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ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.5.20 サブタイトル、一新します

2011-05-20 20:15:25 | 日記
 先日、あけぼの会のHPを見たところ、会長さんのエッセイで気になる部分があった。
 以下、転載させて頂く。

※  ※  ※ (転載開始)

乳がん患者会の名に恥じない活動を、そして、乳がん患者が社会で他の人たちと同じように堂々と胸を張って生きてほしいと願い、サポートする会として、30余年歩んできました。そうです、「再び、誇り高く美しく」。(最近、このフレーズをそっくり自分のブログで使っている人がいますが、これは私の特許名句なので、取り下げていただきたいのよ)

(転載終了)※  ※  ※

 御存知のとおり、私のブログのサブタイトルは「あせらず、あきらめず、頑張りすぎず、再び誇り高く美しく、を目指す日々」としてきた。
 「再び、誇り高く美しく」は、まさしくあけぼの会のキャッチフレーズをお借りしたものだ。
 何度も書いている通り、そもそもブログを開設することになったのは、2年前の夏にあけぼの会のHPに「再発患者の治療日記」を連載するチャンスを与えて頂き、その後しばらくして、会長さんから自分で好きなだけ書く方が良いのでは、と背中を押されてのこと。
 最初は、自分でブログを立ち上げるなんて、と大いに不安であったが、「再発患者の治療日記」を途中で中途半端に終わらせてしまうのでは、お読み頂いていた方への説明責任を果たせないと感じ、タイトルやご挨拶文については事前に窓口となってくださったTさんを通じて会長さんにお目通し頂き、了解を得てのことだった。

 私が再発治療後にあけぼの会に入会したのは、なんといってもこのキャッチフレーズに心を動かされたことが大きかった。
 今でも、再発治療を続けながら、背筋を伸ばして生きて行く上での指針のように大切に思っている。
 だから一会員としてこのキャッチフレーズを事前に了解して頂いた上で拝借することは、決して会に対して失礼なことではない、とも思ってきた。

 つい最近までは、あけぼの会HPにリンクも貼っていただいて、会から支えて頂いているなと感じるところも多かった。
 ところが、突然目の前に現れた「取り下げていただきたいのよ」という言葉に、あぁ、これは私のブログのことだな、と悟ると同時に、「でも、どうして?」と、思わざるを得なかった。
 会長さんの真意を聞かせていただこうか、とも思った。
 でも、会のHP上に公開されるということは、今さら聞くまでもなく、明確に「取り下げていただきたいのよ」であり、拝借している身とすれば、そうせざるを得ないのかと、残念ながら思わざるを得ない。

 くよくよ考えてもしかたない。それならば、この際思い切って気持ちを一新して、新しいサブタイトルにしたいと思う。そして「再び、誇り高く美しく」は私の心の中に大切にしまっておきたい。

 ということで、近々、新しいサブタイトルで再出発するつもりです。

 さて、今日もやはり気持ち悪さは続行中。空腹になっても食べてもどちらにしても気持ちが悪い。生唾が出てだるい感じ。
 それにしてもいきなり夏が来たかのような暑さに体も驚いているのかもしれないけれど。

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2011.5.19 痛みがないって・・・

2011-05-19 20:23:16 | 日記
 先週1週間を通じて一番嬉しかったこと。
 あれっ、本当にいいのかな・・・と思うほど、胸部の痛みが気にならなかった。

 痛みが出始めたのは4年前のゴールデンウィーク頃。再発が判明する前からだ。
 痛みが出始めたその時、癌細胞の骨への侵略は確かに始まっていたのだろうけれど、画像上に現れるまでにはタイムラグがあった。いつかも書いたけれど、もしかすると卵巣転移かもしれない・・・と疑われた卵巣のう腫と、MRIで判明した子宮筋腫の摘出手術による病気休暇もそろそろ終わり、もうすぐ復帰という時だった。

