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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

土淵町米通川流域館跡探訪

2008-12-08 20:45:08 | 歴史・民俗
 予てより土淵町栃内地内にあるという「なれえ館」探訪の際にご同行をお願いしておりました「遠野ぶれんど」仲間であるaboutさんと共にふたつの舘跡を探訪いたしました。


☆なれえ館(西風館)
 土淵町栃内、米通川と琴畑川が合流する東側の山野にあるといわれますが、例の舘跡関連資料を見てもどうも場所的にピンと来ない・・・・。
 米通川も琴畑川も小烏瀬川に各々合流しているものとばかり勘違いしておりまして、今回、同行いただいたaboutさんの存在は大きく、続石、地元の御仁であると頼もしく思いました。

 さて、「なれえ」とは漢字では「西風」と書いて「ならい」と読むのが遠野では通例ですが、訛っての「なれえ」?なのか?・・・資料によりますと「なれえ」とは日蔭を意味し、陽が当たらない場所のことを指すようでもあります。

 資料には大型段丘含み最大10段の段差、さらに竪穴跡5個、別斜面にも8段からなる段差がみられ、これほどの舘跡が何故に地元で伝承されてこなかったのか・・・と記述されている。


米通川側の山野






 場所的には資料に示される山野で間違いはなさそうであるが、舘跡特有の段差がほとんど確認できなかった。
 今回は米通川側の山野と琴畑川沿いの山野の間、すなわち谷間的な場所から進入し、まずは米通川寄りの山野へ分け入った。
 こちら部分に資料では遺構が随分と残されているように記述されるも尾根沿いを主に調べたが遺構等は皆無に近かった。

 次に谷間を挟んだ逆側の山野に入るも、若干竪穴跡か?と思える大穴数個を確認するも少し違うような・・・結局空堀跡と思しき溝も発見するもどうやら近年に作られた山林作業用の林道という雰囲気、まさに館跡という雰囲気はあるも確証は得られずということで、結果的には空振りといった内容でもありました。


琴畑川と米通川合流点付近に祀られるお不動さん




 舘跡探訪は空振りに近い内容でしたが、素朴ながらも神秘的な雰囲気が漂うお不動さんを見、まずはこんなこともあるさという思いで、二人で車を駐車した場所にて、しばし神社のことや産鉄のこと等も含めてミニ反省会。

 そんな中、手持ちの資料で気になる場所があってaboutさんに聞いてみますと、すぐ近くですとのこと、折角ここまで来た事、内容が不本意であったこともあり、早速ご案内を受けて米通集落へ移動となる。


☆角地山・・・土淵町米通




 「かくず(ぢ)」・・・角地

 遠野市内には「角地」とされる場所が数か所存在しているといい、その場所には舘跡やらそれと思しき箇所があると見解が示されている。

 舘跡探訪調査で訪ねた附馬牛町大萩の角地、ここは紛れもない館跡でありましたが、米通の角地と大萩の角地の雰囲気がよく似ていたことに驚いております。




附馬牛町大萩の角地山



 かくぢ・・・とは

 裏という意味らしいですが、家の裏とかの裏といった意味合いもありそうですが、何か歴史的に隠された内容があっての呼名なのかもしれません。


米通集落



 さて、米通お神楽様の上方山野ということで、尾根沿いに段差が設けられている雰囲気、しかも興味をそそられるのが、山頂の平場は五角形を成しているということ、資料には城館跡というよりも防御性集落の類で宗教的な匂いも感じさせる。

 早速二人で尾根沿いを進む、傾斜もそれほどきついわけでもなく歩きやすい尾根でもありましたが、山頂に至るまで資料に示される段差等の遺構は確認できなかった。

 ここも空振的な雰囲気が漂うも、なんとか山頂らしい場所に到着。



 五角形でなくてもそれに近い丸みを帯びた形状でも良しとする思いがございましたが・・・・。


逆側から


 なな・・なんと山頂のど真ん中に林道が敷設され、その形状が分からない、しかも笹竹も生い茂り、形状の確認は難しい・・・・。

 少し離れて画像を見るとなんとなく五角形なのか不明ながらもそれらしく見える・・・・しかし、林道によって肝心な部分が破壊されて、今回は確認はできなかった。

 場所的にこちらもほぼ資料の通りであり、場所違いではなさそうですが、他の遺構も確認できず、結局こちらも空振りといった内容となりました。



 先に探訪した「なれえ館跡」そして引き続き訪ねた「角地山」、どちらも安部時代という考察がされておりますが、尾根沿いに展開されていたという段差や竪穴の跡、資料では共通点が感じられますが、角地山に関してはかなり高所で、周りの山々との比較から標高は600メートルを越えた地点でもある雰囲気、防御性集落の詳細はまだ不勉強であり探訪箇所も少なくなんともいえませんが、水辺の近くで若干の高さの山野に挟まれた平地という固定観念が崩れる今回の探訪、遺構等は確認できませんでしたが、それでも若干の痕跡やらその雰囲気は感じられる内容であったことは確かなことでもありました。



ブンブン丸も間近




 鉄の歴史、このことが一番に感じられることでもあります。



 今回、ご同行いただいたaboutさん、たいへんありがとうございました。
 またよろしくお願いします。



鳴沢館跡

2008-12-04 20:21:42 | 歴史・民俗
 まさにセーフ・・・残された史跡というべきか、とにかく一応安堵という言葉が当てはまる内容ではありますが、遠野郷土資料や城館跡資料に掲載されていない館跡、宮守町上鱒沢の「鳴沢館」を探訪いたしました。








