出版の自由を濫用し迂闊にも司法介入を招いた文藝春秋「週刊文春」 

2004年04月13日 16時02分33秒 | 政治
*編集長の木俣正剛が「仮処分決定」の経緯を説明
 文藝春秋の「週刊文春」(二〇〇四年四月一日号)で、編集長の木俣正剛が、「『仮処分決定」』を受けて---編集長から」という文章を掲載している。「田中眞紀子前外相」の長女の離婚」を報じた「三月二十五日号」が、東京地裁の「仮処分決定」により、「販売差し止め」を受けた問題について、木俣正剛は、東京地裁の仮処分決定を次のように批判した。
 「証人も傍聴人もいない民事保全法の仮処分は、憲法上の議論や判断をともなう雑誌の販売差し止め等にはもともとなじまない制度ではないでしょうか。
 ともあれ審尋のあと、きわめて大胆な判断を今回、東京地裁民事9部の鬼澤裁判官が下しました。その結果、何が起きたのでしょうか。『プライバシー』の直訳でしょうか。『(長女の)私生活』という言葉が新聞テレビに氾濫し、『悪質なプライバシーの侵害』という先方の批判によって逆に真紀子氏の長女自身の『私生活』が何か特異なものであるかのように強い好奇心にさらされる結果となりました。
 さらにそのために、一方で今回の地裁決定の是非をめぐる重要な議論もじゅうぶんにできなくなりました。なぜなら、議論の出発点にあるべき記事への正確な言及が封殺されてしまったのですから。そして、私たちの社内は---」
 木俣正剛は、埼玉県朝霞市の倉庫で倉庫管理にあたっていた十八人のスタッフが、「三月二十五日号」の目次の「田中真紀子長女・・・」の部分をカッターでくりぬくなどの作業を行った模様を描写、最後に、
 「ともあれ、この程度の仮処分決定は、もちろん私にとって初めての経験でした。私たちは、田中真紀子氏の長女の人生のある出来事を、いわゆる公共性を確信して書き、その人権を配慮したつもりでしたが、はたしてそれがじゅうぶんであったかどうか。先の検証記事ではそのプロセスを詳細に追いました」
 と述べている。
*これは田中眞紀子の逆襲だ
 電車の吊るし広告に「週刊文春」(二〇〇四年三月二十五日号)が、「田中眞紀子の長女離婚」という記事を掲載しているというのを私も見た。
 「田中真紀子長女わずか一年で離婚」「独占スクープ 母の猛反対を押し切って入籍した新妻はロスからひっそり帰国」
 その翌朝のニュースで、仮処分申請したとテレビが報道していた。私は一瞬、「これは田中眞紀子の逆襲だな」と思った。
 翌日、地方出張の途中、JR大宮駅の売店を覗いたら、週刊文春は、一冊も置いていない。店に人に聞いてみると、「ありません」という返事である。
*問題の週刊文春の記事
 だが、出張から帰ってみると、求めていた週刊誌が買ってきてあった。私の事務所の秘書がJR南浦和の駅近くの書店にあるのを見つけて買ってきていたのだ。早速、なかを開いてみると、一六三頁から一六五頁に掲載されている。リード部分は、
 「田中真紀子氏の長女の結婚を小誌がスクープしたのはわずか一年前のこと。母の猛反対を押し切り「意中の人」との結婚を果たし、ロサンゼルスで幸せな結婚生活を送っていたはずの新妻に、一体どんな心境の変化があったのか。そこに真紀子氏の影響はあったのか?」
 記事の主人公は、聖心女子大学を卒業して日本経済新聞社の広告局に勤めていた長女・真奈子さん(29)である。本文は、以下のように報じている。
 「『アメリカではすれ違いの生活』
  『本当に特別なお嬢さんですから』
 という小見出しが二本あるだけの大して長い記事ではない。冒頭部分を引用してみる。  早すぎるな・・・』
  事情を知る関係者が声を曇らせて語る。
 『彼女は母親に似て、思いつめたら頑固で、その上意外に決断の速いところがあるとは聞いていたけれど、結婚生活が一年も持たなかったとなると、可哀相にも思えてきます』 田中真紀子前外相の長女・真奈子さん(29)の結婚を小誌が報じたのはわずか一年前のこと。その後、夫のAさんの転勤先のロサンゼルスで幸せな新婚生活を送っているとばかり思っていたのだが、なんと真奈子さんは既に極秘に帰国しており、離婚届も提出してしまったのだという。