 ちょっと背伸びして食器棚の上の物を取ろうとした時に、胸のあたりにズキーン、ドスーンとした痛みがあった。あれ・・・筋を違えたかな、お腹をかばって変に捻じったかな、というのが第一印象。だが、とにかくしつこい痛みだった。2,3日しても収まるどころか、そのうち咳をしてもくしゃみをしても、何をしても響いて痛くなった。

 この頃は、痛みと不安でいつも苦虫を噛み潰しているような顔をしていたように思う。復帰してすぐにまた具合が悪くなったり、などということになったらそれは大変だから、と復帰直前に近所のクリニックに飛び込んだ。
 「運動不足で胸筋が弱っているのだろうね。かばいすぎないで意識的に使わないとダメ。(心配している)骨転移の痛みなんて、そんなものじゃないから(大丈夫)!」と言われ、たっぷり塗るようにとボルタレンの塗り薬を頂いたが、残念ながら全く効かなかった。
 お風呂に入って温まると少し和らぐ感じではあったから、気づけば長風呂をしていた。だが、とにかくずーっと絶え間なく鈍い痛みとともにあり、いつも不機嫌な顔をしていた。
 そして、いつのまにか痛みがないという状態がどんな感じだったか忘れてしまった。

 その年の夏。術後半年ごと-ちょうど2年半目-の骨シンチの読影結果では、胸部の骨は生理的な集積で、病変は疑われない、とのことだった。その後、秋頃から腫瘍マーカーの上昇が始まり、年明けの骨シンチで胸骨と鎖骨の転移が判明した。(その時、CT検査もされ、両肺多発転移、局所再発、縦隔リンパ節転移等までがセットのおまけでついてきた。)

 転院して再発治療を開始した。
 骨転移の進行抑制のためにゾメタの点滴が始まり、と同時にホルモン剤も変更。それでもなかなか功を奏さず、半年足らずで週1回のハーセプチンが加わった。さらにその4ケ月後からは、それに上乗せしてタキソテール6クール。副作用でよれよれになったけれど、両肺の2つの影は最後まで消失しなかった。(それでも副作用が酷く、それ以上続けることはできなかった。)当然、また癌細胞が再燃することになる。その後1年半弱で残されたホルモン剤数種類を全て使い切り、今はナベルビンに移行してまる8ケ月が経過したところだ。

 その間(今日はちょっと大丈夫そう、あまり痛くない・・・良かった!)ということはあっても、常に絶え間ない鈍痛、圧痛と付き合ってきた。ちょっと早歩きをしたり、坂道を登ったり、重いものを持ったりすると、ほどなくしてズーンと胸部が重くなって、息苦しさとともに鈍い痛みと押されるような感じが抜けなくなる。深呼吸をしてやり過ごす。入れればお風呂に入って温める。その繰り返しだ。

 だが、先週は本当に痛みを忘れていた。
 本当にいいのですか?という感じ。神様、こんなにどこも痛くなくていいのですか?と聞き返してしまう感じだ。

 痛くなければこんなに気持ちが開放的になって普通に過ごせるのだ、という何やら新鮮な驚きである。
 痛いのが当たり前・・・なんて、なんだか笑い話にもならないけれど、本当に今の治療のおかげで痛みから解放されているのだと自分で確認することが出来れば、辛い治療だって頑張れるのだから、我ながら本当に単純である。
 もちろん抗がん剤の副作用はあるけれど、しつこい痛みが消えるかもしれないと思えば、それにも耐えて見せようという気になる。
 つくづくこのままうまく付き合っていければいい、と思う。

 昨日のナベルビン投与により、発熱防止のため、いつものとおりロキソニンを服用中だが、今回は火照りがやけに気になる。熱があるわけでもないのに顔から上がホットフラッシュのようにかっかとしている。今朝は4時過ぎに目覚めてしまい、そのまま眠れなかった。そして、お腹の気持ち悪さと生唾も。なんとか明日をやり過ごせばまた週末が来る。痛みがない日々が続きますように。

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2011.5.18 ハーセプチン137回目、ナベルビン13クール2回目、ゾメタ53回目