☆鳴沢館・・・遠野市宮守町上鱒沢(船渡)・・・山城

 舘主・佐々木氏  築使用年代 阿曽沼時代・・・他沿革等は不明

 遠野市関連書籍(遠野郷消防総鑑 絆)に記載されている遠野郷内の城館跡一覧のみに記述されている館跡であるが、詳細等情報は皆無に等しく、ただ館跡が残されているという山野の位置のみは地域の知人から教えられていただけ・・・山野の雰囲気から構造等をイメージするのみで、まさに未知の館跡と言っても過言ではありませんでした。





 
 自動車専用道路(釜石道)ルートを示すテープ表示・・・館跡山野1/3部分


 鱒沢から綾織町新里区間における自動車専用道路ルートが決定され、既に工事がされている区間もありますが、遠くから眺めただけでも鳴沢館跡がある山野もルート上にあると予想がついておりまして、できるだけ早期に探訪したいと考えておりました。

 綾織町新里の西風館の下部部分もそのルートに選定され、小生の叔父を中心に地域では西風館を残すといった意味と共に地域の歴史を後世に伝えようということで、第一回目の遠野遺産に申請し、認定されております。

 鳴沢館はどうなのか?まさか上郷町の篠館のように道路工事で消滅といったことも危惧しておりましたが、どうやら舘跡下の1/3程度が道路用地となるようでもあります。
 大方の部分はそのまま残るといった雰囲気で安堵しているところです。



 さて、道路用地として測量等も実施されているようで、山野は木々の枝打やら下草やらがきれいに刈られて比較的歩きやすい環境でもありました。
 今回は道路予定地となる林道沿いに進み途中から杉林となっている北向斜面から山野に突入しましたが、上部の尾根部分には土塁らしき形状や不規則ながらも階段状の形状が確認できました。

 ほどなくして山頂に到着、ここが主郭といわんばかりの形状が目に飛び込んでくる。


主郭部


 山頂を削平し、2段~3段の帯廓で周囲を囲んでいる。

 今回は主郭部の背部へ最初に至ったが、比較的広めの平場があり、常道ではこの部分に山野を断ち切る堀切や土塁があるはずだが、確認はできなかった。


主郭部平場


 東西約20メートル・南北約30メートルの平場であり、その平場から北西側の尾根部分を削平して下部に向って5段の小さな平場が展開されており、北東側斜面には不規則ながらも数段の帯郭、一部空堀跡とおぼしき遺構が尾根沿いの平場下からそれぞれ下っている。


尾根沿いの段差



尾根沿い平場下の空堀跡





北東側斜面の帯廓



西側斜面の帯廓


 西側は急斜面となっており、3段程度の帯廓が確認できる。


南側斜面の帯廓




 空堀跡と確信できる内容ではありませんでしたが、判然と残る帯廓や段差のある平場、土塁といった遺構は健在で、好印象の舘跡でもありました。

 雰囲気は上郷町の駒込館(瓜ヶ森)に似ておりましたが、主郭部が判然としており、ここが本丸であるという誰が見てもわかる構造の舘跡は初めてみた思いがします。

 ただし、背面には平場を挟み、さらに高い山頂が控えており、もしかするとその部分に堀切等の遺構が残されているかもしれません。
 今回は、誰が見ても此処が本丸跡と思える形状に騙され、その部分を主に探訪してしまい背後の山頂は探訪しておりません。

 いずれまた探訪の機会を得て、さらに調査したいと考えております。









猿ヶ石川を越えて向いの城館跡・鱒沢館



 鳴沢館主の佐々木氏・・・鱒沢氏の家臣的立場であった雰囲気も感じられ、鳴沢館は鱒沢館の支城といった意義かあったのか?或いは鱒沢地区も若干の金脈があったと伝えられるので、産金に関わる舘跡なのか?・・・・とにかく資料も皆無に等しく、伝承も同様といったところです。



かつての猿ヶ石川跡

丹内館跡(丹内神社)

2008-12-03 19:59:36 | 歴史・民俗
 画像は12月1日の撮影です。


 12月1日、江刺区梁川の高間館跡を探訪し、その遺構のすばらしさに感動した余韻も束の間、遠野市内にとって返して今季の探訪箇所として選定していた綾織町長岡の丹内神社付近に残されているという舘跡を探訪いたしました。


 丹内神社入口


 館として機能していた時代の堀跡を参道としたものと推測される。




☆丹内館(丹内神社・別名 不明)・・遠野市綾織町手代森 丹内

 遠野市綾織町長岡地区の丹内神社一帯が館跡であったと考察されている。
 標高282メートル・比高49メートルの山城
 
 残されている遺構としては・・・
 空堀跡、段丘、土塁・・・神社、墓地跡、別当家屋敷跡(平場)

 館主は不詳、築使用年代は安部時代とある。



 斜度の少しきつい、かつては堀跡と思われる参道を70~80メートル程進むと前方に茅葺屋根で市内では大きめのお堂(丹内神社)が見えてくる。

 お堂の広場下は杉林となっており、木々が鬱そうとしているが、階段状の腰郭が数段展開されているのが確認できる。

 今回はお堂脇を通り、まずは東側から探訪、低い笹竹が密集しているが、斜面には数段の段差が確認できる。
 
 そのまま、お堂の背後の平場へ移動すると、2重の空堀が横断しており、特に2重目の空堀は、案外大きく、深さ2.5メートル、幅3メートル弱の立派な空堀跡を確認いたしました。
 空堀はそれぞれ東西の斜面へカーブしながら下っております。


 山野を横断する空堀跡(2重目)


