伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
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雄々しくあれ、強くあれ。

2015-07-20 15:33:32 | クリスチャン
「雄々しくあれ、強くあれ。」という聖歌があります。このあとの歌詞が「少年たちよ」と続くことから、教会学校でもよく歌われる聖歌です。この聖歌は明らかに今日の聖書の箇所であるヨシュア記1章をモチーフにしていますが、この御言葉を語られたヨシュアは少年ではなく、モーセに代わってイスラエルを導くリーダーとなっていました。ですからこの聖歌は決して子どもたち向けの賛美ではなく、大人を含む全てのクリスチャンに向けられた神様からのメッセージが込められています。

神様がヨシュアに語りかけた言葉は「強く、また雄々しくあれ。」です。しかも「わたしはあなたに命じたではないか」と、単なるお奨めの言葉ではなく「命令」の言葉です。クリスチャンは強く、また勇敢であるべきです。なぜでしょうか? それは神様の御心をこの世界に成し遂げるために選ばれた存在だからです。その進む道は険しく、いくつもの障害が立ちはだかるでしょう。それらを乗り越えるために、全知全能の神様が共にいるのだからと約束してくださっているのが今日の聖書の箇所です。

私が最近感じている危惧は、クリスチャンは守られるべき存在だという風潮があることです。もちろんそれは真実です。しかし、神様の庇護の中にある存在として、余りにも受け身の体勢になりすぎてはいないでしょうか? 神様はたしかに私たちを守って下さいます。ですが、神様は決して私たちを甘やかすために守るとおっしゃっているのではありません。神様の守りは、私たちが現実逃避するためでもなく、神様の御手の中でぬくぬくと安穏な日々を過ごすためにあるのでもなく、この世の誘惑や罪に勝利して神様の祝福を勝ち取るためにあるのです。

私はクリスチャンの皆さんにぜひ言いたい!「強く、また雄々しくあれ」と。世の中は厳しいです。特に異教の国、日本の社会でクリスチャンとして生きて行くのはそう簡単なことではありません。だからといって、神様の守りという殻の中に閉じこもらないでください。現実に立ち向かうために、強く、雄々しくありましょう。頼みの綱は自分ではありません。全知全能の神様が共にいてくださるという約束を心の底から信じる信仰です。この御言葉を堅く信じる者に、神様は必ず目の前の現実を乗り越えさせてくださり、まだ見ぬ約束の地、本当の祝福の中に導き入れてくださいます。
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愛の大きさ

2015-07-19 07:18:57 | クリスチャン
「両手いっぱいの愛」という賛美があります。この賛美を捧げるとき、子どもたちでも、はじめて歌うの人でもできる簡単な振り付けがあります。

1番、2番の歌詞では「どれくらい僕を愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?」とイエスさまに問いかけながら、両手の広さを、最初は顔の幅くらい、次は肩幅くらいと、だんだんと広げてゆきます。そして3番の歌詞では、静かに両手を広げて十字架にかかってくださった、とイエスさまが答えられます。

このイエスさまの答えは、ただ単純に両手を広げた幅くらいという長さを表すものではないことは、おわかりいただけると思います。それは十字架に示された神様の愛、いのちを捨てて私たちを罪から救い出してくださったイエスさまの愛の大きさを表しています。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」という今日の御言葉は、まさにこの賛美のイエスさまの答えのように、神様の愛とはこんなにも大きなものなのだと、私たちの心に具体的、直接的に響いてきます。

そして次は私たちの番です。「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」 と、ヨハネの第一の手紙 3:16‬の御言葉は続きます。この大きな大きな神様の愛を受けた私たちは、愛を具体的に表すにはどうしたらいいか、すでに知っているのです。

それはすべて形になるものばかりではありませんし、形にすればいいと言う安易なものでもありません。ただ神様の愛を受けているクリスチャンとして、命がけで愛する、心血を注いで愛する。この真摯な姿勢、具体的な行動に表される愛を日常生活の中で実践して、まことの愛の大きさを私たちの周りに立証する者でありたいと願います。
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知恵を身に付ける究極の方法