2011-05-18 20:28:15 | 治療日記
 今日は昨夜の雷雨とうって変って五月晴れ。“紫外線に注意、対策をしっかりと”という天気予報だった。今日はフルコースの点滴で、出足が遅れるとまた一日仕事だし・・・ということで、昨日は勤務終了後、ちゃっかり病院最寄駅近くのホテルに前泊した。
 そんなわけで朝、夫にモーニングコールを入れてから、一人でゆっくり朝食をとり、徒歩10分かからずに病院到着。いつもより30分早かった。それでも来院受付機が1台故障中で、既に長蛇の列。
 今日は採血もないので、そのまますぐに内科受付後、30分ほどで診察室に入った。

 いつものとおり「先週は、いかがでしたか。」から始まる質問。「元気でした。この1週間、不思議なほど痛みが気になりませんでした。」とお答えした。
 投与後2日間はロキソニンを規定通り飲み、お腹の気持ち悪さと生唾が出る感じはあったが、吐き気止めの薬を飲まなくてもやりすごせたこと、お腹をかきまぜられるような感じがあるが、食べ過ぎないと大丈夫なこと。大分リズムが掴めてきて、休薬の後の1週目の方がちょっときつく感じるけれど、2週目になるとうまくやり過ごせるようであることを報告した。
 「痛くなかったですか?」と先生も首をかしげられていたが、1週間も痛みがないというのはこれまで殆どなかったことなので、なぜだろう、というのが正直なところだ。

 来週は休薬で、再来週からハーセプチンを3週に1度の投与にしたいが、現在薬剤部と交渉中で、もしかすると次回は間に合わないかもしれない。一応体重測定をしておくように、との指示が出た。
 再来週の14クール1回目の前には、白血球数のみ確認のため採血、その3週間後15クール1回目の前には、レントゲンと腫瘍マーカーも含むフル検査で採血の予定だ。

 化学療法室へ移動。さすがに一番乗りではないけれど、朝早いので点滴椅子は選り取り見取り。窓側の端を確保した。
 30分ほどしてから針刺。今日は若干痛みがあり、刺し終わった後も針がポートの中で動いているようにチリチリと痛んだ。その後30分ほどしてから薬が届き、点滴開始。今日はハーセプチン、デキサート、ナベルビン、生理食塩水、ゾメタ、生理食塩水合計6本のフルコース。
ハーセプチンの投与時間が短縮されたため、かつては4時間近くかかっていたのが3時間ほどで無事終了。隣の方もその隣の方もハーセプチンだけ、とかゾメタだけ、とかで次々にお帰りになっていく。最初から最後まで陣取っていたのは私だけか、とちょっとため息。
 針を抜く時もやはり衝撃があり、絆創膏を貼ってもらった後もちょっと疼いて気になった。

 会計を済ませ、薬局でロキソニンを受け取り、今日の病院プラス薬局滞在時間は5時間半。それでもゆっくりランチが出来て、久しぶりに最終の快速電車に乗ることが出来た。
 まぶしい日差しで汗ばむほどの陽気。昨日は雨模様だったため、晴雨兼用傘を持ちコートを着ていたので、差さず、着ずにいるとただでさえ多い荷物がますます増えるし、ということで傘は日傘として差し、コートも羽織って帰宅した。

 今日は2冊読んだ。
 1冊目はよしもとばななさんの「サウスポイント」(中公文庫)。表紙にはハワイの美しい写真。帯には「光の中に、波の中に、雨の中に、虹の中に、いつだって君がいた。奇跡のような恋と魂の輝きを描いた、ばななからの贈り物」とあったが、最初からスルスルと惹きこまれてあっという間に読んでしまった。ばななさんもフラをやっておられるが、私も一時ヨガスタジオでホットフラをしていたことがある。今はフラのクラスがなくなってしまったけれど、当時唯一踊る真似事のできた(?)“ハナレイムーン”が出てきてとても懐かしかった。

