また過ぎた日のイベントのことを書きます。
「ここのき」さんにあったチラシを観ての参加でした。以前観た第五福竜丸の事を描いたベン・シャーンの絵本の文を書かれたのがアーサー・ビナードさんだと知っての参加でした。僕はベン・シャーンの骨太の絵が好きで、僕より少し年上の世代のデザイナーやイラストレーターの人でベン・シャーンのファンの人はものすごく多くて、影響を受けた人も多いです。それで、志摩の健康センターに行ってきました。
ビナードさんのイベントのお客さんはまだ幼いお子さんを持つママさんたちや、そのお母さん世代の人が多くて、ほとんどが女性でした。
このイベントの主催をされているボノワItoshimaの代表の方のご挨拶がありました。
日本語との出会い
アーサーさんはまずご自身と日本語との出会いを話してくれました。アーサーさんはアメリカのミシガン州出身で、英米文学やイタリア語を学び、詩を書いていたそうです。大学の卒論をほぼ書き上げ、卒業近くになったころ、日本語のことが書かれた本に出会ってしまったそうです。
日本語の文字文化の始まりは、まず文字が無い日本に漢字が伝わり無理やり音と字が当て込まれ、次にひらがな、カタカナが作り出されました。英語はわずか26文字のアルファベットに閉じ込められた世界で、日本語はひらがな、カタカナそれぞれ52文字と漢字のの組み合わせで無限の表現ができる。その日本語のその多様性に惹かれたそうです。
日本語に魅せられたアーサーさんは、即、日本語学校にもぐりこみ、3ヶ月感日本語を学んですぐ、日本行きの飛行機に乗ってしまったそうです。日本に到着したその日に成田から池袋の外人ハウスの8畳に2段ベッドが3つある部屋に泊まり、その翌日には日本の英字新聞を見て、英語教師のバイトの採用を決めてきたそうです。思い立ったら、すぐ行動するのようです。それにしても、その行動力が凄い。
「言葉のレンズ」のこと
日本に着いた翌日池袋の外人ハウスの近くの飲食店でモーニングセットの朝食を食べようとしたそうです。そしてそこのメニューに衝撃の文字を発見したそうです。それが”目玉焼き”という文字だったそうです。日本人は何の目玉を焼いて朝食に食べるのだろうと、なんて残酷なんだろうとものすごく怖い国民だと思ったそうです。その後蕎麦屋で日本人はタヌキやキツネの肉を食べるのかと思ったり、月見が生卵のことで、目玉焼きを英語でSunny-sideupというように卵の黄身を太陽になぞらえているように、卵の姿を月や太陽を自然物の象徴に見立てることが同じだと思ったそうです。
見ているものが同じでも言葉によって表現の仕方で見え方が違ってくることに気付いたそうです。それがまるで異なるレンズを通して見ているように見え方が違うことから、このことを「言葉のレンズ」と呼んでいるそうです。日本にいると日本語で、アメリカにいると英語のレンズを通して見ていることに気付いたそうです。
日本では折鶴蘭(おりづるらん)という蘭の花がアメリカではスパイダー(蜘蛛)という名前で、日本では華麗な花として部屋に飾っているのに、アメリカではあまり部屋に飾ったりしないのだそうです。
さてこの言葉のレンズはこの10年後「ことばメガネ」という絵本になっていったそうです。
りゅうじくんが英語メガネをかけてなかまち商店街を見て歩く物語だそうです。例えば横断歩道は英語だとゼブラ(シマウマ)というんだそうですが横断歩道がシマウマで表現されていました。
そこでしか生まれない言葉
アーサーさんは現在広島に住んでいらっしゃいますが、Hiroshimaについて語ってくれました。「Hiroshima」という単語は英語による「広島」の地名ですが、実際にはアメリカでは「原爆使用」や「原爆が落とされた状態の場所のこと」を指す言葉で、原爆が落とされるという意味合いが強いんだそうです。
さらに日本の広島市にアーサーさんは現在住んでいらして、被爆者を直接取材した経験もあって、「ピカ」という言葉のことを話してくれました。原爆体験者たちが一般的に「原子爆弾」などという単語は使わず 「ピカ」と言うのには理由があるそうです。
「ピカ」のほかに「ピカドン」という言葉もありますが、「ピカ」を使う被爆者は、原子爆弾が光ったのは見ているが、衝撃波ですぐに気絶して「ドン」を聴いた記憶が無い生存者、つまり、爆心地に近いところにいて、しかも熱線や爆風で死ななかった、ものすごく稀有な生存者なのであるということらしいです。
