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ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.6.8 「富士山」より「桜島」

2010-06-08 06:28:56 | 日記
 先日、あけぼの会から臨時ニュースとともに「再発乳がんと向き合うためのヒント 先輩患者から学ぶ」という小冊子が贈られてきた。
 8名の先輩患者さんの手記、患者へのアンケート調査結果、サポート情報を含む50ページほどのもので、日本イーライリリー社(抗がん剤ジェムザールの会社)が会に寄付してくださったものだという。

 監修の中村清吾先生が「はじめに」を書いておられた。
 「再発乳がんでも、自分らしく生きる そのためのがんと向き合う方法と処方箋」の中に“「再発乳がんは治らない」。なんて冷たい言葉!・・・”とある。

 4ページにわたる文章を恐れながら大胆にもまとめさせて頂くと、次のようになる。
 “確かに再発がんの場合、基本的には薬をずっと続けながら、日常生活を送ることになる。かつてはこの状況を「治らない」と言っていた。でもこれは患者の希望を失わせる冷たい言葉である。最終目標は「薬なしで安心して生活できること」だが、画像上がんが消えても細胞レベルまで消えたのか画像では判定ができない。つまり完治したか否かの判定が困難なので、治療はやめずに続けることが前提である。”
 そして、先生の喩えが「桜島状態を維持して、富士山を目指す」。“再発がんは最初は雲仙普賢岳のように噴煙が上がり、激しい爆発が起こるが、やがて、たまに小規模な爆発が起きて火山灰が降るけれど、生活は出来る「桜島」のようになる。さらにもう一歩すすめて「富士山」が目指すところ。「富士山」はなお活火山との定義ではあるが、いまや爆発の可能性は皆無ではないものの、殆どの人にとって活火山でさえない。今のところ再発がんの治療で「富士山」まで行けるのは一握りであり、殆どは「桜島」でとどまっている。それでも「桜島」で普通に生活することは可能で、そうした患者は沢山いる。この「桜島」を保つように病気の勢いをコントロールし、願わくば「富士山」を狙おうと考える。”
 “医師によっては「はっきり治らないと伝えるのが治療のスタートだ」と言う人もいるし、治療効果が上がらない患者が沢山いるのも事実だが、「富士山を目指して医療も研究も行われている」と伝えることは大切だ”と。
 そして“乳がんの場合、薬による治療効果がかなり期待できるようになり、再発後も5年、10年と普通に暮らせる人が増えているということをぜひ知っておいてほしい”と。
 “もうひとつ大切なのは、覚悟をもつこと。覚悟を決め、「そのとき」に備えて心の準備をしておくと、逆に日常が充実して生きられる、患者を通じて、そのように感じることがある、と。死ぬことは誰も避けて通れない、だからこそ再発をきっかけに死について考えたり、自分にとって悔いを残さないとはどういうことかを考え、生活も心も整理しておく。これこそ、がんが再発しても自分らしく生きるための鍵であり、それによってがんに打ち勝つことも出来るのではないか”と。

 去年の今頃だったか、今は放送終了となってしまったNHKのテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」での中村先生の言葉にとても心動かされたことを思い出した。
 乳がんにかかる年齢の女性は、働き盛りであり、母であり、妻である。そういう家族でも社会でも中心の年代の女性がこの病気になること自体大きなストレスであるが、さらに長期間の治療を続けていかねばならないことが一体どれほどのストレスであるのか、ということを真っ向からお話されていた。
 それまで自分からはどうしても口に出して言えなかったことを、こんなにはっきりと医師の口から聞くことが出来たのは初めてだったので、ちゃんと判ってくださっているのだ・・・、とテレビの前で呆けてしまった。

 そして、先生の「富士山」と「桜島」の喩えが実に私の心にストンと落ちた。告知の時にこんなふうに言って頂ければ、どれほど肩の荷が降ろせ、勇気が出て、前向きに治療に向かうことが出来るだろうか。
 奇しくも「桜島」には息子の中学受験の時に近くまで行った。説明会も本番も一泊二日の強行軍だったので、当然のことながら観光する時間はなかったけれど、日本一の富士山とは違う何か温かみのある山だった。

