しまちゃんの愛し糸島ブログ

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大内士郎「今宿の歴史」講演会に行く

2012年07月12日 00時47分33秒 | 今宿関係

 7/11今宿公民館で大内さんの「今宿の歴史」講演会に行ってきました。30名ほどの参加者が見えていました。

大内さんの話は固苦しくなく、ユーモアを交えての講演でした。前半は伊藤野枝さんのこと、後半は今宿の古地図と貝原益軒編集の「筑前國續風土記附録」より今宿関連の事項を解説していただきました。

 

最初は今宿出身の伊藤野枝さんが西日本新聞紙上での矢野寛治さんや瀬戸内寂聴さんの伊藤野枝に関する手記掲載により、全国から野枝さんに関する問い合わせや、今宿を訪問されている方が増えてきているとのこと。交番を訪れられた方は、だいたい玄洋公民館に問い合わせがあり、玄洋公民館は大内さんに問い合わせてくるとのこと。おそらく、今後伊藤野枝さんの情報を求めて色々な人がやってくることが想定されます。

それで、地元の人が何も知らないというのは、恥ずかしいので、地元人が答える「伊藤野枝基礎知識」として知っておいて欲しいこととして大内さんが伝えてくれました。

まず、伊藤野枝の生家があったのが、現在の清水畳店にあること。林さんという老人が「昔役場の前やった。」と断言されたそうです。

お墓は以前は市営今宿住宅が建っているところにあった今宿村の墓地にあったのですが、野枝さんの墓石は心無い人に倒されて、折れるなどの事件があったそうです。市営住宅建築に伴い墓地全体の骨壷の移転が行なわれ、骨壷の大半は横町の納骨堂に納められたそうです。しかし、伊藤野枝さんのお墓は、野枝さんだけの遺骨が納められていたのではなく、甘粕事件で野枝さんといっしょに惨殺された大杉栄や、大杉の甥、橘宗一(たちばなむねかず当時6歳)の骨も納められていて、今は墓石を壊されないよう青木の山の中に移動し、ひっそりと立てられているとのこと。

野枝さんは女性解放運動を行なったとされるが、じつは「女給さん、女工さん、女郎さんに人間としての人権を与えて欲しい」と言っているだけであるとのこと。野枝さんの生家は万屋(よろずや)といって、いろいろなものを売っていた商店であったが、お隣が正月(しょうげつ)という旅館で女郎さんもいたとのこと。大内さんによると、親戚筋の伊藤るいさんが「うちの祖母(野枝)は正月の奥さんと仲が良かったと聴いた」とのこと。野枝さんの生家近くには今宿瓦の工場があった正木家や造り酒屋もありました。昔の人は子どものとき近所の子どもはいつもいっしょに遊んでいたので、旅館の女給さんの子どもや女郎さんの子どもや工場に務める家の子どもと一緒に遊んでいたことが推察されます。幼馴染の人たちの人権の向上を願うのは人として当たり前のように思います。

しかし、大正末期当時、野枝さんは大杉への略奪愛などのスキャンダルで不人気であったがため、世間からは歓迎されなかったのだと思います。今宿ではアカと呼ばれたり、伊藤野枝が「今宿にそんな人はおらん。」と野枝さんを存在しなかったと言う人たちもいます。

もし野枝さんが「不倫は文化」と言ってしまうこの現代に生まれれていたら、それほど、世間からも攻撃されなかったかもしれませんが、野枝さんの人生は時代に逆らって、子どもをかかえ必死に正直になんとか生き延びようとしただけかもしれません。

来年は伊藤野枝没後90周年なんだそうです。野枝さんは実際に今宿に存在した人であり、弱者の人権を守ろうとした人です。まだ伊藤家の縁筋の方が今宿にお住すまいなので、その方たちのお許しがいただけたら、今宿の有志で小さな慰霊祭を開催できたらいいなあ個人的に思っています。