 2重目







 また、空堀を越えた背後は低い山頂となっており、北側斜面は杉林、山頂を少し北西側に進むとさらに高い山野となっており、西側斜面は笹竹が密集しており図面には2段程度の帯廓が記載されているも、笹竹により画像では確認できない。



 少し進んだ山野の峰には、遠野町の袖高屋館跡でみた水路跡と思われる溝が2重ほど確認された。





 産鉄に関わる鉄穴流の跡なのだろうか?・・・綾織の手代森(長岡から山口)一帯は、かつて砂鉄が豊富だったと考察され、鉄さいが見られる場所も存在しているといわれ、丹内の「丹」は「鉄」を表す時代もあったといわれ、産鉄に何かしら関わっていた地域であったと考察されております。



 ここ丹内神社に関する概要は、ほとんどわからず・・・それでも考えられる書籍や資料等は一応目を通したつもりですが、綾織の丹内神社に関する記述等は確認できなかった。
 この方面は、いずれ笛吹童子氏等がご紹介するものと期待しております。





 結構大きく立派なお堂ではありますが・・・・




 裏側に回ると屋根は落ち、床も抜け落ちている状態でありました。
 

 手持ちの館跡資料によりますと、享和2年(1802)の百姓一揆で、丹内神社は藩主から閉門1万日(約30年)の処分が下され、以来神社は荒廃し、やがて地域の人々からもその存在を忘れられたとのこともあり、伝承等も残されていないとある。


 お堂を見ると茅葺屋根とはいえ、そんなに古い建物でもないような・・・。


 地域のとある御仁にお聞きしましたが、昭和30年代、その方が小学生、中学生の頃は夏休みとなると地域の子供達で丹内神社のお堂で学習道具を持参で勉強会等をしていたという。
 また、僅かな記憶ながらも、大人達に交じってお堂内で煮しめや漬物といった料理を持ち寄って宴が行われていたといいますから、例祭や宵宮といったことが執り行われていたものと推察されます。
 さらにお堂奥の北側にはかつての共同墓地があって、お堂脇に通い道があったといい、今は墓地も別場所となり誰も通る人は無くなったようでもあります。
 この方も社会人となってからは、ほとんど丹内神社に行ったことはなく、屋根が抜け落ち荒れているだろうと予想はしていたが、ここ20年は行った事はないという・・・・。




 ピンボケですが内部の画像・・・・

 一応錠はありましたが、鍵がかかっていないが現状、しかし一人の力では引戸を開けることは叶わず・・・といいますか開かなかった・・・汗

 お堂の建て替えか屋根の吹き替えでの地域の方々からの寄付等を示す氏名がずらり書き並んだ板も確認できましたが、画像に収めることはできず、また字が見えなかった(離れ過ぎていて)・・・汗



 ということで、神社の由来やその歴史といったことではなく、あくまでも舘跡としての探訪ということをお含み置き願います。



入口

高間館 (江刺区)

2008-12-01 21:16:54 | 歴史・民俗
 朝から天気も上々、本日は絶好の館跡めぐり日和ということで、予てから気になっていた奥州市江刺区の高間館跡と綾織町長岡の丹内神社(仮称長岡館)を探訪いたしました。

 綾織町の丹内神社に関しては12/3エントリー予定としております。



☆ 高間館跡(別名 中田城) 奥州市江刺区梁川


 江刺区梁川地区に入り、案外迷わず行きつけたが、標柱背後の山野が沢を挟んでふたつ程・・・はて、どちらが?・・・まずは民家のある向って左手の山野に突入するも空振り。
 山腹に林道があったが、さらに奥に高い山野があって、そこを目指すも笹竹やら細いとげとげの木々に難儀し、一度標柱の場所に戻って地域の方々から聞いてみようと思う。

 一旦戻ったが誰も歩いていない、近くの民家から聞こうかとも思いましたが、今度は右手の山野に突入しておりました・・・汗
 結局、こちらも空振り・・・すると奥部に沢があって、その上にきつい斜面の山野が・・・・かなり怪しい・・・少し斜面を登ると段差が3段程・・・空堀跡とわかる形状も確認でき、この上の山野が館跡と確信する。








帯廓


空堀



 東から西に延びる丘陵にあり、山野を2重の空堀がそれぞれ流れ、内部の斜面には6段なる帯状の腰郭が設けられ、他に切断された土塁や堀切道がみられ、空堀との連結等、極めて複雑な構造となっている・・・(日本城郭大系2より引用)


主郭背部の堀切




堀切2重目


 
 特に堀切2重目は複雑な構造となっており、土橋で奥部と連結されている。








 


 さて、舘主を菊池次郎親孝と伝えられる。
 高間館の菊池氏は、舘跡を示す標柱には天正18年 和渕の戦いで討死にしたと記されている。
 日本城郭大系2には、天正の頃、菊池氏は高間館の完成を見ないまま、この地を去ったとしている。
 すなわち築城をはじめたが、主家江刺氏が奥州仕置等で一時的に没落すると運命を共にしたものか?
 ただし、今回の探訪では途中で工事を中止した館には見えなかった、きちんとした立派な館跡であったがまずひとつの感想でもあります。

 さらにこの高間館は遠野市宮守町上鱒沢の鱒沢館と酷似していると記されていること・・・・。
 確かに山野を取り巻く2重の空堀、複雑な主郭背部の堀切、整然と配された帯廓・・・共通点が確かに見られる。






 (日本城郭大系2から転載)


 強いていえば、鱒沢館の方が高間館の3倍は規模が大きい、遺構のひとつひとつを見てもその大きさの差はあるも、構造そのものの複雑さは高間館の方が多く見られ、築舘に係る土木工事の規模は鱒沢館に匹敵されると考察されている。