「ピカ」という言葉をアーサーさんが使っていると、広島市の人から、アーサーさんが被爆者でもないのに使って欲しくないというようなことを言われたそうです。しかし、自分は広島に住み、広島の平和公園での式典にも日本人に混じって出ているし、被爆者に寄り添って生きると決心をして生きているので、これからも「ピカ」という言葉を使っていくつもりだとおっしゃっていました。
「ピカ」や「ピカドン」にそんなに深い背景がある言葉だとは知りませんでした。
アーサーさんの広島の原爆被害者との取材の経験はやがて、「さがしています」という絵本に結実していったそうです。この本は被爆者の持ち物を写した写真とアーサーさんが取材を基にした文で構成されているとのことでした。上の写真は「時計」というタイトルで、被爆した時間で止ったままの時計だそうです。
さて、昼休みがあって、
アーサーさんのお話は熱を帯び、翻訳家や絵本作家というよりも、社会運動家のようになってきました。
マスコミや広告の言葉に気をつけよう
言葉のマジックに気をつけてくださいという前置きがあって、「普天間から辺野古へ移設」の「移設」という言葉にだまされるな!とまず”移設”ということばの解説からはじまりました。
それまでのマスコミの表現では「移転」が使われていたのですが、なぜか昨今「移設」という言葉が多用されています。「騒音を無くします。みなさんの負担を軽減します。」と地元民をだまし、建設費の全てを日本人の税金によって賄い、今まで滑走路が1本だった老朽化した普天間基地の代わりに、V字型の長い滑走路の大型の基地だけでなく、隣接してサンゴ礁を破壊して大きな軍船や輸送船が停泊できる軍港が併設した全く新しい基地作られるのだということを隠して、ただ古い基地を移転させているかのように感じさせるカモフラージュのために作られた言葉が「移設」であるとのことでした。
また似たような気を付けなければならない言葉に「放射能病」と「水俣病」をあげていらっしゃいました。
放射能病は第五福竜丸の屈強な船乗りがなった症状をさして使われた言葉で、病気じゃありません。これは毒をもられたのと同じで、誰かが放射能を振りまいたかをみんなが知っているのに、その罪や責任を誰も追及されないように誰かが創り出した言葉だそうです。
同じように水俣病も水銀中毒であることが分かっているのに、誰が水銀を撒いたかみんなが知っているのに、責任を追及されないようにさもふつうの回復できる病気にかかったかのように錯覚させる加害者側のPR担当者が作った言葉であるとおっしゃっていました。
子どもたちが生き残れるよう、言葉の裏側にひそむ、広告から洗脳(汚脳)されないようにした方がいい 。言葉に対するごまかしを見破るレンズを持ってくださいとのことでした。
そのあとで、アーサーさんの絵本のページを読んで絵本の簡単な紹介がありました。
この絵本は「パンケーキのつくり方」という本で、アーサーさんは翻訳をしたそうです。原作は世界的に有名な絵本作家エリック・カールさんで、小麦の刈り入れや脱穀、小麦粉づくり、牛乳採集や卵の採集など、不必要な技術を取り除いた、基本的な技術だけでホットケーキのつくりかたを紹介されているそうです。このやり方だと、世界中の人がほぼ同じようなホットケーキが作れるそうです。
この本を翻訳して自分も絵本が作りたいと心から思ったそうです。
その後、数冊の絵本の一部を抜粋して読んでこのイベントは終了しました。
イベント終了後、絵本を購入した人にその絵本にサインをしてくれました。
僕は第五福竜丸のことを、ベン・シャーンが描いた絵本「ここが家だ」を買ってサインをしてもらいました。アーサーさんは本を買ってくれた人一人一人に2~3分の時間をかけて会話をしてコミュニケーションをとってくれました。僕にはこのベン・シャーンのこの絵本の構成から絵の選択そして、文の作成までアーサーさん一人で行い、デザインを和田誠さんにお願いして、和田さんと打ち合わせを行なったことなどを話していただきました。
アーサーさんはアメリカの政府や権力者や金持ちが嫌いで、日本の被爆者や、子どもたちが大好きのようでしたし、携帯もテレビも持っていないなど、いろいろ徹底した価値観を持っている人であることを僕に見せてくれました。どこかでまた会える気がしました。こんどは、絵本の1冊ができるまでを、徹底して話して欲しいと思いました。