 2冊目は江國香織さん・角田光代さんほか7名の「源氏物語 九つの変奏」(新潮文庫)。
 帯には「豪華絢爛奇想天外人気作家九人が織り成すまったく新しい「源氏物語」」とあった。裏表紙には「時を超えて読み継がれ、日本人の美意識に深く浸透した「源氏物語」。その新たな魅力を九人九様の斬新な解釈と流麗な文体で捉えたアンソロジー」とあったが、いやはや若手のものは面白かった。金原ひとみさんの「葵」は今時の光と葵ですっかり惹きこまれた。町田康さんの「末摘花」もびっくりものだった。もちろん江國さんの「夕顔」はいかにも彼女の作品だったし、角田さんの「若紫」もしかり、堪能した。
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2011.5.17 母と娘(2)

2011-05-17 06:48:59 | 日記
 先日リフレクソロジーのオーナーと話した時の話。

オーナーは早生まれだが、私と同い年の49歳。
 昨年、お嬢さんが結婚された。そして今度、妊娠がわかったという。40代で早くもおばあちゃまになるわけだ。
 「“まだ安定期ではないから、他の人には黙っていてね。”と娘には念押しされているのだけれど、なんだかついつい気が付くとお客様に話してしまって・・・」と、とても高揚されていて、嬉しさで輝いていた。

 そして、それを伺った私もなんだか一緒にとても嬉しかった。幸せのお裾分けを頂いた気分というか、嬉しいことは皆で分かちあえばもっと嬉しい、と改めて感じたのだった。

 大震災、原発事故とこれからのことを冷静に考えれば、おりしもこうした時代に生まれてくる赤ちゃんたちにとって、現実が厳しいことは否定できない。けれど、それでもこれからの日本という未来を担う赤ちゃんの誕生は、やはり手放しに嬉しい。

 「私には息子が一人しかいないけれど、娘さんを育てるということはそういう嬉しさがあるんですね。」と思わず聞かれてもいない感想が出てしまった。
 彼女にはお嬢さんの下に未だ独身の息子さんもおられるが、「息子が結婚するときは、確かにこれでお母さん業はおしまい、と思うのかもしれない。」と彼女は言った。けれどお嬢さんが結婚した時は「これから娘が母になる時があれば、また出番がある、これからだな、まだ母親業は終わりではないな。」と思ったそうだ。
 自分が産んだ娘、あんなに小さかった赤ちゃんだった娘が、新しい命を授かり、育んでいくという命のリレーだ。

 今は結婚しないという選択は決して珍しいことではないし、さらには子どもを持つという選択肢が大半、というわけでもない。そういう時代の中で娘さんが結婚して、新しい命を授かったという奇跡のような出来事に、明るい未来を見たような気がした。

 一方、オーナーがご自身のお母様に電話で娘の妊娠を知らせたところ、お母様は「ああ、おばあちゃんになるのね。」とおっしゃったそうだ。
 ご自身が「あら、私、ひいおばあちゃんになるのね。」ではなく、あくまで「(自分の娘である貴女が)おばあちゃんになるのね。」ということだ。

 母にとって娘はいつまでたっても娘なのだなあ、と思う。自分よりも娘、自分よりも子ども。親は自分のことは後回しにして、子どものことを最優先にしながら自分の遺伝子、自らの子どもを育てていく。それは自分が親にそうして育ててもらったからなのだろう。
 大切に大切に、慈しんで育てることの神々しいまでの尊さを思う。

 もちろん、母親だけが子どもを育てるわけではない。少なくとも我が家は、父親がいなければとても立ちゆかないと思うことがしばしばだ。けれど、やはり“産む”という行為自体は母親にしか出来ない。

 残念だけれど、わが息子は私の孫を直接は産んではくれないな、と何とも仕方のないことを思ってしまった。そして、私が息子を授かった時に、私の母はどんな気持であったのか、聞いておけば良かったな、とちょっぴり後悔した。これからでもまだ遅くないだろうか。

