しまちゃんの愛し糸島ブログ

糸島を個人的に愛している人達の紹介と、ネットワーク作りを目的とした、愛し糸島プロジェクトの情報発信ブログ。

イスラム国の日本人人質事件に思う

2015年01月22日 01時36分36秒 | しまちゃん関係

これはあくまで個人の意見です。

 

テロや戦争の原因は貧困、貧困は格差社会が作る

今、世界中で国同士、国内でも民族同士、個人間で格差が広がる問題が広がっています。お金も食糧もつきて、生きていくのに、武器しか残っていなければ、犯罪という形で他者からお金や食糧を奪いに行き、国対国、または組織体組織ならテロや戦争という形に発展していきます。

人間を動かすのこれはは脳で、脳の性質は

生物としての人間は「人間の脳は新しい刺激を求める」という根本的な性質を持っています。また「人間は社会的生きものであり、自分が他者から好評価された時の喜びの刺激を更に求める傾向があります。」つまり三つ子の魂百までというように「子どものとき褒められたり喜びや快感を感じたことは強く脳に刻まれる。そして、その喜びや快感をもう一度味わうためまたはそれ以上の喜びや快感を味わうための行動を行ないがちであります」。この性質を利用して教育の名のもとに、特殊な価値観を植えつけると、特殊な性質を持った人間が出来上がる。その特殊かどうかは、それぞれの人が生きている土地で異なります。

人間は退屈な平和が続くと新しい刺激が欲しくてその平和を打ち壊す行動に出てしまうのが、良くも悪くも人間の脳の自然な働きなのだと思います。

この前、NHKのスーパープレゼンテーションという番組で、ある学者の人がマスコミの報道を見て戦争やテロや暴力が人類の歴史から見て増えているように思うかもしれないが、実際は減ってきているということをプレゼンされていた。昔の方が生きるために人は他社を傷つけていたようだ。ということは生き残ることを生物学的に善とするなら、少しはそちらに近づいていることになります。

僕のつたないイスラム教の経験で考えたこと

14年位前にパキスタンを旅行したことがあります。、飛行機でイスラマバードから北の方の空港(地名を忘れてしまいました申し訳ない。)まで飛んだとき、サービスなのかコクピットにいれてくれて、景色を眺めさせてもらいました。あっちがK2という山だとか指差してくれましたが、どれもヒマラヤ山脈の東の端の方らしくて、とにかく高い山と深い谷が入組んでて、平地があまりありませんでした。上空から人が住める場所らしきもの、村らしきものがほとんどみえませんでした。それでも、ところどころに道らしきものが見えましたが、おそらく、ある地点から隣のある村に行くためには富士山より高い山をいくつか昇って降りるくらいの労力が必要な感じでした。とにかくずっと山ばっかりなのです。または、低地伝いに行こうとすれば、脳みその溝みたいに入組んだ谷をとんでもなく長い距離を迂回しながら進まなければならない感じでした。こんな平地が無い所に、自分は住めないなと思いました。

パキスタンの東北部のフンザと呼ばれ地域に行ったのですが、その地域がすでに高度2000mくらいで、その地域では4000m以下の山に名前がついていないということでした。

帰り道は空路で行った道を陸路で帰りました。丸2日間ずっと車に乗っていたのですが、インダス川上流からの川沿いの道を北東から南西方向に走りました。途中半日以上木が1本も生えていない、瓦礫の砂漠みたいなところを通りました。ずっと、緑が無く、気温も40℃くらいあって、禿げた岩山と石ころだらけの台地が延々と続いていました。そのとき、3年間雨が1滴も降っていない土地だと聞かされました。かって、人が住んでいた集落みたいなところも廃墟みたいになっていました。その風景を見たときも、ああここにも自分は住めないと思いました。

何が言いたいのかというと、パキスタンも含めてイランやイラク、アフガニスタンやアラブ諸国のイスラム教が流布している国は砂漠や礫獏が多く乾燥していて暑い地帯にあり、そういう自然が厳しい国ではイスラム教でなければ調整がとれないのではないかと思ったということです。つまり、仏教やキリスト教では人々の心を安静にできにくいのではないかということです。仏教徒やキリスト教徒が多く住む地域は水に恵まれている地域が多く、食糧が得やすい所が多いのでは。まず水や食が足りていることが冷静にモノが考えることができ、他者と話し合うことができる条件だと思います。

またイスラムとは平和という意味もあると聞きました。僕が知っているイスラムの人はおだやかで、貧しくても教養があり、自分たちの土地や文化に誇りを持っていて、他者にも優しい人たちでした。