2015-07-17 08:08:50 | クリスチャン
日曜日の夜に「林先生が驚く初耳学」という番組が放映されています。クイズや雑学が好きな私は毎週この番組を楽しみに見ているのですが、ジャンルを問わずわからないことがあったら何でも調べて自分の知識にしてしまうという林先生でも知らないことが、世の中にはたくさんあるものだと毎回驚かされます。

どんなに博学な人でも、世界のすべてを知り尽くすことはできません。いかに賢い人でも、広大な宇宙を司る法則をすべて理解することはできません。どれほど文明が発達し、宇宙の果てまでロケットを飛ばせる時代になっても、一つを知るとその何百倍もの不思議が次から次へと出てきます。私たちの住む世界はわからないことだらけ、それどころか、私たちは明日の自分のいのちさえもわからない人間に過ぎません。

ですから私たちは、自分は何も知らない存在であるということを謙虚に認めることが大切です。もし何でも自分で理解しなかったら納得できないとしたら、私たちはいつまで経ってもすべてを理解した状態に到達することができず、無駄に時間を過ごすことになるでしょう。そして、この世界のすべてを造られた神様がおられることを素直に認めることです。自然の法則も神様の御手の中にあり、その知恵は宇宙の隅々まで及ぶ。その神様を尋ね求めることこそが、本当の意味で知恵を究める最善かつ最短の方法だと思います。
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愛をください

2015-07-12 15:20:42 | クリスチャン
古くからあるゴスペルソングに「愛をください」という曲があります。

♪イエスさま私に いつでも笑顔を
 あふれる感謝を ゆるせる心を
 どんなときでも どんな人にも
 与える愛を 愛をください♪

私はこの賛美を小学生の頃から歌ってきました。小さな子どもでもわかる平易な言葉と簡単なメロディーで、神様の愛を表した素晴らしい賛美だと思います。

しかし大人になるにつれて、この賛美は安易に歌うことのできない曲だと感じるようになりました。この歌詞を口ずさむ毎に、こんな簡単な言葉で表現される愛すら持つことのできない自分を嫌と言うほど思い知らされ、自らの愛の足りなさ、偏狭な心しかない自分を情けなく思い、いかに神様の愛とは深遠なものであるか、まざまざと思い知らされます。

「隣人を愛せよ」との御言葉に誰を隣人と想定するでしょうか。せいぜい家族や仲間内に留まるのが私たちにできる精一杯の愛。もしかしたら最も身近にいる人さえ愛することができないのが人間的な愛の限界です。私たちの身の回りにいる人たちにさえ簡単にイラついたりする私たちは、敵を愛し迫害する者のために祈ることなど到底できないのです。

だから私たちは「愛をください」と祈り願うしかないのです。善人の上にも悪人の上にも等しく注がれる陽の光のような大きな大きな神様の愛は、人がどんなに努力しても到底身に付けることのできない異次元の愛です。賛美の中でも、毎日の祈りの中でも、神様、あなたの愛をください、私たちの持つちっぽけな愛とは比較にならないほど大きな神様の愛を私たちに備えさせてください。そのような謙虚な心で「愛をください」と賛美する者でありたいと願います。
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日々きよめられ続けることの大切さ

2015-07-10 07:45:04 | クリスチャン
今日の聖句の箇所を読んで、昔ある神学生から日々きよめられ続けることの大切さを教えていただいたことを思い出しました。

私たちはクリスチャンになっても罪を犯します。それは私たちの内にある本質、罪の根は死ぬまで残り続けるからです。このことに気がつかないと、過去に犯した罪や過ちを一度ごめんなさいと謝ったらもう自分には罪がなくなったかのように誤解してしまいます。そして再び罪を犯してしまうと、罪責感にさいなまれ、自分に嫌気がさしてしまう。そしてそのとき犯した罪だけを告白して、もう自分は赦されたと自分に言い聞かせる。そんな一喜一憂の繰り返し、信仰の一進一退をいつまでも続けてしまう愚かさに気が付きません。