 江刺にいながら、さながら遠野の舘跡にいる錯覚を覚えるほどでもありましたし、鱒沢館ばかりではなく、背後の堀切の形状は上宮守の石倉館や松崎の松崎館、まさに遠野型規格そのものであったこと、このことに驚きを隠せませんでした。

 江刺の菊池氏は遠野の諸氏と何かしら交流があったものなのか、疑問が若干残る場面でもありますが、高間館の築館年代が天正年間(1573~1592)とすると、遠野の鱒沢館や松崎館の方が時代的には早いといったことも伺われ、いずれ安部時代や鎌倉時代と多く考察される遠野の館跡が戦国期辺りに多く築館されたのではという考えが成り立つ場面でもあり、今回はなかなか良い探訪が出来たと考えております。


 久々に山城といった館らしい館を探訪したという思いが残り、まさかそれが遠野ではなく江刺であったこと、これもたいへん印象に残る高間館の探訪でもありました。




 釜石道工事中・・・江刺区梁川




おまけ

 高間館跡で出会ったカモシカ




 ズーム画像はこちら




 2時間近くもかけて間もなくアップという時に・・・某町で建物火災発生・・・帰宅してからのアップとなりました。

袖高屋館跡と鉄穴流

2008-11-26 18:22:18 | 歴史・民俗
 穏やかな一日、程よい青空も広がり、まさに小春日和。



遠野第2ダム辺りから・・・。



☆袖高屋館・・・遠野町

 市内城館跡調査による資料掲載における遠野町分の城館跡探訪にて最後の探訪箇所となっていた袖高屋館を探訪いたしました。




 市道により切り通しとなっていますが、左右の山野が館跡と考察されている。
 画像での右手には稲荷社、さらに遠野初となる水力発電所の貯水池(石組)、市道を挟んだ左側山野が主郭部分と思われ、今回は左手の物見山側の山野を探訪いたしました。


 館主・築、使用年代不明・館に関する伝承無し。



 当初は上郷町内の某所を探訪するつもりでありましたが・・・(おまけで記述します)・・・。

 思いつきみたいな内容になってしまい、資料も持たずに来内方向へ車を走らせ、切り通しの南側の杉林から山野突入・・・。

 比高も高くなく辛い斜面登りも少なめ、早くも2~3段程度の帯廓が出現し、まさに館跡と確信を持ちながら探訪を続ける。



 


 少し平坦な場所を先に進むと・・・・。



 空堀跡が目に飛び込んでくる。


 まあまあな空堀、しかも上方の斜面にも同じような流れの空堀を発見。
 しかもさらに上方にもそれらしき窪みが見え隠れしている。
 これは3重堀か?街場に近い館も捨てたもんじゃないな、なんて考えながら、2重目の空堀跡を斜面に沿って進む。






 下2本の空堀は峰を大きくカーブして斜面を横断するように駆け下っている。


 東南側峰を断ち切る堀切・・・でもかなり小さい・・・。



 主郭の雰囲気を感じる平場に到着したが、背後の峰を断ち切る堀切が見当たらない。
 空堀跡は峰沿いに残されているものの、背部で反対側斜面に下っておらず、そのまま山野の上方にほぼ真っ直ぐ伸びている。
 これは堀跡ではなく道跡か?と勘繰りながらも逆側の斜面を見ると、こちらにも2重の空堀跡らしき窪地が北側斜面を走っている。
 しかし、空掘にしては幅も狭く深さも足りないような・・・こちらも上方の山野から下ってきているようだ?・・・。




 最初に上って来た東南側の斜面、下2重は空堀跡といわれれば、そのとおりと答えそうな十分な大きさではあるが、他は水路か?と思えるような形状・・・、今まで見た空堀跡とは少し違うような雰囲気がしておりました。











 館跡での生活用水を峰沿いに水路を作ってひいていた水路跡だと考察しているものが結構ありますが、その跡なのか、疑問を残しながら帰宅して資料を見ますと・・・・。



 鉄穴流(かんなながし)の跡と考察されているようです。

 
※鉄穴流
 鉄穴流しとは砂鉄を含む山砂を渓流に流し、軽い砂は早く下流に流し、砂鉄は底に沈んで溜まる。これを繰り返すと次第に砂鉄の含有率が高くなる。いわゆる比重選鉱法。

 すなわち砂鉄をとるために斜面に水路を作ったもの・・・と理解されますが、産鉄に関しての知識等は無いに等しいですし、遠野における産鉄関連の資料も未確認ですのでなんともいえませんが、鉄穴流し法を調べますと江戸時代に確立した方法、或いは戦国時代から続けられていた?とか色々と説はあるようです。


 確かに現地を見た限りでは空堀跡ではなく水路跡といった雰囲気が十分感じられますし、袖高屋館は館跡とする内容の他に産鉄に関わる一大施設であったという妄想が膨らんでまいります。

 上部で上質な砂鉄を精製、下部でタタラ製鉄・・・傍を流れる来内川は砂鉄の宝庫であったという伝承もあるような・・・なんかそんな雰囲気も確かにいたします。


 来内方向





 おまけ・・・上郷町暮坪



 当初は、上郷町の暮坪館(赤沢館)を探訪しようと現地に突入するも、背丈以上の笹竹に阻まれて探訪を断念、予定を変更しての本日の探訪となりました。

 上郷町では、赤羽根館・平倉館
 小友町・・・高館(鷹鳥屋)
 綾織町・・・丹内神社
 土淵町・・・なれえ館
 宮守町・・・鳴沢館

 市外・・・江刺区内

 
 今季は以上の館跡探訪を予定しておりますが、別館への再訪もあるかもしれません。



青篠館(奥州市江刺区)