世界の平和を作ろうと本気で取り組むために

人間はみんな自分の生きてきた社会の価値観でモノを見ますし、モノを考え、意見を言います。国連を見ても常任理事国が覇権を争い自分の国の国益を主張するだけで、他国の意見を聴こうともせずぶつかっています。国益を全ての国が追求し続ける限り、戦争やテロはなくなりません。

でも平和な世界を創り出し、人類が絶滅しないためには全ての人が話し合える状況が必要です。全ての国や人間が話し合えるためには、まず全ての人に水や食糧が確保されて短期的に全世界の人がまず死なずにすむ状況が必要です。そのためには、世界の人が「平和がいい」と、子どものとき脳に認識する必要があります。つまり、それぞれの「教育」のプロセスの中に、飢えることのつらさ、争うことの無意味さ、自然の厳しさ、他人を思いやる行動をすることと、感謝される快感、初めてのことにトライする勇気、失敗してもまたチャレンジする勇気、つらいとき楽天的になれる明るさ、やるべきことを成功させる厳しさ、一人でできないことをチームや組織で実現する快感などを、国や宗教を尊重しつつもそれを超えて共に学ぶ「教育」が必要なのだと思います。そして、平和だけど、人間の脳がわくわくする刺激が体験できる未来の世界のビジョンを世界の全ての人が自分なりに発表できるようにして、みんながそれらを見られる環境が作られたら、人間が生き延びられるのではないかと思います。

何が言いたいかというと、世界ビジョンを国家や政府や宗教や組織団体を超えて、一個人として話しあえる世界的ネットワークを作っちゃえれば、いいと思うのです。そのネットワークで世界の未来を話し合えるようにしていけばいいと思います。そのためには、世界の言語がすべて翻訳できるソフトを完成させることと、世界の人が安定して話し合えるサイトの作りかたをどんどん広めなければいけないです。つまり、どんな世界の果てにもIT端末があって、電気が確保できて、電波が届くようにしなければいけないのです。そして。その意見を公平に仕分けて、誰でも結果がみれるようにしたらいいです。

教育の基本として僕が重要だと思っていること

でも基本はまず親が子を自分の支配物にするのではなくて、わが子を信じて「自分で観て感じて、自分で考えて、自分の意見を言い、自分の考えで行動する人になる教育」を子に与えられるようになるということです。また、「平等とは参加者が富や機会を人数分で等分に分配することではなく、お互いに話し合って参加者の状況を把握しそれぞれの必要に応じて分配すること」そして「誰かと仲良くなることが幸せ」という価値観を持つことも教育の大きな課題だと思います。

 

なんか偉そうなことを書いてしまいました。イスラム国の日本人の人質報道を観ていて、なんか腹の中がもやもやしていて、こんな長文を書いてしまいました。何か役に立つことを何も言っていないということも重々分かっているのですが、書かずにいられない何かを感じました。

暴力では何も解決しないというのは、持てる者や安全圏にいる人間の理屈で、暴力しか生産手段が残っていないほど貧しい人がいるのも事実だと思います。一度暴力で食糧や富や権力を得て、それを快感に感じた人間は、さらなる暴力でもっと多くの富や権力を得る快感を求めていく傾向が人間の脳にはあると思います。それは生物として子孫を残すために生き残りたいたいという人間の本能にもとづいているかもしれません。

 

しかし、少し豊かで生き易い人間社会では、人間の脳は一度権力を持った人は権力を、お金を儲た人はお金を、アルコールやタバコを飲む人、ギャンブルをする人、恋愛でいい想いをした人、おしゃれをする人、仕事で褒められた人、スポーツで勝ったり、褒められたりした人、芸事で喝采をうけたり、何とか賞を受賞して褒められた人など快感を得たことをもっと求めるエゴを追求する傾向があるように思います。これをみんなが生き残れるよう、平和を追求するようにするためには、その人が存在することで誰かの役に立ったり貢献できる能力や技術を身に付けて、それを継続的に行使することで感謝されたり褒められることが必要だと思います。だから、お子さんたちに何でもいいから、誰かの役に立つ経験をさせ、誰かに貢献できる能力を身に付けさせてあげてください。

蛇足で付け加えるなら「地域に貢献」というのも今後の世界の教育のキーワードになるかもしれません。

 

ああ本当に自分が何にもできていないのに、偉そうですいません。僕のたわごとに付き合っていただきありがとうございました。あの人質の人たちが無事に帰国できることを祈りましょう。この無理解や誤解の時代が終わるよう何かをしましょう。