 聖心女子大学を卒業して日本経済新聞社の広告局に勤めていた真奈子さんが結婚したのは昨年二月。
 『Aさんは九七年に真奈子さんと同期で日経新聞に入社し販売局勤務となりました。五年ほど交際した末の結婚でした。Aさんは一時は福岡支社に転勤しましたが、その間も遠距離恋愛を続け、彼が東京に戻ったのは一昨年九月のことでした。ところが、昨年三月から今度はアメリカ勤務となったので、それに合わせて真奈子さんが寿退社したのです』(日経新聞幹部)
 一昨年夏に秘書給与流用疑惑が発端で議員辞職、昨年十一月の総選挙で復活を果たした真紀子氏。夫の直紀参議院議員との間には、長男の雄一郎氏(33)。真奈子さん、次女の真美子さん(24)の三人の子供がいるが、祖父が元首相で両親ともに現役の政治家だけに、彼らやその配偶者が田中家三代目の政治家となる可能性は十分ある」
*田中眞紀子一家の「怒りの逆襲」の罠にまんまと嵌まった
 この記事を読む限り、どこでもありそうな「離婚話」であり、書かれたからといって、取り立てて目くじらを立てるまでもなかろうにとも感じられた。それほど、大した記事でもない。また、こんな程度の話をわざわざ紙面を割いて読者に伝えるまでもないのではないかとも考えた。
 しかし、同時に、「表現の自由」「報道の自由」を振りかざして興味半分に何でも記事にしてしまう「週刊誌媒体」が、とうとう「トツボに嵌まった」という感もまぬがれなかったのである。それは、文藝春秋の「週刊文春」や月刊の「文藝春秋」あるいは、書籍によって批判され続けてきていた田中眞紀子一家の「怒りの逆襲」の罠にまんまと嵌まったと見られたからである。
 田中眞紀子一家の「怒り」は、立花隆が昭和四十九年十月、文藝春秋(十一月号)に「田中角栄研究、その金脈と人脈」を掲載したのがキッカケで田中金権への批判が強まり、総理大臣の座から引きずり降ろされて以来続いている。
 田中眞紀子の長女は、週刊文春が見せたほんのわずかな「油断」と「スキ」を見逃さなかった。もっと凄いスキャンダル記事の掲載に慣れてきた週刊文春記者と編集部の「感覚麻痺」を見事に捕らえ、「プライバシー侵害」という「人権問題の救済」措置を求めて、東京地裁に駆け込んだのである。国民が受けている人権侵害による被害は、何としてでも急いで食い止めなくてはならないという使命を裁判所は課せられおり、緊急性に応えるのが、「仮処分決定」である。言い換えれば、私人が私人の「不法行為」によって権利侵害されたり、侵害されそうになったときに、救済できる最大の権限を持っているのは、司法つまり裁判所である。とくに、私人の行為により権利侵害が差し迫って急なときに、これを防ぐ方法の一つが、「仮処分」なのである。文藝春秋社はこの法的手段の持つパワーを甘く見ていた。
*「出版の自由の保障」と「プライバシーの保護」の二つの法益が衝突
 この問題を憲法という「原点」に立って整理してみると、「文藝春秋社の週刊文春の持つ「出版その他一切の表現の自由権と検閲禁止」と田中眞紀子の長女の「基本的人権=プライバシー権」とが衝突した事件である構図が鮮明になってくる。すなわち、「第二十一条(集会・結社・表現の自由、通信の秘密の保障)」(文藝春秋社側の法益)と「第十三条(個人の尊重と公共の福祉)」(田中眞紀子の長女側の法益=人権)の衝突に対して、裁判所が、どのようにパランスを量りながら裁定するかということに煎じ詰められる。
 第二十一条は「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」について、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と規定している。司法という国家権力の三権の一つを担う裁判所は、自由権に対して慎重な態度で権力行使することが求められる。
 一方、基本的人権を侵害されている国民を救済しなければならないという使命と責任・義務を課せられている。