2008-11-21 20:52:36 | 歴史・民俗
 遠野菊池一族関連調べにての江刺菊池党との関連、このことに関する内容把握といった意味合いも含めて、この季節のフィールドワークたる城館探訪も併せて奥州市江刺区の気になる館跡をこのほど探訪して参りました。(11/17)


☆青篠館(あおざさたて)・・・奥州市江刺区玉里








主郭・・・山頂平場






主郭下部の帯廓



主郭背部の空堀・・・二重堀






 遠野の同規模な館跡と比較すれば、幾えにも展開される階段状の平場が見えない(山頂平場下に2段程度のみ)ことや、急傾斜地に立地されるも比高が低く、少し拍子抜けといった印象でもありました。

 空堀は二重堀、山野全体を包み込むように形成されておりましたが、主郭背部に関しては遠野規格型と称する形状で、こちらはなかなか見応えもございました。

 舘主は説明板にも記されているとおり、菊池氏・・・江刺菊池一族の惣領といわれる角懸菊池氏、菊池右近恒邦の名も別資料で確認できますが、江刺区各地に散見される菊池氏は、この角懸菊池氏から分れたものとも語られております。

 菊池右近に関しては、遠野小友の新谷氏、平清水氏、さらに上郷の板沢氏の祖と遠野新谷菊池系図では記されておりますが、この件に関しては後日に考察した内容をエントリーしたいと思っております。

 青篠館、探訪しての感想は、それほど防御性を吟味した館とは思いませんでしたが、小友町長野の新谷館の形状に酷似していたこと、このことが少しばかり驚いたといいますか、印象に残っております。

 小友町の新谷館は菊池一族の館跡、しかも菊池右近を祖とする平清水、新谷氏の館跡でもあり、資料のみならず史跡もその関連を示しているのか?・・・いずれこれらも含めて考察をしてみたいと考えております。


 奥州市江刺区の館跡に関しては、宮守町上鱒沢にある猿ヶ石川流域の城館跡では最大級といわれる鱒沢館と極めて酷似しているといわれる「高間館」と江刺菊池党の「太田代館」を早期に追加探訪と考えているところです。

 ということで、積雪もありましたが、いよいよ館跡探訪の季節到来、しばらくは探訪関連エントリーが増えるものと思いますので、よろしくお願いします。


 青篠館の空堀

田瀬(たんせ)館跡

2008-11-18 19:55:38 | 歴史・民俗
 いよいよ城館跡探訪シーズン到来!
 とは言っても既に小友町の鮎貝館を一応探訪はしておりますが、まずは遠野郷内の知られざる城館跡探訪前に足慣らしとばかりに市外の館跡ふたつばかり探訪して参りました。


田瀬・・・花巻市東和町田瀬(旧和賀郡東和町)





 正面に聳える山は確か・・・砥森山


田瀬館跡



 かつての主郭部分に建つ標柱・・・かなり大きい・・・笑

 主郭部分は今は観光用の駐車場となり往時の面影はみじんもない、それでも湖寄りの斜面には・・・・。




 2段の平場(帯廓)


 
 二の郭?


 湖側の東斜面下に二の郭と思しき平場と遺構が確認できる。
 平場にはお稲荷さんが祀られている。


 かつての遺構、小路として利用されているが、主郭との連絡は土橋で下部は空堀跡と思われる。




 主郭部分


 上の画像部分、舗装され平らになってはいるが、かつては二段、三段の平場が展開されていたかもしれない・・・少し複雑な心境ですが、今となってはなんともいえない・・・。



 田瀬湖


 猿ヶ石川を堰止めてのダム湖である。
 当然ながら館が機能していた時代は、湖ではなく川が流れていただけ・・・。


 全景



 築年代、舘主は不詳といわれるも、葛西氏重臣であった江刺郡の惣領、江刺氏の一族が一時期在館していたとも伝えられる。
 
 和賀郡と江刺郡、そして遠野郷と隣接する地域であり、どの勢力が把握しようとも最前線といった位置付けで、まさに軍事交通の要衝という場所柄だったと推察できる。

 遠野孫次郎(阿曽沼広郷)時代、田瀬地域は遠野勢の勢力下で、遠野郷の内との見解もありますが、この田瀬館に遠野の配下の武将が居た時代もあったかもしれません。
 後に南部領となっている。



 実は、ふたつの館跡探訪の内、江刺区の青篠館跡も探訪、こちらは遠野菊池一族四として菊池右近恒邦と江刺から遠野流入の菊池一族について、後日考察の予定です。



 
おまけ

花巻市(旧東和町)



奥州市江刺区(旧江刺市)




 史跡、特に城館跡の標柱に関しては、画像のような文言が記名されている。
 かつての江刺市も東和町も小さな館跡に至るまで標柱や説明板が設置され地域の歴史や史跡の保存に力を入れていたことが伺われます。
 
 遠野遺産制度で守られる史跡や伝承は良いとして、他の知られざる史跡、こうしたものにもせめて標柱くらいは・・・・遠野物語だけが遠野の宝ではないはず・・・と思います・・・謝


