ヨブ記 2:1-6
ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
場面は再び霊的な世界に戻ります。再びサタンが神の前にやってくると、神はヨブほど全き義人はいないと誉め、サタンが理由もなくヨブに与えた試練を乗り越えて信仰を堅く保ったと自慢しました。するとサタンは、自分自身の身にいのちを脅かす危険が及べば神を呪うでしょうと、再び神を挑発しました。すると神はヨブをサタンの手に陥らせ、ただいのちだけは奪ってはならないとサタンの挑戦を受けました。ここで「皮には皮をもってします」という箇所は非常に難解ですが、ある翻訳では「背に腹は代えられない」と訳しているそうです。すなわち、にっちもさっちもいかない苦境に陥ったならば、信仰深そうに見えるヨブも化けの皮をはがして本性を出す、という意味です。人には本心を隠して表面上を取り繕う傾向があります。私たちの信仰が人目を気にする見せかけだけのものか、心の底から神に聞き従う真実なものかどうか、この人の信仰の真価が問われます。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.1-6.ja1955
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ヨブ記 2:7-10
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
ヨブのいのちさえ守ればその身に危害を加えても良いとの許可を神から得たサタンは、さっそくヨブの全身に悪性の腫れ物を患わせて肉体的な激しい苦痛に遭わせました。この悪性の腫れ物は、南ユダ王国の善王ヒゼキヤ王が瀕死の病に陥ったときの症状と同じです。ヨブの全身を覆う悪性の腫れ物から生じる痒みのために、灰の中に座って陶器の破片で身体をかきむしって耐えるしかない状況に、ついにヨブの妻も「神を呪って死になさい」と言い放ってヨブを見捨てました。しかしヨブは妻の暴言に対しても、神から祝福を受けるように災いをも受けるべきではないかと、言葉をもって神の御前に罪を犯すことはしませんでした。最も信頼の置ける妻から見捨てられても神に罪を犯すことをしなかったヨブの信仰に私たちも倣う者でありたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.7-10.ja1955
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ヨブ記 2:11-13
時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
すべての財産を失い、愛する子どもたちに先立たれ、更に自分自身の肉体も病に冒され、信頼していた妻からも見捨てられたヨブの苦境を知った3人の友人たちが、ヨブを慰めるためにお見舞いに駆けつけました。しかし見る影もなくなったヨブの惨状を目の当たりにした3人は、掛ける言葉さえ失い、自分たちの上着を裂き、天に塵をまき散らして悲しみを表現し、7日7晩、ただ呆然と見守るしかないほどでした。私たちも苦境に立たされた人を見るときに、何と言って慰めたらよいのかわからないことがあります。しかし掛ける言葉が見つからなくても、ただ側にいて共に悲しみを身に負い共感することが、何よりの慰めとなることがあります。悲しむ者と共に悲しむ、心の通い合う隣人となる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.11-13.ja1955
ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
場面は再び霊的な世界に戻ります。再びサタンが神の前にやってくると、神はヨブほど全き義人はいないと誉め、サタンが理由もなくヨブに与えた試練を乗り越えて信仰を堅く保ったと自慢しました。するとサタンは、自分自身の身にいのちを脅かす危険が及べば神を呪うでしょうと、再び神を挑発しました。すると神はヨブをサタンの手に陥らせ、ただいのちだけは奪ってはならないとサタンの挑戦を受けました。ここで「皮には皮をもってします」という箇所は非常に難解ですが、ある翻訳では「背に腹は代えられない」と訳しているそうです。すなわち、にっちもさっちもいかない苦境に陥ったならば、信仰深そうに見えるヨブも化けの皮をはがして本性を出す、という意味です。人には本心を隠して表面上を取り繕う傾向があります。私たちの信仰が人目を気にする見せかけだけのものか、心の底から神に聞き従う真実なものかどうか、この人の信仰の真価が問われます。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.1-6.ja1955
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ヨブ記 2:7-10
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
ヨブのいのちさえ守ればその身に危害を加えても良いとの許可を神から得たサタンは、さっそくヨブの全身に悪性の腫れ物を患わせて肉体的な激しい苦痛に遭わせました。この悪性の腫れ物は、南ユダ王国の善王ヒゼキヤ王が瀕死の病に陥ったときの症状と同じです。ヨブの全身を覆う悪性の腫れ物から生じる痒みのために、灰の中に座って陶器の破片で身体をかきむしって耐えるしかない状況に、ついにヨブの妻も「神を呪って死になさい」と言い放ってヨブを見捨てました。しかしヨブは妻の暴言に対しても、神から祝福を受けるように災いをも受けるべきではないかと、言葉をもって神の御前に罪を犯すことはしませんでした。最も信頼の置ける妻から見捨てられても神に罪を犯すことをしなかったヨブの信仰に私たちも倣う者でありたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.7-10.ja1955
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ヨブ記 2:11-13
時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
すべての財産を失い、愛する子どもたちに先立たれ、更に自分自身の肉体も病に冒され、信頼していた妻からも見捨てられたヨブの苦境を知った3人の友人たちが、ヨブを慰めるためにお見舞いに駆けつけました。しかし見る影もなくなったヨブの惨状を目の当たりにした3人は、掛ける言葉さえ失い、自分たちの上着を裂き、天に塵をまき散らして悲しみを表現し、7日7晩、ただ呆然と見守るしかないほどでした。私たちも苦境に立たされた人を見るときに、何と言って慰めたらよいのかわからないことがあります。しかし掛ける言葉が見つからなくても、ただ側にいて共に悲しみを身に負い共感することが、何よりの慰めとなることがあります。悲しむ者と共に悲しむ、心の通い合う隣人となる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/job.2.11-13.ja1955