 また、元気と勇気をもらった。会には小冊子を送って頂いて、感謝である。希望をもってこれからも治療を続けたい。「富士山」でなく「桜島」で十分幸せなのだから。

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2010.6.7  ある “気づき”から

2010-06-07 06:19:39 | 日記
 先日、同級生からメールをもらった。
 私がブログで通院日に読んだ本として書き留めた本を読んだことで、これまで自分一人では気づくことができなかったことに気づくことが出来た。きっかけを与えてくれたことについてひとことお礼を言いたくて、とのことだった。

 “ここ数年、自分の才能や思いと他の人たちとの関係において、正しいことを言っているはずなのになかなか多くの人が賛同してくれない。いくら議論で相手を論破しても、あるいは実力差を見せつけても、自分を慕って、一緒にやろうと言ってくれる人は多くない。そのことにずっと苦しんできたけれど、「誰かのことを悪く言わなければ自分の良さを説明できない。それではダメなんだ。」ということをその本の著者がはっきり書いてくれてなんだか霧が晴れたような気がしている”とのことだった。

 このことに気づいたのは他でもない彼自身だから、私は実際のところお礼など言って頂くようなことを何もしていないのだけれど、もしほんの少しでも私のブログが役に立てたということなら・・・と、何だかじんわり心が暖かくなった。

 私のような凡人からすれば、芸術であれ何であれ、才能のある人は常にとても孤独なのだろうな、と思う。もちろん才能に甘んじることなく並々ならぬ努力を重ねていかないと、その才能も活かせないだろうし、せっかくの天賦の才能を活かすことができなければ神様に申し訳ないのだろう、とも思う。

 たとえいくつになっても人は気づくことが出来るし、それによって変わることが出来るのだ、と嬉しく思う。きちんと人の言うことに耳を傾けることが出来て、自分の中で凝り固まらず、リラックスした気持ちを忘れずに持っていさえすれば。残念なことに逆もしかり、で年齢は若くても、人の話に聞く耳を持たず、謙虚な気持ちがなければ、気づくことも変わることも出来ないのだろうに・・・と、もったいなく思う。

 昨日は、家族揃って「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」という映画を観た。49歳の主人公が取締役を約束されながらもその直前に会社を辞め、故郷で子どもの頃の夢であった鉄道の運転手になる、という物語。主人公とは同世代。親の介護も物語の大きな転機になっており、身につまされることも多かった。いかにも鉄男君といった鉄道会社の先輩とのやりとりには声を出して笑い、夫婦の会話にニヤリとし、父と娘、母と娘の会話にかつての自分を重ね、病に倒れた母と故郷に帰ってきた息子に遠い日の自分を見、知らず知らずに感情移入して何度も涙ぐんだ。一畑電鉄沿線の田園風景も美しく、懐かしさを感じる古き良き日本という感じだったし、普段乗りなれている私鉄がたびたび登場するなど、2時間以上の作品だったのに実にあっという間で、いい涙を流してとても癒された感じ。
 鉄ちゃんである息子は、出てきた電車がどうだとかこうだとかお気楽に捕らえたていたのだろうけれど、いい映画だったねえ、と喜んでいた。

 いくつになっても、そしてたとえどんな状態になっても、人は決して夢を捨てなくていい。もちろん夢といっても、この映画の主人公のように定年まで10年を残しての一大転身、そんな大それたものでなくていい。私はこれからも他の人からすればちっぽけでとるに足らないことであっても、前を向いて自分なりの夢と希望を大切に持ち続けたい。

 そして自分にとっての大切なものが何かということに気づいた時に、人は変わることが出来ると思う。いくつになっても、何かしらの“気づき”が出来る心の柔らかささえ失わずに日々を大切に過ごしていくことが出来れば、自分はまだ変わることができるのだと信じたい。

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2010.6.6 隠れ家リフレ

2010-06-06 09:18:12 | 日記
 昨日はリフレクソロジーに出かけた。通っていたサロンが先月末に引越して、新しい場所で再開してから初めて訪れた隠れ家サロンだ。

