政治ジャーナリストの使命と役割 

2004年03月13日 15時58分31秒 | 政治
*単なる「歴史の証言者」に止まることは許されない
 社会科学の一分野としての「経済原論」は、成熟している。だが、「政治原論」は、未だ確立されていない。そこで、経済学者が行う経済原論に倣い、政治原論の確立が求められる。
 しかし、私は、社会科学者ではなく、市井における一介のジャーナリストとしての立場から、「ジャーナリスト流」の「政治原論」を試みてみようと思う。
 ジャーナリストは、森羅万象のすべてを取材対象とする。人間であれば、一国の国家最高指導者から一般市民までを取材対象とし、日々生起する事件、事故、出来事などを追う。
 このなかで、政治ジャーナリストは、「政治」を取材対象としている。政治とは、「国家を治めること」「まつりごと」「権力の獲得・維持をめぐる争い。またはそれを行使する活動に関係ある現象」をいう。
 政治ジャーナリストは、この政治現象を追うのを第一の務めとしている。「歴史の証言者」としての務めの一つともいえよう。しかし、単なる「証言者」に止まることは許されない。
 *「国民の立場」に立つ「基本的人権の擁護者」
 市井における一介のジャーナリストである私の立場は、言うまでもなく「国民の立場」に立っている。国権(立法・行政・司法)の立場に立っているわけでもなければ、特殊利益の担い手である企業や業界団体の利益を擁護する立場に立っているのでもない。
 ジャーナリストは、「国民の立場」に立って、何をするのか。もちろん、デイリーなニュースを日々追いかけ、報道するのが任務であることは、言うをまたない。「国民の立場」に立つというのは、「国民の基本的人権を守る」というのと同義語である。この意味でジャーナリストは、「基本的人権の擁護者」という使命と役割を担っている。
 取材者は、往々にして取材対象との間で親密になり、ついには癒着し、その使命と役割を忘れてしまい、取材対象の走狗に堕落することがある。「ミイラ取りがミイラになる」の譬えがそれをよく表している。たとえば、大新聞社の政治記者が、大政治家の「番記者」となり、いつとは知らず、「秘書」か「番頭」のような使い走りと化すような場合である。新聞業界では、いまでもよくある事例で、これではジャーナリストとして大事な「魂」を売ったも同然である。
 近年の傾向として、あたかも特定の政党や業界団体、あるいは宗教団体の擁護者であるかのような報道や論評、評論が目立つジャーナリストは、少なくない。どういう立場に立ち何を擁護しようとしているかを見抜かなければ、惑わされる。
*「権利のための闘争」の一翼を担う
 日本国憲法が保障する「基本的人権」は、一朝一夕に獲得されたものではない。第10章「最高法規」の一番最初の第97条(基本的人権)が「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類り多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と規定しているように、多くの人々が、圧政を乗り越えて、血の犠牲を払って獲得した貴重な権利である。それゆえに、決して疎かにしてはならないのである。
 ここで注意しなくてはならないのは、第12条が、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と規定しているように、憲法が保障している「基本的人権」は、ただ単に守ればよいというものではないということである。懸命な不断の努力を怠ってはならないのである。また、「保持」に努めるばかりでなく、「自由及び権利の拡大・充実」のための手を緩めてはならず、言うなれば「権利のための闘争」を永続させていく必要がある。ジャーナリストは、その一翼を担っているのである。
*国権の基本的人権侵害を監視し、中止を促す
 従って、ジャーナリストは、この「基本的人権獲得」の人類史上の延長線上に立っての取材、報道活動行う責務を負っている。具体的には、日本国憲法の「第3章」(国民の権利及び義務、第10条から第40条まで)の規定に照らして、国権が国民の基本的人権を侵害する行為を行っていないか否かを監視し、侵害行為を発見したならば、直ちに取材し、報道により国民に知らせ、侵害行為を中止させるように促さなくてはならない。
*自由権の濫用により「国家権力の介入」を招かないよう自戒すべき
 当然のことながら、ジャーナリストが、「憲法第21条」の規定する「言論、出版その他の表現の自由」(報道の自由を含む)を振りかざして、国民の基本的人権を侵害するようなことがあってはならないのである。第12条は、「国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と規定し、国民を厳しく戒めている。国民の一人であるジャーナリストは、この規定を肝に命じて、「基本的人権を侵していないかどうか」を厳重にチェックしつつ、取材活動や報道行動をおこなわなくてはならない。
 報道機関や出版社は、立法・行政・司法の「3権」に対して、「第4の権力」とまで言われるように、社会に対して、大きな影響力を持っている。この権力的な力の上にあぐらをかき、時に横暴にもなる。
 報道機関や出版社が、国民の基本的人権を侵害したと疑われる行為をした場合、侵害されたと感じている当事者が、救済を求めて駆け込むのは、「裁判所」である。裁判所は、国民の基本的人権を擁護する機能を持たされており、この目的を果たすべく「司法権」という名の国家権力が作動し始める。「個人(私人)の基本的人権」VS「言論、出版その他の表現の自由」という対立に対して、裁判所が、司法権を発動する。 報道機関や出版社は、せっかく、「言論、出版その他の表現の自由」を保障されて、国家権力の介入を受けない立場にある。それにもかかわらず、「基本的侵害行為」の有無をめぐって、「国家権力の介入」を招く結果になる。これでは、何のための「自由」がわからなくなる。
 報道機関や出版社は、自らの不用意な行為によって、「国家権力の介入」を招かないように用心しなくてはならない。このことは、個々のジャーナリストにも言えることである。各々が自戒すべきである。
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