衆院憲法調査会の最終報告書は、「小沢戦略」の成功を意味し、大勝利まであと一歩へ

2005年04月16日 20時19分06秒 | 憲法問題
9条改正、方向触れず 衆院憲法調査会最終報告書 (朝日新聞) - goo ニュース 

衆議院憲法調査会(中山太郎会長、枝野幸男会長代理)が15日最終報告書を河野洋平衆院議長に提出した。5年間の審議を経て、報告書ようやくまとまった。この報告書には、自民、公明、民主3党が賛成、社民、共産両党が反対した。自民、公明、民主3党は、国民投票法案について協議し、早期成立を目指すという。
 報告書がまとまったからといって、憲法改正案が直ぐに作成されて、国会で発議されるというわけにはいかないが、参議院側の憲法調査会の報告書も待たれる。また、自民党がすでに小泉首相の指示で、改正案づくりに入っているのをはじめ公明、民主両党も独自の改正案づくりに入っていくことになろう。      現日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布、昭和22年5月3日から施行された。公布から58年、施行から57年。間もなく60年、つまり「還暦」を迎える。
 しかし、日本国憲法は、日本が独立を回復するとともに、改正に関する論議が次第に各方面で行われるようになった。初めは、「第9条の改正」に関して生じ、再軍備論と再軍備反対論とが争った。 その後、第9条以外の点についても、憲法改正論議が唱えられるようになり、たとえば、昭和29年を通じて活動した自由党の憲法調査会が、憲法条項のすべての面において、改正論を主張した。
 以後、とくに保守勢力が、憲法改正への意欲を示したが、「第96条」(改正条項)が、「各議院の3分の2以上の賛成」を発議の条件としていることから、憲法改正がすぐに実現する見込みは少ないとされてきた。
 この「3分の2以上の賛成」を得るための手段として、「選挙制度」、とくに衆議院の選挙制度の見直しが課題となり、田中角栄首相が、昭和48年4月10日、「小選挙区制度採用」を表明、導入法案を閣議決定し、国会に上程されそうになった寸前、社会、民社、公明、共産の「オール野党」が反対し、4月24日、院内共闘を決定、5月11日、野党が国会審議を全面拒否したため、政府は5月16日、国会提出を断念した。
 日本国民は、不思議な投票行動をする民族で、「中選挙区制度」によって投票すると、「保守勢力」と「革新勢力」がほぼ拮抗する形の結果を出す。それが小選挙区制にすると、「3分の2」の多数を確保することが可能になる。
 中選挙区制度の下で、「革新勢力」は、政権を樹立することができたはずだが、「革新勢力」が、「共産党」を警戒して、一つにまとまれなかったことが最大の原因で、「政権」を取ることができなかった。
 このため、自民党が昭和30年11月15日に保守合同して以来、単独で長期政権を維持した。自民党が初めて野党に転落したのが、38年目のことであった。
 小沢一郎元自治相らのグループが平成5年6月末に自民党脱党して新生党をつくり、7月18日の総選挙で自民党が過半数を割ったのである。新生党、日本新党、新党さきがけ、公明党など8党派が8月9日に細川政権を樹立する。
 あれから約12年、田中角栄首相が果たせなかった憲法改正のための条件が整ってきた。それは、憲法改正に反対してきた社会党(現在の社会民主党)、共産党が衰弱し、民社党はいまはなく、公明党は、改正派に回っているからである。
 これは、言うなれば、「小沢戦略」が成功したことを意味し、ようやく大勝利まで「あと一歩」にたどり着いた。小沢一郎という政治家は、誠にしつこい、真の政治家である。
 アメリカから「憲法改正・再軍備」を条件に巣鴨プリズンからの脱出を許されたのが、岸信介元首相だったが、この「密約」を果たすべく憲法改正の準備作業を小沢佐重喜衆院議院に命じた。小沢佐重喜衆院議院は、選挙制度の改正、すなわち、「小選挙区制度採用」の必要を痛感し、その調査研究に取り組んでいたが、その最中に、志半ばにして、死去してしまう。この遺志を継いだのが、長男・小沢一郎であった。小沢一郎は、田中角栄元首相を「政治の父」とした。
 自民党を分裂させ、「保守勢力」をわざわざ割って、革新勢力と合従連衡することにより、憲法改正反対の「牙」を抜き、ついに、反対勢力をほぼ絶滅するところまでたどり着いたのである。
 自民党の大多数、公明党のほとんど、民主党のおそらく3分の2が「賛成」と見られ、「各議院の3分の2以上の賛成」という条件は、クリアされている模様である。
 衆院憲法調査会の最終報告書が衆院議長に提出されて最も喜んでいるのは、憲法改正論者で知られている中曽根康弘元首相だろう。だが、もっと喜んでいるのが、民主党の小沢一郎副代表ではなかろうか。
 キリスト教精神と「法の支配」という思想を根底とするワイマール憲法を継受し、世界で最も進化した憲法と言われる「日本国憲法」の下で、戦後の自由民主主義教育を受けた立場から言えば、「改正」には、かなり忸怩たるものを感ずる。
 だが、日本民族は、有史以来、一度も国民の手で自らの憲法を制定した経験がない。聖徳太子の「17条憲法」、明治の「欽定憲法」、いまの「マツカーサー憲法」は、いずれも「上からの押しつけ憲法」である。
 改正するにしても、国民の自発性を重んじ、かつ、基本的人権思想、自由民主主義原理を損なうことのない憲法をつくらねばならない。「愛国心」と「国を自らの手で守る気概」という「精神的バック・ボーン」、「筋金」にしっかり支えられた憲法への改正が望まれる。これが完成すれば、日本国憲法は、自主憲法の「魂」、あるいは「画竜点睛」の打ち込みを果たし、完成する。


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