 
※デジブックなるものに登録いたしました。
 姉妹ブログ「遠野発信・MAYAKUSYAず!」に記念すべき壱号デジブックを公開しております。

 こちら



 久しぶり・・・懐かしの・・・こちら

鮎貝館と鮎貝氏の軌跡

2008-11-15 20:28:22 | 歴史・民俗
鮎貝館跡・・・遠野市小友町鮎貝

 画像2008.11.13撮影


 この度、小生が公開するウエブサイト並びにブログにて、以前鮎貝館に関する記事を掲載した経緯がありましたが、その内容をご覧になられた気仙沼市在の鮎貝氏よりメールが寄せられたことにより接触が成り、気仙沼の煙雲館を訪ね伊達家御一家筆頭、鮎貝氏に関しての若干の情報をいただいたこと、さらにこれを励みに小友鮎貝の鮎貝館跡の4度目の探訪調査を実施、その際に少ないですが地域の方々から直接、鮎貝に関する伝承をお聴きすることができ、鮎貝館と遠野時代の鮎貝氏に関してのさらなる考察ができる環境となりましたので、当ブログにてご披露したいと思います。


☆鮎貝館の伝承

 おそらくは地域に伝えられた内容に後の郷土史家達がある程度の考察を重ねるうちにその考察等が少し伝承という内容と融合した雰囲気も感じられますが、地域では語られるのは・・・。

「館主を鮎貝志摩守といい、阿曽沼興廃事件にて阿曽沼氏と共に気仙へ逃れた」とする内容と「阿曽沼家臣となっていた鮎貝某、御番所役を勤めていたが、伊達の回し者という風評が広がり、このことが南部家の知ることになり小友に居ることが叶わず気仙へ落ちて行った」との内容。
 しかし、小友町の鮎貝の地名は、鮎貝氏が在館し当地を治めていたことに由来するということは共通している。


小友町鮎貝地区



 どうしてもこういった伝承に当時の時代背景の推測やら歴史的な見解が融合され、より具体的な内容となりますが・・・・。


☆時代背景考察

 鮎貝氏といえば出羽国出の伊達家臣を指しますが、阿曽沼広長時代、文禄年間か?遠野は阿曽沼氏が盟主的立場で君臨していたが、豊臣秀吉による全国統一が成る時代、葛西氏、大崎氏、和賀氏、稗貫氏・・・といった各郡に勢力を誇っていた武家は没落、遠野は南部信直の領地となり旧主阿曽沼広郷(広長父)は取り潰しは免れたが、南部家の旗下に組み込まれた。

 阿曽沼広郷は、南境の葛西氏と親交があり・・・というより影響下にあった雰囲気が感じられますが葛西氏が没落後、大崎・葛西一揆後に南で境を接することになる伊達政宗と気脈を通じることになったと考察され、主家である南部家とはある程度の距離をとっていたともいわれる。

 遠野は阿曽沼宗家と阿曽沼分家といわれる鱒沢氏の勢力が拮抗した時代となっており、遠野では度々両者による争乱があったと伝えられている。
 一方の勢力、鱒沢氏は南部家と気脈を通じ、主人筋である阿曽沼氏を通さず、南部家と直接交渉したり命を受けていたといわれるが、この対抗策として阿曽沼氏は伊達家寄りの立場で対抗、対南部家、鱒沢氏への策として、伊達家家臣、鮎貝氏を密かに小友に招へいしたとも、伊達政宗によって派遣されたとも考察されている。





☆鮎貝氏とは・・・
 
 藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
 応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
 
 鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。

 天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
 鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。


☆遠野市小友の鮎貝氏

 鮎貝兵庫宗定は、天正15年、兄宗信が伊達政宗に謀反し最上へ逃れると、鮎貝氏の後継となったが、文禄、慶長、寛永初期に至る30年の足取りが不明とされる。
 この間の所領は柴田郡堤村(宮城県柴田郡大河原町)でこの地に居を構えていたと僅かに伝えられますが、伊達家が激動を重ねていた時代に鮎貝氏が無為な歳月を送っていたとは考えられない・・・気仙沼市史

 記録にはその関りが示されながらも、その痕跡が不明といわれた柴田郡堤村での鮎貝氏、しかし、近年、大河原町の持明院の無縁墓地にて鮎貝宗重(日傾斉)の墓石が発見され、先代である宗重が柴田郡堤村に関りがあったことが証明されたようです。

 さらに宮城県大崎市(古川)の城代として鮎貝氏が一時期居たとする資料も発見されたということで、空白の30年も少しずつ紐解かれているようでもある。

 古川での内容は、今回、気仙沼の鮎貝氏を訪ねた際にお聞きした情報ですが、詳しくはお聞きしなかったこともあり、詳細は不明です。


 近年にその足跡等が明らかになりつつ鮎貝氏ではありますが、それでも遠野へ至った経緯は以前不明でもあります。

 柴田郡に居たであろう先代宗重は寛永2年の没年と記されている。
 柴田郡の知行地は父である宗重が守り、子の宗定が伊達政宗に従って各地に活躍したのだろうと推察できますが、しからば遠野へは・・・・・。





 鮎貝館は江刺郡(奥州市江刺区)に通じる五輪峠が控え、鱒沢に通じる道、小友に通じる道の要衝に位置しており、遠野方にすれば南側で境を接する勢力に対する最前線といった拠点と考えられる。
 またその逆であれば、遠野への入口を抑えた形となり、目障りこのうえない状況だったことが伺えることでもありますが、この地を他勢力が把握するといったことは、やはり遠野内部からの協力無くしては成し得ないのではないのか、さらに伊達家という強力な支援体制が構築されていなければ、やはり維持できない状況とも考察されます。

 伊達家による遠野派遣での鮎貝氏、大いに考えられることではないのか・・・・。


館跡内部・・・平場



☆鮎貝館の疑問点

 館跡調査からといった観点からみれば、本家サイトにも記しておりますが、対南部家といった館の構えにはどうしても思えない。
 館跡は北~南に傾斜する形状で、背後である北側の遠野、鱒沢側は山野が連なるとはいえ、北側には人的に工作された防御施設跡やら遺構は見当たらない。
 南側を前面としており、自然の堀と成す小友川が流れ、むしろ五輪峠側からの勢力に対する構えであるという考えは払拭できない。



