荒川高原に放牧の馬(一部)
遠野馬の里の馬(一部)
希少和種 トカラ馬
遠野馬の里 走路
一周約980メートル弱
施設や飼育、調教馬数頭の概要は「遠野馬の里」HPをご参照ください・・・汗
ぺご(牛)
高清水牧野にて
遠野は古より馬産地と語られており、明治以前は南部駒の産地であったといわれている。
明治になると岩手県内陸と沿岸を結ぶ交通の中継地として遠野は栄え、荷物を運搬する駄賃付で賑わい馬3千とも言われ、馬のセリが立つ期間は馬1千頭がセリにかけられ1週間も続けられとか、また東北は無論のこと、関東からも買い付けにくる人達もいたと語られております。
釧路(北海道釧路)・十和田(青森県)そして岩手県の遠野が全国三大馬産地とも評される所以でもあります。
遠野の民俗伝承等、オシラサマや遠野市内各地に点在する馬頭観音、駒形社、蒼前社等多数の分布、さらに今はほとんどみられませんが馬と共にひとつ屋根の下で生活した南部曲屋の存在、馬と遠野は切っても切り離せない関係でもあります。
太平洋戦争が終結し軍馬の徴用が無くなり、農耕馬の役割が機械等へ移行した現代、生活に密着した馬の存在価値は薄れ馬の数も激減すると家畜としての牛が増えはじめ、その数は1万頭を超えている。
馬の郷遠野も牛の郷遠野となっておりますが、馬の方は遠野馬の里が出来、かつての馬産地遠野、復活への道が開けているといっても過言ではないと思います。
そんな中で、遠野馬の里と隣接する駒木蒼前神社の存在・・・・馬の里の隣という表現は不味いかな・・・笑・・・神社の隣が遠野馬の里、こちらの神社の方がずっと古い歴史がありますから・・・。
駒木蒼前神社
由緒では、後三年の役で八幡太郎義家(源義家)が衣川から敗走する安倍軍を追撃して遠野入りし、この地で義家の愛馬の足が折れ、この地に祀ったのが始まりとも伝承されますし、後の時代の長者の馬が足を折ったとの伝承も残されている。
いずれ馬に関わりある創始ではありますが、実はこの場所に最初からあったものではなく近世になって現在の駒木妻の神石碑付近大沢川沿いにあった社をこの地に移転したものである。
蒼前様は宗善、想善、勝善とも書き、牛馬を飼う人達が崇めた神ともいわれます。
境内は、馬というよりも牛を祀った雰囲気が強く感じるところでもあります。
狛犬ならぬ狛牛
昭和50年代、地元の牛を扱う方々により奉納されたとある。
しかし、以前は旧正月16日、旧4月8日に参拝する方々が多くいたといわれておりますが、今は参道は廃れ、僅かに草地を通っていく手立てのみである。
馬の存在も確かにあります。
由緒書きは地元の寺院、福泉寺2世住職 尻石宥燃師の直筆で昭和54年に書かれたもの・・・そして社内に納められている木彫の馬は、紛れもなく宥燃和尚によるものだと思います。
かつての参道
鳥居をくぐり真っ直ぐ草地を進めば間もなく到達できます。
馬の里側の方が目の前ですがね・・・笑
余談ですが・・・
遠野の方言関係の講演を聴いたことがありますが、牛は東北地方では「ぺご」と言いますが、馬はなんといいますか?
ベゴは方言かどうかは忘れましたが、馬は「うまっこ」牛は「べごっこ」と愛着込めて呼んだりもしますか、本来は牛のことを・・・「うす」と言うはずとのこと。
これって訛りではないですかね・・・・聴いた内容を忘れてしまって中途半端なことですみません・・・謝
民話も2回聞きましたが、ち~とも訛りがわからず(汗)もう少しわかりやすい方言で話してもらうと、話の内容がわかるのですが・・勝手な事言って、すみません。
綺麗な馬達です♪予断ではありますが・・・
亡くなった父とカニは『べご年生まれ』母と亡くなった妹は『馬っこ生まれ』です。
不思議です・・汗
何かと母は『オラは、馬年ぃ♪オメど父さんはべご!!』食べ方が?ど~たらだとかと?いつも言われて喧嘩になりますが、カニは、そんな悪く言われるような?食べ方してないもん
お馬さんの方は荒川高原におりますし、途中の遠野馬の里という大きな施設に沢山おります。
牛さんは荒川高原にも高清水にもおりますが高清水にはお馬さんはおりません。
高原に放牧の馬も牛も間もなく山から下げられ、飼い主の許へ戻されます。
来春またお山へとなります。
民話というより語り部による昔話ですね。
東北地方のご出身やお住まいの方なら、ストーリー等内容はほとんどわかるといいますが、遠野独自の方言もあったりして、少しわからない場面もあるとも言います。
まっ、ニュアンスがわかれば後は想像力でイメージを膨らませるで良いと思いますよ・・・笑
ちなみに小生はネズミ先輩ですがカニさんちは皆大きい動物ですね・・・笑