 途中休職等体調の悪化で通えない時期はあったけれど、通い始めてかれこれ足掛け7年目になる。きっかけは職場の友人の口コミだった。それまでも百貨店や駅ビルにあるサロンをいろいろ試していたのだが、いくらヘッドフォンで癒しの音楽をかけられても雑音は漏れてくるし、当然人の気配はするし、何より目覚まし時計等をそばに置かれて時間がくると「チーン!ハイ、おしまいです。」という感じでは、なんだかリラックスしたとたんに欲求不満がたまっていた。
 が、このサロンはマンションの一室。一度に2人までしか入れないので、多くてもお客は自分以外に1人だけだし、1人が良い、といえばそうしてもらえるし、実にストレスフリーで、すっかり気に入っていた。夫も息子も施術していただいたことがある。(息子は受験直前でまだ小さかったので、ちょっぴりくすぐったがっていたけれど、すごく気持ちよかった、とうっとりしていた。今の夫より大きくなった大足をお目にかけたらさぞ驚かれるだろう。)

 ちょうど初発のときに通っていた病院の目と鼻の先立ったので、午前と午後の検査で時間がぽっかり空いた時などにも通ったりしていた。転院してからは、ちょっと足が遠のいていたが、それでも喧騒の中で施術してもらってもリラックス感が全く違うので、行くならここ、という感じになっていた。

 オーナーが同い年、ということが今年になってからわかり、すっかり話が盛り上がってしまった。彼女はこの春結婚したお嬢さんとこの春就職した息子さんのお母様。母親暦は断然向こうが10年以上も上だ。我が家はまだ中学生・・・と思うと、若くて体力のあるうちに子育てをおしまいにしておけるとそれはそれでいいなあ、と思ったりする。ないものねだりなのは承知の上だが。
 彼女はこれがいい節目、これからは自分の仕事を精一杯やる期間、ということで独立した今のサロンをもって12年、思い切っての一軒家への引越しだそうだ。独立した当初はリフレブームだったし、百貨店やら駅ビルからもいろいろお呼びがかかったそうだ。が、人を何人も使って大きくしていくとなると、自分が本当にやりたい「直接人とかかわって癒しの施術する」ことが出来ずに経営の雑用ばかりになってしまい、どうもしっくりこなかったという。そのため、ご自身のポリシーで、本当にゆったり過ごしてもらうために飛び込みではなく予約客優先で続けてきたとのこと。
 ちょうど今雇っている女性が産休でお休みに入ることもあり、今後当分の間は自分ひとりで切り盛りしていくにあたり、本当に自分がやりたい形を模索しつつ、の引越しだそうだ。

 そんなわけで、これまでよりちょっと遠くなってしまった。最寄り駅から2駅プラス徒歩15分だったのが、最寄り駅から3駅プラスバス15分か、最寄バス停からバス40分プラス乗り換えて再度バス10分。チケットも買ったばかりで、うーん・・・と悩んでいたら、最寄り駅から3駅の駅から送迎もしてくださる、というのでこのままご縁を大事にしていきたい、と思っている。
 昨日は3年ほど前に結婚で地方に行っていたスタッフがまたこちらに戻ってきた、と助っ人に来ていて、久しぶりに彼女の懐かしい手で施術を受けた。

 本当に森の中の一軒家という感じ。バス停の前に同じようなウッディ調の2階屋が数件あり、その中にちょっと有名なフレンチのお店もあるそうだ。施術後にハーブティーを頂くサンルームの窓からの眺めは緑豊かな木々だけ。大きな桜の木まであり、来年の春が今から楽しみだそうだ。前のサロンで使っていた備品類を全てそのまま持ち込んだ、ということだが、ずっと前からここにあったのではないかと思えるほどしっくり馴染んでいた。すっかりリフレッシュしてボーっと余韻に浸りながらサロンを後にした。

 さて、ようやく土曜講習が始まった息子は、夫と午後から美容院。その後、しっかり応援衣装とグッズを携えて東京ドームまで交流戦の観戦に出かけた。
 試合が終わって2人が帰ってきたのは日付が変わる頃だったようで、私は家事から解放され、リフレのせいか、眠くてだるくて、先に寝てしまった。貴重な“一人で過ごす土曜日”を満喫した。
 また、今日から頑張れる。
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2010.6.4 堅実かケチか、気前がいいのか浪費家か