たとえ過去の罪は赦されても、これからも罪を犯し続けてしまうのが私たちの持つ本質的な罪の根深さです。罪から解放されたというのは、罪がなくなったことではなく、罪が残ったままでも、キリストの十字架の血潮で塗りつぶされて、きよい者と神様に認めていただいているということです。聖歌に「罪汚れはいや増すとも、主の恵みもまたいや増すなり」とありますが、まさに日々きよめられ続ける恵みを端的に表しているのだと、そのように教えられました。

罪を告白するとは、氷山の一角のように水面上に現れ出た罪の一面を神様の御前に報告することではなく、水面下に隠れている罪の本質があることに気付いて、こんなにも罪深い私を赦してくださいと神様に寄りすがることです。そのとき私たちは、イエス様が十字架で成し遂げられた罪の赦しの深さ広さを、本当の意味で味わい知ることができるのではないでしょうか。
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相応しい言葉が見つからないほどの神様の素晴らしさ

2015-07-07 07:49:34 | クリスチャン
「今日の聖句」を書いている中、「天の御国と永遠のいのちがいかに莫大な…」とまで書いて、ふと手が止まってしまいました。

天の御国と永遠のいのちを、何にたとえたらいいか、相応しい言葉が見つからなかったのです。

「資産」ではあまりにも金銭的・物質的な感じが醸し出されてしまう。

「祝福」や「恵み」では幸せとか精神的な喜びだけにとどまってしまいそう。

「賜物」では莫大さというか計り知れない深さ広さを言い表し切れない。

他にどんな単語を思いついたか、思い出せないほど考えたのですが、どれも一長一短で、あれやこれやネットの類語辞典とかも調べながらも、適切な言葉か見つからないまま、30分くらい考え込んでしまいました。

結局、最も相応しい言葉が見つからないまま、「価値」という言葉でお茶を濁すような感じになってしまいました。

神様の素晴らしさを一言で表すとしたら何にたとえたらいいでしょう? きっと永遠の課題になるような気がします。
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格別な主の慈しみを感じるとき

2015-07-05 08:16:53 | クリスチャン
今日の御言葉からつくづく思わされたことですが、私は神様に特別に守られていると感じることが数え切れないほどあります。

身近な例でいうと、最近のゲリラ豪雨に見舞われるときにも、私が通勤や外出で道を歩いているときは雨がやんでいたり小降りになって、家や会社の建物に入るとまもなく土砂降りの雨になることが、かなり頻繁にあります。これは私の家族も認める事実です。

人はこれをラッキーだねと言いますが、私はこれこそ主を信じ忠実に仕える者に対する神様の特別なご配慮だと受け止めて、その度ごとに主に感謝しています。

たとえ些細なことであっても、私たちの身の回りで起こる様々な出来事の背後にある神様の慈しみと守りを感じたとき、素直に神様に感謝することができたならば、神様はきっとお喜びになられるのではないかと思います。そして更なる恵みの数々で私たちの信仰生活を豊かなものとしてくださる、たとえ物質的には豊かではなくても、小さな恵みに気付いて感謝することに満たされることこそ本当に豊かで幸いな信仰生活だと信じます。
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決して逃げてはいけない

2009-10-18 03:37:28 | クリスチャン
明日の茅ヶ崎教会・中高科週報のコラムに書いた記事をご紹介します。

***

先日、今年定年退職された大先輩の慰労会を兼ねた会社内の同窓会(同じ大学卒業のOB会)が行われました。その方と一緒にお仕事をすることはなかったのですが、年1回の同窓会でお会いして会社での様々な経験に裏打ちされたお話を伺えることは、同窓会に参加する楽しみの一つでした。その方が後輩に向けてお話しされたメッセージで、印象に残ったことのうちの1つを要約してご紹介します。

