goo blog サービス終了のお知らせ 

「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

阿津賀志山防塁

2009-04-03 19:11:18 | 歴史・民俗






 遠野とその周辺地域の中世城館跡探訪をひとつの趣味としている小生であるが、以前から是非とも見てみたい、探訪したいと念願していた史跡に福島県伊達郡内、国見町に残されている「阿津賀志山防塁」がありました。
 宮城県と福島県との境付近であるということで、岩手の遠野からなんとか行け付ける場所であるも、それでも何かの用とか、そのついでというわけにもいかず、その思いだけで、なかなか出かけることは叶わず状態、機会はこちらで作るものとはいいますが、思い立ったらが吉日という例えもあり、今回、時間的な制約はありましたが、やっと見学することができました。


 
阿津賀志山(厚樫山)麓の防塁跡








 主に二重の空堀と三重の土塁によって構成されている防塁、年月による風化は避けられない現実ではありますが、自分的には残存度良好といった思いでもあり、凄いものを見させていただいたという思いが強く意識されました。


攻める鎌倉軍が陣を敷いた福島市内方面




 阿津賀志山麓から阿武隈川岸までの約3.5キロにわたって築かれた防塁であるが、東北本線(鉄道)、国道4号線、その他農地開発等で、年月を重ねるうちにその遺構のほとんどが消滅という状態でありますが、阿津賀志山(厚樫山)麓の始点部分と南側の終点付近にその遺構跡が残されている。



南側部分の遺構
















 
厚樫山方向




 文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏征討のため、源頼朝は御家人達に同年7月までに軍を整え鎌倉に参集せよと命じた。
 一方、平泉の藤原泰衡は、鎌倉方の動向を察知すると伊達郡と刈田郡の境に位置する阿津賀志山に堅固な防備施設を構築、さらに山麓から阿武隈川岸までの大防塁を築いて鎌倉軍の来攻に備えていた。

 同年7月、鎌倉軍団は太平洋側を進軍する海道軍と中央の大手軍、北陸軍の三軍が編成され、7月末には早くも白河を越え、8月7日には藤田宿(国見町)に到達して陣を構える。

 迎え撃つ平泉軍は藤原泰衡の庶兄、藤原国衡(西木戸国衡)を大将に奥羽の精兵2万騎を以て阿津賀志山防塁に配して迎撃態勢を整え、天下分け目の大決戦が開始されようとしていた・・・・・。







 次回エントリーは阿津賀志山の戦いの予定です。


 

最新の画像もっと見る

6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
先祖 (一如)
2009-04-03 22:54:45
場所は別と思いますが、この戦いでオイラの先祖は首をはねられました・・・
調べている最中ですが大河原町だったとか、岩出山だったとか、ワダグジ的に特定に至っておりません。
歴史の出来事が自分達に繋がっている、最近じわじわっとしてます

返信する
近からず遠からず・・・ (たみゃちょ)
2009-04-03 23:13:54
な、所。
内陸部なので、ビミョーに遠いかな?
県境を越えた話は知りませんので、次のエントリをタノシミにしておりまうす。

そこへ至る途中、白石うーめんたびた?・・・笑
返信する
ご先祖様 (とらねこ)
2009-04-04 11:19:33
一如さん
ご先祖様は奥州藤原氏の家臣様でしたか、かなり古いお家柄となりますね。
気仙方面に縁あるお方なのですかね?
後で当方にもお知らせください、少しお手伝いといいますか興味がございますもので・・・。
返信する
かなり遠いかも (とらねこ)
2009-04-04 11:23:39
たみっちょさん
今回は福島から現地入りしました。
よって白石うーめんは、たびりましぇんでした・・・涙
感覚的には仙台から南下してもそれほどでないと判断してましたが、やはり地図やその他の情報ですと福島からの方が近いという雰囲気、確かに車で福島から約40分程でしたから・・・バイパスの渋滞がなければ、もう少し時間的に近いかもしれません。
返信する
寄ってきます (yamaneko)
2009-04-04 19:15:19
むひょ~!!!
平泉藤原に係わる古戦場!
先鋭的歴女の諸氏が黙っちゃいませんぜ!

勝った側の伝聞しか残っていない時代でしょうから、とらねこさんの冷静な鑑識眼が・・・(w
返信する
是非に (とらねこ)
2009-04-04 20:33:49
yamanekoさん
東北道の難所、国見SAは御存知かと思いますが、まさにそのご当地というところです。
福島飯坂IC辺りで降りて国道4号を北上すれば、案内板がありますから、第一の防塁跡には行きつける筈です。
東山道跡や義経関連の史跡もすぐ傍に残されてますので、それなりに見どころは満載ですよ。
返信する