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「わたしは主である」との御言葉の意味

2015-09-05 08:00:47 | クリスチャン
今日の聖句の箇所はレビ記19章でした。有名な「十戒」について詳しく記されている箇所です。その中に「わたしは主である」という御言葉が、何度も何度も繰り返し出てくることが気になりました。

なんで十戒の意味するところを解説するときに、「わたしは主である」と何度も神様はおっしゃったのか?と、いろいろな先生方の解説やメッセージをインターネットで検索して、考えてみました。

そのとき示された御言葉が、マルコによる福音書10章27節の

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
‭‭
‬ という御言葉でした。

この箇所は、ある金持ちの青年がイエス様のところにやってきて、永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいかと尋ねた、有名な箇所です。幼い頃から律法を忠実に守ってきたと言い切る非の打ち所のない青年も、自分の財産をすべて貧しい人に与えなさいと言われたとき、悲しみながら去ってゆきました。隣人愛のない正義をイエス様に指摘されたのです。

そして、そんなことがどうしてできるようになるかと問われたときに、人にはできなくても神様ならばできるとイエス様は答えられました。愛のない人間にはできないことも、神様の愛を受けるならばできるとおっしゃったのです。

すなわち、形式的に律法を守ることは人間の努力でできたとしても、律法の本質である愛は、人間の努力だけではできない。しかし、神様の心を自分の心とするならば、できるようになると言われたのです。

ですから律法について詳しく解説するレビ記の端々にも、人にはできなくても神である私が共にいるならばできるよ、という意味を込めて、神様は「わたしは主である」と何度も繰り返されたのではないかと、今朝そのように神様から示されました。

「わたしは主である」との御言葉に込められた神様の思いの一端を知ることができた幸いな朝でした。
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