『仕事をしていると、自分の思う通りに話が進んで順調なことばかりではなく、壁にぶち当たって行き詰まったり、取り返しのつかないような失敗をすることもよくあった。そんな時に絶対にしてはならないことがある。それは、逃げることだ。
実は、ピンチとは最大のチャンスで、その人が普段からどのような態度で仕事に接しているか、その人の真価が問われる時なのだ。社長とか部長とか人の上に立つ人は、決して結果だけを見ているのではなくて、ピンチの時にその人がどのように行動するかをしっかり見ている。ピンチの時に立ち止まるのはいい、ジタバタしてもいい。でも、決して逃げてはいけない。
結局、失敗で終わってもそれは仕方ない。でも、もしそこで逃げてしまったら「あの時、あいつは逃げた」という信頼を損なう結果しか残らず、二度と挽回のチャンスなど来ない。
だからピンチの時に何よりも大切なことは、まず前向きに取り組むこと。現実は厳しくても真正面から受け止めて、どこかに活路がないかと一生懸命に取り組む姿勢が大切で、結局うまくいかなかったとしても、その人は見込みがあるから次のチャンスをあげよう、と評価される。仕事の評価は一時的だが、人の評価は一生残る。』

こんな話、単にサラリーマンの人生教訓だろう…と受け流しても構いません。でも私は、聖書の教えにも通じる人間の生き方の真実が隠れていると思います。私(伊藤)の大好きなヤコブの手紙の主題「信仰はその人の行動に表れる」ということは、聖書の中だけでなく一般社会でも共通する真理だと思います。
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シナイ写本がオンライン公開へ

2008-07-23 23:53:49 | クリスチャン
ITmedia 『最古の新約聖書、オンラインで公開へ』 より

現存する最古の聖書として知られる「シナイ写本」の一部が、オンラインで公開されることになったそうです。現在シナイ写本は世界4箇所に分散して保管されているそうですが、このうちライプチヒ大学図書館に保管されている写本の一部が7月24日に公開され、来年7月までには残りの写本全ページが公開されることになるそうです。

今まで歴史的な書物などは損傷の可能性があるためなかなか公開されることはありませんでしたが、デジタル技術の普及により、このような形で誰もがみることができるようになることは喜ばしいことだと思います。
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「赤毛のアン」にみる前向きな信仰

2008-06-24 23:54:57 | クリスチャン
帰宅して食事をしていると、ちょうどNHK教育テレビで外国語講座が行われている時間帯になります。4月から3ヶ月間、毎週火曜日には『「赤毛のアン」への旅~原書で親しむAnneの世界~』という番組が放映されていて、今日は最終回でした。

「赤毛のアン」は有名な小説ですが、今日は作者であるモンゴメリの生涯について触れられていました。そこで初めて知ったのですが、彼女は「赤毛のアン」を出版した後に牧師と結婚し、牧師婦人としても地域の人々にも慕われたそうです。

赤毛のアンの中には様々な心に残る名セリフがありますが、いずれも前向きで、どうしてなんだろうと思うと、作者モンゴメリのクリスチャンとしての生き様を代表しているのかも知れません。

またまたNHKの講師紹介のページで知ったのですが、今回の講師の先生は、赤毛のアンを聖書からの引用を交えて翻訳された翻訳家だったということで、英語講座の割には聖書的な人生観がふんだんに盛り込まれた内容だった理由がようやくわかりました。

アンの前向きな名セリフをいくつか引用させていただきたいと思います。

・アンの最大の理解者であったマシューが亡くなって進学を断念せざるを得なくなったときのアンの言葉
「私の人生、これから幸せな道がずっとまっすぐに延びていると思っていた。けれど、今はちょうど曲がり角に差し掛かったの。曲がったむこうに何があるかわからないけれど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。」

・先生として務めはじめたアンが失敗をして落ち込んだときのマリラの言葉
「たった一日で、大失敗はできないよ。それにまだ先は長いじゃないか。」
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ペンテコステ・洗礼式・そして母の日

2008-05-11 23:58:12 | クリスチャン
今日はペンテコステ(聖霊降臨節)といって、キリスト教会ではクリスマス、イースターと並んで重要な祭日(記念日)でした。ペンテコステという喜ばしい日にあわせて、私たちの教会では洗礼式が行われ、3名の方が受洗されました。