 明日はまた通院日。元気になったと思う時分にやってくる治療日だ。こうしてきちんと治療ができることは有難いことなのだけれど、やはりちょっと複雑な気分である。

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2011.5.16 母と娘(1)

2011-05-16 20:39:41 | 日記
 先日旧友と会った時の話。

 友人は働き始めてまもなく、お元気でバリバリに現役だった50代のご両親を突然の交通事故で亡くされた。
 当時の彼女の言葉を思い出せば、ご両親2人、自動車で買い物に行かれた帰りの事故だったらしい。いつもはお父様が運転されていたのに、その時に限ってお母様が運転されていて、レスキュー隊が到着したときにはお二人とも既に間に合わなかった、という惨い事故だったと記憶している。
 彼女からそのことを聞いたとき、あまりのことに当時の私はかける言葉すらなかった。

 そして、彼女と高齢のおばあさまと海外留学中だった妹さんの3人が遺された。
 ちょうどその頃、私たちの周りは結婚式のラッシュだったが、何人かの友人の結婚披露宴に彼女の姿はなかった。当然のことだが、それどころではなかった、のだろう。
 
 その後、結婚の挨拶状を頂いたが、それを見るとご主人が旧姓となっており、彼女が自分の姓を継いだことが分かった。その通知が舞い込んだと思ったら、翌年以降、毎年のように新しい可愛い赤ちゃんの写真入りの年賀状が届くようになった。
 1番目のお嬢さんが今年大学生になり、2番目の坊ちゃんは高校3年生の受験生、3番目のお嬢さんが中学3年生の受験生、一番下のお嬢さんは小学校高学年だ。
 そう、なんと彼女は4人のお子さんたちのお母さんなのだ。
 あのか細い彼女が4児の母?!ということを聞いても、私はとても想像がつかなかった。それでもお子さんたちの写真を拝見するにまさしく彼女の遺伝子が息づいている。4人ともお母さんそっくりの美男美女だ。

 彼女は「それ以来、本当に人間は生身であり、次の瞬間どうなるかわからない存在なのだと思う。」としみじみ言っていた。何か困ったことがあれば親を頼りにすればいい、と何の疑いもなく思っていた20代。それが何の前触れもなく、突然の両親の死により絶たれてしまったのだから。

 出産だって子育てだって、どれほどお母様を頼りたかったことだろう。
 母は私一人しか産んでいないし、大昔のことでもあり、私が息子を出産したときには残念ながらあまり頼りになる存在ではなかった。けれど、ただそこにいてくれただけで、どれほど精神的にありがたかったことか。これがたとえば義母であったとすれば、そうはいかなかっただろう。だからこそ、いかに彼女が大変だったかは想像に難くない。

 亡くなったお母様は助産師であったということを先日初めて聞いた。そしてお母様も、少女の頃から痩身で華奢なつくりの娘を心配して、「あなたはきっと難産になるだろうから私が取り上げる。」とおっしゃっていたと言う。
 どれほど無念でいらしただろう。
 だが、幸いなことに、帝王切開でもなく自然分娩で4人を出産したという。
 「お母様がちゃんとそばについて守ってくださっていたのね。」と話した。

 そして、その後何年かの間、彼女と妹さんに何か嬉しいことが起こるのは、決まってご両親の祥月命日の日だったという。何か良いこと、サプライズがある、というと決まってその日だったそうだ。
 さすがに亡くなって4半世紀近くが経ち、最近ではずいぶんその回数は減ってきたけれど、5年、10年くらいは続いていたのだという。

 見えないけれど、母はずっと娘の後ろについている。母と娘、命のリレーについてとても考えさせられた話だった。
 私には娘はいないけれど、今も母にとっての娘であることは違いない。明日ももう一つの母と娘の話を書いておきたいと思う。

 新しい週が始まった。5月も後半だ。どうもお天気が下り坂。せっかく副作用がおさまったと思ったのに気圧のせいか頭が重い。 明日は雨降りのようだ。通院日の水曜日にはお天気が良くなっていますように。 
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