*文藝春秋社側は「権利濫用の禁止」という規定に不用意だった
 こうした法益と法益保護の構造のなかで、文藝春秋社側が不用意だったのは、「権利濫用の禁止」という規定であった。日本国憲法は、第十二条で「自由・権利の保持の義務・濫用の禁止」について次のように規定している。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
 この規定の下で、第十三条は「個人の尊重と公共の福祉」について、こう規定する。
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 個人尊重という言葉には、「生命、自由、幸福追求権」のほかに、明示はされていないものの、「プライバシーの尊重」「人格権の尊重」「肖像権の尊重」などの意味も含まれていると解釈されている。
*忘れてはならない国民と国家権力者と「憲法」との関係
 憲法問題を考えるとき、最も基本的なことで忘れてはならないことがある。それは、主権者である国民と国家権力者と「憲法」との関係である。言い換えれば基本構造である。 日本国憲法は、主権者である国民の基本的人権を守るために、国民が国家権力者に対して提示し、権力行使を抑制する目的で制定されているということである。権力者が国民に下されたものではない。明治天皇が臣民に下された「欽定憲法」のような前近代的な憲法とは、決定的に違う。
 その証拠に、第九十九条の「憲法を尊重擁護する義務」規定には、義務者について、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と限定的に列挙している。「国民」が含まれていない。これは、憲法を守らせようとしている国民が、憲法をこれらの国家権力者に提示して制定されているので当たり前である。国民が自ら制定した憲法を順守するのは、言わずもがなのことだからである。
 改めて言うまでもなく、日本国憲法は、国家権力を「立法、行政、司法」の三権を分立し、相互に権力行使をチェック、牽制して、恣意的な行使を抑制させ、国民の基本的人権を守るとともに、個々の国民の意思を最大限尊重する民主主義が貫徹するシステムを採っている。
 個人が、社会秩序を乱す犯罪をはじめ「公共の福祉の濫用」にわたる行為を行った場合、国家権力は、個人の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を制限できるが、「罪と刑」を確定するには、近代刑法の「罪刑法定主義」という大原則を踏まえて以下の規定を順守しながら権力行使しなければならない。
 第三十一条の「法定手続きの保障」、第三十二条の「裁判を受ける権利」、第三十三条の「逮捕の要件」、第三十四条の「抑留・拘禁の要件、不法拘禁に対する保障」、第三十五条の「住居の不可侵」、第三十六条の「拷問及び残虐刑の禁止」、第三十七条の「刑事被告人の権利」、第三十八条の「自白強要の禁止、自白の証拠能力」、第三十九条の「事後刑罰法の禁止・一事不再理」、第四十条の「刑事補償」。
*長女は「基本的人権の侵害」を理由に、裁判所に救済を求める手段に訴えた
 さて、こうした基本的にことを再確認したうえで、文藝春秋社の週刊文春が、田中眞紀子の長女の「離婚」を記事として掲載し、販売しようとした際、長女が東京地裁民事部に「出版禁止の仮処分」を求めた民事事件について、分析してみよう。
 文藝春秋社の週刊文春は、第二十一条で「出版その他一切の表現の自由」を保障され、国家権力(立法、行政、司法)に対する「検閲禁止」規定によって、この自由が守られている。
 一方、田中眞紀子の長女は、第十三条の「個人の尊重」規定により、「生命、自由、幸福追求権」、「プライバシー権」「人格権」「肖像権」などが守られている。第一には、国家権力による権力行使から侵害されてはならない。第二には、「私人間」においても、個人は尊重されなくてはならない。国民が憲法を守るのは、当然のことだからである。
