先日リフレクソロジーのオーナーと話した時の話。
オーナーは早生まれだが、私と同い年の49歳。
昨年、お嬢さんが結婚された。そして今度、妊娠がわかったという。40代で早くもおばあちゃまになるわけだ。
「“まだ安定期ではないから、他の人には黙っていてね。”と娘には念押しされているのだけれど、なんだかついつい気が付くとお客様に話してしまって・・・」と、とても高揚されていて、嬉しさで輝いていた。
そして、それを伺った私もなんだか一緒にとても嬉しかった。幸せのお裾分けを頂いた気分というか、嬉しいことは皆で分かちあえばもっと嬉しい、と改めて感じたのだった。
大震災、原発事故とこれからのことを冷静に考えれば、おりしもこうした時代に生まれてくる赤ちゃんたちにとって、現実が厳しいことは否定できない。けれど、それでもこれからの日本という未来を担う赤ちゃんの誕生は、やはり手放しに嬉しい。
「私には息子が一人しかいないけれど、娘さんを育てるということはそういう嬉しさがあるんですね。」と思わず聞かれてもいない感想が出てしまった。
彼女にはお嬢さんの下に未だ独身の息子さんもおられるが、「息子が結婚するときは、確かにこれでお母さん業はおしまい、と思うのかもしれない。」と彼女は言った。けれどお嬢さんが結婚した時は「これから娘が母になる時があれば、また出番がある、これからだな、まだ母親業は終わりではないな。」と思ったそうだ。
自分が産んだ娘、あんなに小さかった赤ちゃんだった娘が、新しい命を授かり、育んでいくという命のリレーだ。
今は結婚しないという選択は決して珍しいことではないし、さらには子どもを持つという選択肢が大半、というわけでもない。そういう時代の中で娘さんが結婚して、新しい命を授かったという奇跡のような出来事に、明るい未来を見たような気がした。
一方、オーナーがご自身のお母様に電話で娘の妊娠を知らせたところ、お母様は「ああ、おばあちゃんになるのね。」とおっしゃったそうだ。
ご自身が「あら、私、ひいおばあちゃんになるのね。」ではなく、あくまで「(自分の娘である貴女が)おばあちゃんになるのね。」ということだ。
母にとって娘はいつまでたっても娘なのだなあ、と思う。自分よりも娘、自分よりも子ども。親は自分のことは後回しにして、子どものことを最優先にしながら自分の遺伝子、自らの子どもを育てていく。それは自分が親にそうして育ててもらったからなのだろう。
大切に大切に、慈しんで育てることの神々しいまでの尊さを思う。
もちろん、母親だけが子どもを育てるわけではない。少なくとも我が家は、父親がいなければとても立ちゆかないと思うことがしばしばだ。けれど、やはり“産む”という行為自体は母親にしか出来ない。
残念だけれど、わが息子は私の孫を直接は産んではくれないな、と何とも仕方のないことを思ってしまった。そして、私が息子を授かった時に、私の母はどんな気持であったのか、聞いておけば良かったな、とちょっぴり後悔した。これからでもまだ遅くないだろうか。
明日はまた通院日。元気になったと思う時分にやってくる治療日だ。こうしてきちんと治療ができることは有難いことなのだけれど、やはりちょっと複雑な気分である。
オーナーは早生まれだが、私と同い年の49歳。
昨年、お嬢さんが結婚された。そして今度、妊娠がわかったという。40代で早くもおばあちゃまになるわけだ。
「“まだ安定期ではないから、他の人には黙っていてね。”と娘には念押しされているのだけれど、なんだかついつい気が付くとお客様に話してしまって・・・」と、とても高揚されていて、嬉しさで輝いていた。
そして、それを伺った私もなんだか一緒にとても嬉しかった。幸せのお裾分けを頂いた気分というか、嬉しいことは皆で分かちあえばもっと嬉しい、と改めて感じたのだった。
大震災、原発事故とこれからのことを冷静に考えれば、おりしもこうした時代に生まれてくる赤ちゃんたちにとって、現実が厳しいことは否定できない。けれど、それでもこれからの日本という未来を担う赤ちゃんの誕生は、やはり手放しに嬉しい。
「私には息子が一人しかいないけれど、娘さんを育てるということはそういう嬉しさがあるんですね。」と思わず聞かれてもいない感想が出てしまった。
彼女にはお嬢さんの下に未だ独身の息子さんもおられるが、「息子が結婚するときは、確かにこれでお母さん業はおしまい、と思うのかもしれない。」と彼女は言った。けれどお嬢さんが結婚した時は「これから娘が母になる時があれば、また出番がある、これからだな、まだ母親業は終わりではないな。」と思ったそうだ。
自分が産んだ娘、あんなに小さかった赤ちゃんだった娘が、新しい命を授かり、育んでいくという命のリレーだ。
今は結婚しないという選択は決して珍しいことではないし、さらには子どもを持つという選択肢が大半、というわけでもない。そういう時代の中で娘さんが結婚して、新しい命を授かったという奇跡のような出来事に、明るい未来を見たような気がした。
一方、オーナーがご自身のお母様に電話で娘の妊娠を知らせたところ、お母様は「ああ、おばあちゃんになるのね。」とおっしゃったそうだ。
ご自身が「あら、私、ひいおばあちゃんになるのね。」ではなく、あくまで「(自分の娘である貴女が)おばあちゃんになるのね。」ということだ。
母にとって娘はいつまでたっても娘なのだなあ、と思う。自分よりも娘、自分よりも子ども。親は自分のことは後回しにして、子どものことを最優先にしながら自分の遺伝子、自らの子どもを育てていく。それは自分が親にそうして育ててもらったからなのだろう。
大切に大切に、慈しんで育てることの神々しいまでの尊さを思う。
もちろん、母親だけが子どもを育てるわけではない。少なくとも我が家は、父親がいなければとても立ちゆかないと思うことがしばしばだ。けれど、やはり“産む”という行為自体は母親にしか出来ない。
残念だけれど、わが息子は私の孫を直接は産んではくれないな、と何とも仕方のないことを思ってしまった。そして、私が息子を授かった時に、私の母はどんな気持であったのか、聞いておけば良かったな、とちょっぴり後悔した。これからでもまだ遅くないだろうか。
明日はまた通院日。元気になったと思う時分にやってくる治療日だ。こうしてきちんと治療ができることは有難いことなのだけれど、やはりちょっと複雑な気分である。