また今日は母の日でもあります。私たちの教会では毎年恒例となっているのですが、壮年会からご婦人たちにカーネーションのプレゼントを行いました。ちょうどペンテコステ、洗礼式とも重なったので、3重の喜びとなった聖日でした。
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年度替わり

2008-04-06 23:51:29 | クリスチャン
今日は教会で部会・役員会が行われました。年度替わりでもあり、教会総会を前にして準備と総会資料の確認が行われ、夕方遅くまでかかってしまいました。特に会計報告でどこか計算が合わなかったのですが、よくよく調べてみたら、自動集計してあるはずのセルに、直接数値が入力されていて、計算式が消えていたのが原因でした。原因が判明してホッとしました。

教区総会の準備も同時進行で行っているため、あっちもこっちも資料作成で当分大忙しです。
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「この曲った時代から救われよ」

2008-03-26 23:59:11 | クリスチャン
asahi.com 『父ちゃん子なぜ…親「心見抜けなかった」 岡山・突き落とし』 より

土浦での8人殺傷事件、岡山でのホーム突き落とし事件…。青少年が引き起こした無差別凶悪犯罪が、ここ数日の間に立て続けに起こってしまいました。

何が青少年たちの心を狂わせているのか? なぜ人を殺すことを平気で考えてしまうのか? 一部では暴力ゲームとの関連性があるのではないかとも言われています。もちろんそれも原因の1つとして考えられると思いますが、それだけなのでしょうか?どうやったら青少年たちの心を正常に保つことが出来るのでしょうか? はっきりいって、青少年たちの心が読めない…そんな悲壮な気持ちにさえなってしまいます。

いや、青少年だけでない。成人だって、一見普通というか、立派な人のように見える人でさえ、いとも簡単に犯罪を犯してしまう、狂った時代。この時代の最先端のような悪影響が、青少年たちをまずむしばんでいるのかも知れません。

何よりも、この人間の良心が完全に狂ってしまっている状況を、何とかしなければなりません。「どげんかせんといかん」のです。こういった時代だからこそ、「この曲った時代から救われよ(使徒行伝2:40)」という聖書の言葉が本当に必要とされているのではないでしょうか?
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明日の準備

2008-03-22 23:47:41 | クリスチャン
明日は午後から教師会があるため、英文テキストの翻訳と、来年度に向けた教会総会資料案を間に合わせないと…そして中高科礼拝のメッセージがある…、と結構忙しく準備をしていました。

特に英文テキストの翻訳に時間を取られ、翻訳の目処がついたのが夜11時頃。それから中高科の週報を大方作成し、やれやれと思いながら、来週の説教者を確認しようと月刊奉仕予定表を見たら…中高科のメッセージは来週だった!

もっと早く奉仕予定表を確認すれば良かったと思いつつつも、ショートコラムの記事はそのまま来週使えるので、来週は少し楽が出来ると思い直して、これから総会資料案を作成するところです (^^; 。
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コミュニケーション・ミス

2008-03-01 23:58:11 | クリスチャン
明日の礼拝で歌うワーシップソングの曲目が、担当の宣教師から連絡が来ないなぁ…とずっと待っていたのですが、23時を過ぎても連絡が来ないので、さすがに心配になってこちらから電話を掛けてみたところ、宣教師はてっきり明日の担当ではないと思っていたようで、あやうくワーシップタイムができなくなるところでした。

先月末に牧師から、今月のワーシップタイムの担当予定がメールで送られてきて、今月の月間予定表にも書いてあったので、私もてっきり担当者には連絡が入っているものと勘違いして、確認を忘れていました。

小さなコミュニケーション・ミスが重なることによって、意見の食い違いや誤解を生んだりすることもあります。今回は未然に防げたのでよかったですが、わかっていても確認することを忘れないようにして、コミュニケーション・ミスによる思い違いを最小限にくい止めるようにしなければならないなと思わされました。
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