 今回の事件では、国家権力により長女の基本的人権が侵されたのではなく、「文藝春秋社の週刊文春」という「私人」(出版社が、報道機能を持っているから「公器」であるとは言われても、法的には私企業であることにはかわりはない)によって侵されそうになった。
 こう見てくると、長女は、「国会議員である田中眞紀子は公人であり、プライバシーの権利は制限されるにしても、長女である自分は、あくまで私人である」という立場から、文藝春秋社の週刊文春の記事掲載を衝き、しかも出版社が最も嫌がる「出版その他一切の表現の自由権」による「基本的人権の侵害」を理由に、裁判所に救済を求める手段に訴えてきた。
 長女が、東京地裁に仮処分を請求できたのは、週刊誌が発刊、発売される直前に記事掲載を知ることができたからである。記者の取材活動中に察知したか、あるいは、元日本経済新聞社広告局に在籍していた関係から、週刊誌の広告記事にタイトルが掲載されているのを元の同僚らから知らされたか、いずれにしても事前に知ることができたと見てよい。
*文藝春秋は「時間」に追われて重大なミスを侵し、「ドツボ」に落ちた
 本来なら、私人間の紛争を防ぐには、当事者どうしが話し合うことが必要である。話し合いで解決できれば、それに越したことはない。
 だが、週刊誌には、発刊日が前もって決まっているので、原稿締切り時間や脱稿、印刷時間も時間は刻々と迫っていく。このとき、文藝春秋社側は、「ビジネス上の切迫した時間」に追われて重大なミスを侵すことになる。それは、「司法権力による検閲を招く危険」であった。緊張した状態のなかで文藝春秋社側は、「GOサイン」を出し、見切り発車しようとしたのだろう。結局、「ドツボ」に落ちてしまった。
 長女の「仮処分申請」に対して、文藝春秋社側は、「国会議員である田中眞紀子は公人であり、その家族も公人であるので、ブライバシーはない」と長女の基本的人権を全面否定して対抗した。
*裁判所は侵害予防を最優先して「仮処分の決定」を下す
 裁判所にしてみると、個人から「基本的人権の侵害のおそれ」からの救済を求められ、放置していれば侵害結果の発生の可能性が大であり、それが緊急を要すると思料される場合、取敢えず、侵害予防を最優先し、「仮処分の決定」を下すのは、当然のことであり、やむを得ない措置だったろう。仮処分というのは、そういうものである。
 東京地裁は、長女を「公人でない」と判定した。となれば、私人のプライバシー侵害は、明らかに不法行為となる。憲法がいかに第二十一条で「出版その他一切の表現の自由」「検閲禁止」を規定していようとも、「国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のである。文藝春秋社側は、この当たり前の法理を余りにも軽視しすぎていた。
 長女の背後に母親であり公人である田中眞紀子の影が、たとえチラついていたとしても個人としては、あくまで「別人格」である。巷では、
 「田中眞紀子が費用を出してやらせている」
 と噂されたが、それはどこまでも推測にすぎない。証拠がある話ではなかった。
 しかし、文藝春秋社側は、「公人の家族も公人である」と主張して、東京高裁に仮処分決定の取り消しを求める請求をした。
*文藝春秋社は司法権という「国家権力の一つ」に出番を与えてしまった
 週刊文春の木俣正剛はじめ文藝春秋社関係者は、「表現の自由」「報道の自由」が憲法で保障されているのをよいことに、権利の上にあぐらをかき、傲慢になり、人権感覚にも鈍感になったその果てに、本来、権力行使に慎重さを求められる司法権という「国家権力の一つ」に出番を与えてしまったという「迂闊さ」を猛省すべきである。
 せっかく、憲法によって保障されている大切な自由権を自らの「濫用」によって損わせてしまったのでは、「権利のための闘争」の過程で血を流し、貴い命を失った数え切れないほどの先人達の苦労は、水泡に帰してしまう。権利は「不断の努力」によって獲得されるのであるから、後退させてはならない。
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