甘粕事件http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この古地図は糸島高校蔵で1698年の作でその時代の前後を解説することで、今宿が出来る歴史を語っていただきました。 

1560年頃原田氏の支配下にあった谷村付近を敵国大友氏に海側から攻撃され、多大な被害を受けました。それで、今の上町、横町に町を作って今宿と呼び、海からの攻撃にそなえたそうです。それから、1662年頃に松原の集落が出来たそうです。上図はその後1698年に描かれたもので、まだ、東松原が描かれていません。東松原が出来たのは1727年だそうです。

絵図は、西側から観た図で左が北東、右が南になります。中央に描かれた道が唐津街道で、「長垂越え」といわれる、長垂を通る道が長垂山の山中を通っていた説が間違いで、海側の道であることが分かります。

 

 古事記が712年に書かれた(今年は古事記誕生1300周年)のですが、翌年713年筑前國風土記が書かれ、それから1000年以上経った、1784年に貝原益軒さんが、書き足して「筑前國續風土記附録」となったそうです。

二宮神社が五郎江(現在今宿小学校付近)から松原に1710年頃移転した、1727年頃東松原の集落が青木村の分村として出来たとのこと。

三韓征伐征伐を行なった神功皇后(じんぐうこうごう)が凶賊に白木の矢を射て、やっつけたのが夷魔山(いまやま)で、現在の今山なんだそうです。

三韓征伐http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

長垂山や海岸の長垂(ながたれ)は神功皇后が浜で長い釣り糸を垂れて釣りをしたからという説、もう一つはお茶を日本に伝えたことで有名な栄西(ようさい)和尚が山の椿から油を採ることを伝えたのが油山であるが、糸島でも油を採っていて、それがこぼれて、坂道を長く垂れて流れた所が長垂と呼ばれるようになった説とがあるそうです。

鯰川(なまずがわ)と七寺川とは同じではなく、おひらき池から下流を鯰川といい、以前河口の双葉自動車の脇辺りに、畳1畳分くらいのつるつるの黒い大きな石があって、満潮になると水面にかくれるので、見た目が大きななまずに見えたそうです。その岩を鯰石(なまずいし)と呼んでいたそうです。河岸工事で、その石はコンクリートブロックの下に埋まってしまったそうです。

上の附録の最後のほうの「ヒヤウゴダニという所に石穴あり」とかかれているくだりは誤りで、その石穴は「本村(もとむら)古墳」の石室であることが分かっているそうです。

 

もっといっぱい聞いているのですがメモが間に合いませんでした。

横浜が昔は「よこばま」と読んでいて、以前は徳永村に属していたが、今宿村に入れられたそうです。また女原(みょうばる)村がが周船寺村に入れられたりと今宿地区は所属がけっこう変わり続けている土地柄なんだそうです。なんせ、今は福岡市西区の一部ですから。

 

大内さんの知識を文字化しておくべきだと思います。この前今宿TVの最初の15分を大内さんの今宿歴史コーナーにして、記録として残すことを柴田酒店の柴田さんにお話ししました。その大内さんのコーナーだけでもDVDにして、さいとぴあの図書館に残しておけば、今宿の歴史の多くの貴重な部分が記録として残せると思います。

大内さんは話す相手によって、話し方を変えてその人が理解できるよう、面白おかしく、時には下ネタも入れて話してくれます。大内さんが調査した老人たちで、すでに亡くなった方がかなりいらっしゃいますが、大内さんは調査したその人の語り口で話してくれるので、言葉にその人らしさが生き生きと伝わってきます。これが語り部の効果だと思います。大内さんの生きた知識をもっと吸収しないともったいないと思います。

大内さんありがとうございました。今後もよろしくお願いいたします。こういう貴重な話を老人の方だけでなく、今宿の若者にも、もっと伝えることを学校や教育委員会の方はご検討いただけると嬉しいです。きっと今宿に誇りを持つ、ひとつのきっかけになると思います。

大内さんの長寿を願ってやみません。


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