 気仙沼市史では、鮎貝宗定が小友の鮎貝館に在館していたことは、史実であろうと結論付けている。
 また鮎貝家ご末裔も、おそらく史実で遠野に関わりがあったものだうとしている。

 慶長5年前後に関してもそうですが、南部家の史料等には遠野での鮎貝氏に関する記録は一切出て来ない、無論伊達家に関してもそのとおり、遠野での事は、まさに口伝のみの内容であるも、小友鮎貝が一時期伊達家によって占拠されていたというよりも、阿曽沼氏によって招へいされていたもので、南部家等に対する対処は鮎貝氏を客分家臣として扱い、その結果としてある程度の出入りが緩和されていたのではないのか、それは小友という産金に大きく関わった土地故の特徴をあらわしているのではないのかと思えてならない。
 鮎貝氏もまた小友の金山開発、獲得の使命も帯びていたこと、この線も強いものではないのかと・・・。

 慶長5年、阿曽沼広長が遠野での謀反で気仙郡落ちをした際に、鮎貝氏も行動を共にしたのだうとも推測され、慶長5年を以てして遠野との関わりは無くなったものと考察いたします。



 ちなみに江戸期、伊達家臣鮎貝氏の重臣に梅田氏の名がみえる。
 祖は阿曽沼広重という人物であるが、梅田氏は現在も鮎貝氏と同じく気仙沼に御子孫がご健在であると聞きます。
 他に浅野氏も遠野に縁ある家とのことでもありますが、こちらは私は把握しておりません。

 阿曽沼広重は所伝での遠野阿曽沼系図にはみられない人物ではあるが「奥南落穂集」には阿曽沼主計広重とある。

 遠野から鮎貝氏と行動を共にしていたかは不明ですが、気仙郡世田米に関係した人物か、或いは気仙郡内で鮎貝氏に臣従したものか?


 近年に伊達家側(宮城県)で鮎貝氏の事績不明期間における新発見がありましたが、南部家側で何か発見されれば、遠野における鮎貝氏の事績等の謎が一気に氷解という場面にもなり得ますが、今後も折あらば何かと調査に関わっていきたいと考えているところです。


小友川・・・向って左が館側


 さらにおまけ的な内容ながら・・・

 館跡脇のS商店の奥さんが、気仙沼の鮎貝さんは家の寺の檀家さんですとのこと。
 はてな?・・・小友のお寺さんのことか?常楽寺か・・・・なんで気仙沼の旧家が小友の・・・・?・・・後で調べてみると、気仙沼の鮎貝氏の墓所が気仙沼の松岩寺(曹洞宗)にあるということで、この寺のご住職が小友町鮎貝の出で、商店さんのお身内なようです。
 先祖が辿った遠野小友の鮎貝の地から気仙沼の鮎貝氏菩提寺のご住職が・・・これも何か歴史的な因果を感じるのは私だけでしょうか。

                             
   

鮎貝氏考察・煙雲館にて

2008-11-13 19:05:58 | 歴史・民俗
 連日氷点下の朝、しかし、陽が高くなるとこちらも連日となる抜けるような青空、特に東側の空が澄んだ青色、早速遠野ブルー、いや、憧れのオリンパスブルー出現を目指してシャッターを切る。


福泉寺上方の空・・・正午頃



我家の庭から東方向



 さてここからが本題・・・・
 昨日の気仙沼行きでの本来の目的ということで・・・・

○ 煙雲館・・・宮城県気仙沼市










 遠野市小友町鮎貝に残される中世城館跡、鮎貝館・・・この鮎貝館と共に館主と伝承される鮎貝志摩守なる武将、そして妄想的ながらも当ブログやHPで何度か取り上げたことがあり、インターネットを通じ、これらのサイトをご覧になられたという、伊達家家臣鮎貝氏のご末裔で、気仙沼煙雲館主の鮎貝氏からメールが寄せられておりました。
 若干の鮎貝氏に関する情報と共に疑問がありましたら、丁度煙雲館の正式公開日が何日かありますので、よろしければお越しになられては・・・とお誘いを受けておりました。

 しかし、指定された日は勤務日であり、どうしても休めないこともあり、11月中にうまく休みと暇が重なった際に急に行けるかもしれない、この場合は平日の可能性が大きく、なかなかタイミングが計れずにいたのですが、今回、海岸方面に行くことになり、この機を逃したら・・・そんな思いで煙雲館を訪ねてみようと思ったのですが、何の連絡もなしに急にということも甚だ相手に失礼なこともあり、今回は場所の確認と説明板等があったらその撮影、できたら遠景とかの撮影で済ませて帰ってくるつもりではありました。


 嫁さんと義母は折角来たのだからと、そそくさと庭園の方に向って歩き出しておりましたが、ダメもとで小生はお宅の玄関を訪ねますと、館主様のお母様がご対応くださり、小生が遠野から来たとお伝えしますと・・・「息子から聞いております、どうぞあちらからお入りください」とご丁寧なご対応をいただきました。
 息子さんの鮎貝氏は仕事でお留守ということで、わかっていながらも平日の真昼間に訪問というなんとも一般社会とは少しだけかけ離れた内容となりましたが、それでも、色々とこちらの質問等にお応えくださり、また貴重な資料等もお見せいただき、さらに一部コピー等もいただき、たいへん有意義な訪問となりましたこと、この場をお借りしてお礼申し上げます。
「ありがとうございました」


