけで舘跡特有の遺構等は未だに確認はしておりませんでした。


入口・・大将稲荷



館跡周囲


 なだらかな斜面となっておりますが、ほとんどは牧草地、畑となっている。
 画像中央奥の斜面には大将稲荷が鎮座している。


ボケ画像ですが・・・大将稲荷社



飯豊集落方面



さらに一段高い場所から



☆大将屋敷跡

 地元で大将洞と呼ばれる場所にあったといわれる屋敷跡と伝えられている。
 資料には花館側の山野斜面に4段の段丘が認められ、特に3段目は長さ130メートルに及ぶと記載されている。
 その時代や館主については一切伝えられていないが、飯豊地区は3つの沢からなる地域で、西から宮沢、大将洞、君洞であるが、青笹町沢田寄りの山野は花館跡に続く山野であり、この大型城館花館との関連性が見え隠れしていると感じるのは私だけでしょうか?

 舘跡を探訪調査されたお二人の先人史家も花館との関連性を視野に入れていた雰囲気は大いに感じられるも、実際に地域に大将屋敷との関連性を伝える内容が語られない現実もあり、まさに謎、不明ということになります。


館跡らしい形状が若干みられる山野


 段差らしい形状はみられますが、130メートルにも及ぶ帯廓的な段丘は確認できず・・・。

 ただ、もう少し奥の山野斜面にははっきりとわかる段丘が認められ、この方面にその遺構があるかもしれない。
 しかし、下部は明らかに人的に、しかも近年に農地として削岸された形跡にもみえ、さらなる詳しい探訪は必要と考えております。

 私的妄想では南北朝時代の南朝方陣営、そして菊池一族の匂いがする飯豊なんですがね・・・笑

 
 斜面登り等の苦しい場面はなかったが、それでも途中から腰の辺りが苦しくなりだし、大事をとって撤退といたしました。
 
 仕事にならない腰痛は小生にとっては死活問題でもありますから・・・・汗


周辺の風景



 大将稲荷大鳥居からお稲荷さんまでの道のりには、画像の風車が取り付けられております。
 ペットボトルを利用したものなようです。



「えなっこ」と「あねっこ」






 おまけ

 ネネ興奮中

 某ブログの猫画像を見ていたら急にPCが置いてある机に飛び上り、マウスを攻撃・・・・怒









 少し強く叱って机から降ろしたが・・・・



 ちょっと面白くなさそう・・・・。

高館 (小友町)

2008-12-09 20:43:08 | 歴史・民俗
☆高館・・・遠野市小友町鷹鳥屋
      標高480メートル・比高126メートル
      館主・不明




 遠野市小友町鷹鳥屋地区の北、物見山の南西に位置する山野にある。
 館跡は急な斜面となっており、北東の斜面続きの尾根を3本の堀切で断ち切り、空堀は山を取り巻くように相互に駈け下っている。

 主郭は南北約50メートル、東西約10~20メートル

 南東側斜面に3段の平場、南側斜面にも断続的ながらも5段程度の平場が展開されている。



最奥部の空堀(堀切3重目)



2重目



主郭背部の堀切



空堀・・・主郭西側下






主郭平場



帯廓



 3重の空堀やら堀切を残す館跡、まさに遠野規格型に相応しい構えで、空堀も判然としており、かなり高感度であり、しかも青笹町の中沢館以来1年ぶりに見た思いがいたします。

 雰囲気は同じ小友町の奥友館を2回りほど小さくした感じや土淵町の本宿館の作りに似ていると感じました。


 真下には鷹鳥屋館(平山城)が手に取るようにみえますが、鷹鳥屋館の見張り的な役割があった館ではないのか?と考察されたりもしているようです。
 館の構えは極めて戦国的であり、鷹鳥屋館が造られる前のこの地域を治める人物の居館だったのではないのか?という雰囲気もしないでもありません。

 高館と古くから呼ばれているようですが、妄想ながらも鷹鳥屋の「鷹」を使っての鷹館だったかもしれませんね・・・・。


空堀の合流地点




 館跡資料によると、かなりきつい斜面登りと高所にあるといった雰囲気、館下のお宅で場所を聴いてから山野突入となったが教えられた場所は空振り、結局は谷に降りては別峰への登りが3度、全身サウナ並の汗をかきながらの山野徘徊、結局山頂も極めましたが、遂に発見できず・・・・。
 高さは南に見える五輪峠と目線は同じ、標高700メートル地点までは登ってきたことになります・・・それ以上かもしれません。


平笹集落方面



土室、物見山方面

 

 あきらめ下山となりましたが、何処で間違ったのか尾根ひとつ西側を降りて来たようで、丁度半分位の高さの場所に平らな尾根が・・・・その場所に堀切が・・・大汗・・・なんともいえない発見劇でした。

 それでも資料のとおり斜面はきつく、高さも結構ありました。


 岩手のGOさんや山猫さんになった気分・・・汗・・・謝・・・ですが、実は10日程前から腰に違和感が・・・痛いというわけではないのですが、仰向けに寝ると腰の辺りが苦しくなり、ソファに少しゆったり座っても同じ症状・・・でも歩いていると何も感じなくて、ついつい山野徘徊に出かけてしまうんですよ。

 しかし今回のは、かなり腰に効いたようです。かなり違和感が・・・腰の筋肉通なのかもしれませんが、数日館跡探訪は見合わせようと考えております。


高館