☆煙雲館
 伊達家御一家筆頭、鮎貝氏歴代の居館。
 庭園は、江戸初期の寛文年間、仙台藩茶道頭、石州流二代目、清水道閑の作と伝えられる。
 仙台藩士鮎貝氏歴代、さらに国文学者で近代俳句の先駆者として与謝野鉄幹や尾上柴舟、金子薫園・・・等の著名歌人を門下とした「落合直文氏」の生家としても有名である。






 四季折々のすばらしい景観を堪能できる由緒ある庭園、今回小生は眺めるだけで広大な庭園散策は叶わなかった。
 こちらが大汗かいて恐縮の連続の中、嫁さん達は何も知らずに庭園散策、ほぼ同じに駐車場で会った際は「どこさ行ってらった、すげい立派な庭っこだったじぇ」・・・汗・・・連れてきた小生がいけないということで、なんとも返す言葉もありませんでした・・・汗


 今回の気仙沼訪問、そして本日は小友町鮎貝館を探訪、さらに近所の方々からも鮎貝館に関する伝承やら情報を収集、そして市立図書館にて若干裏をとる調べ、考察を展開するにはいつもよりは条件や情報が打ち揃ったという雰囲気であり、次回にその考察をご紹介したいと思います。

 次回とは11月15日(土)を予定しております。


もったいぶった内容ですみません。
おまけ画像での、日向ぼっこ中に虫が飛んできて、その虫が気がかりなネネでも観ていてください・・・汗




大原勝行と慶長19年

2008-11-10 20:20:16 | 歴史・民俗
 午前中は青空が広がるも午後に少しずつ雲が多くなり出す。
 午後、循環器検診を受診のため、昼近くに家を出るとまずは問診表の提出、受付を済まして、開始時間まで松崎界隈を車で流す・・・。


高場(松崎町光興寺)・・・薬研渕橋から



猿ヶ石川




◎ 大原新右衛門・・・大原弾正勝行

 1年程前に大原新右衛門について、エントリーしておりますが、その第2弾という意味合いながら、大きな進展は無いことを最初にお断りいたします。

 前回のエントリーは・・・こちら


 大原氏墓所・・・土淵町常堅寺









 前回のエントリーでは墓碑に刻まれた由緒について掲載いたしましたが、その後の大原氏について史料的にどうしてもつかめない状態である。
 また、常堅寺開基に係る内容及び由緒と伝えられる大原新右衛門の事績につじつまが合わず、これも未だにハッキリせず・・・・。


〇大原弾正勝行

 寛永3年・・・寺の開基に関わる内容が記されているが、大原勝行44歳

 天正18年・・・兄と目される大原氏当主、大原重光が15歳、弟と語られる勝行は、寛永3年から逆算すれば8歳の幼児・・・このことはよいとして、後の時代、阿曽沼広長が気仙落ちした慶長5年以降に遠野に来たとすれば弾正勝行は成人してからの遠野入り、この時に南部利直より8百石を給された・・・一応このような考え方となりますかね。


 ということで、少しずつ南部藩関連資料や書籍にて調べておりましたが、これといった発見に至らずも・・・・。

 大原新右衛門は確かに南部利直に仕えていたようでもありますし、7百石を減じられ百石となったと語られる原因のひとつも一応に伝えられてもいるようです。

 「遠野なんだりかんだり」の笛吹童子氏も以前ブログで記述してましたが、大坂冬の陣(慶長19)において、大原新右衛門と宮守主水は、出陣に係る諸費用を南部家から借金して南部勢として従軍したようでもあります。


大坂御陣かし金

 一、弐拾弐匁四分大原新右衛門、
 一、拾六匁九分六りん也、宮森助十郎、
 一、弐拾匁其元(毛馬内三左衛門の家来)壱間衆、
 一、弐拾匁其方手前、右之金早々取候て上げべく候なり

           元和4年10月28日 利直黒印

                    毛馬内三左衛門

 
 元和4年であれば遠野城代は上野右近広吉、取りたてを命じられた毛馬内三左衛門は、上野広吉没後から遠野城代となったともいわれますが、既に遠野郡代という遠野を全般的に監督する立場だったかもしれませんね、毛馬内三左衛門は閉伊郡佐比内村(上郷)を含む8百石を食む南部家の有力家臣の一人でもあった。

 宮守氏は宮守の旧領に5百石を安堵されていたが、故あって禄没収、正に大坂の陣に従軍した慶長19年を境に遠野地方の武家達が没落の憂き目となっている。
 (後に宮杜氏として重直公の時代に召し出され、花巻御給人)

 他に平清水駿河、小友喜左衛門も大坂の陣を境に没落している。


 大原氏も同じ憂目となったものと推測されますが、その大原氏に関する伝承は常堅寺絡みのみで、土淵町内で多くは語られていないのはどういうことなのか?
 

 
 土淵といえばやはり同時代に南部利直公より本宿村を含む8百石を給された本宿氏が至近に居たのであるが、大原氏と本宿氏との関連は・・・?


 本宿氏の居館といわれる本宿館跡のある山野(西館)



 ちょっとまとまりがつかない内容となりましたが、また何か動きがありましたら第3弾としてエントリーしたいと思います。



 
 昨日に続いて本日も・・・夕暮








 おまけ

 検診


 おそらく昨年同様の再検査箇所の通知が来ると思いますが、体重が昨年より4キロ減、メタボ測定では・・・79センチで一応セーフながらも、予備軍みたいな感じて注意喚起は受けるものと思います。

 顔は丸いですが、案外肥えてないんですよ・・・笑