2010-06-04 22:32:02 | 日記
 物心ついた頃から「私は一生働きたい」と思っていた。それは、専業主婦だった母が、何か物入りがあると父にいちいち「○○があるので、○万円おろしてもいいでしょうか。」とお伺いを立てているのを見てきて、子ども心にも引っ掛かり、それが今の私に棘のようなものを残しているからだ。

 以前このブログで、「30年前のロングスカートを綺麗に仕舞っていたエコな母」と書いたことがあるけれど、決して裕福ではなかったにせよ、それほどまでに切り詰めなくても大丈夫だったはずなのに、根っから贅沢が出来ない人だったのだ、と思う。自分では思い切って自分のものが買えない。小さいからサイズがあわない、というのもあるが(今やさらに縮んで149センチ、38キロだそうだ。)、洋服は手作りで、今でも誕生日等に何か贈っても、「もったいなくて着られなくて(仕舞っている)」という実になんとも甲斐のない母だ。

 思えば父も「贅沢は敵だ」の時代の人だし、血液型がO型のわりに実に細かい(よく言えば几帳面)ので、それに比べれば大雑把な母(なぜかA型)は、具体的にどう節約するかよりもとにかく自分からは決して贅沢はしない、専業主婦たるもの外食も店屋物を取るのもいけないこと、という感じだった。

 そんな両親を見つつ育ったので、私も時間があって財力がなかった学生時代までは、マメに足で稼いで如何にバーゲンの山からお値打ち品を見つけるかには長けていたつもりだし、身の丈にあわないブランド品だの高級品には目もくれずにきた、地味な女子大生だった。そして就職して以来、結婚しても引き続きこつこつと天引きで貯蓄に励み、住宅財形を元手に今の団地を手に入れた。

 公務員だったから、勤め始めた当初は本当に薄給で、一人暮らしをしていた頃には、家賃を払って、光熱水費を払って、残りはこれだけ・・・新聞やめようか、と途方にくれたこともあった。けれど、長く勤めていれば少しずつでもそれなりにお給料もあがり、今では自分でどうしても欲しいものがあれば(もちろん金額にもよるけれど)いちいち夫に相談することなく買えるほどになった。それでも、ここに至ってもまだ母の「○○があるので○万円おろしてもいいでしょうか・・・」が耳から離れず、何となく後ろ暗い気がしてしまう自分がいて、それがなんだか情けない。

 一方、さすがに70歳を超えるまで現役で働き続けた義母は、自分で稼いで病弱の義父の代わりに生計を支えていたというくらいだから、とても気前が良い。これは夫や義妹のお金の使い方を見ていても実にそう思う。皆が喜んでくれるならばとサービス精神旺盛で、あまり後々のことは考えずに大判振舞いをする。

 果たしてどちらが幸せなのかなあ、と思う。お金を貯めてみたところで棺桶にまで積んでいけないし、子どもに残しても碌なことはなさそうだし、その時その時が楽しい方が人生愉快に決まっているけれど。ほどほどに、あまり無理して我慢しすぎることなくきちんと日々を楽しむ術も大切にして、というバランスは結構難しい。
 今や1回の点滴に数万円を払っているゴクつぶしのようながん患者の身で、100円単位、10円単位でスーパーの安売りを探すアンバランスな自分が妙に可笑しい。

 “ケチ”と“モノを大切にする”ということは違うと思うけれど、息子が小学生の頃、私は自分がしていたように、短くなった鉛筆に長いキャップをして使わせたり、短い2本をセロテープでドッキングして使わせていた。
 それを見て夫は嫌な顔をして、息子に「そんなの、しみったれているからやめろよ。」と言ってゴミ箱に捨てたそうだ。

 さて、そんな私たち2人の間に生まれた息子は筋金入りのケチだ。(モノを大切にしている、とは思えない。いろいろ無くすし、忘れ物は多いし、傘も雨が降るたびに毎度壊してくるし。)幸か不幸か一人っ子だから、何でも自分のものになっている。父母にとっては一人娘の最初で最後の孫であり、義母にとっては初めての姓を継ぐ男孫であったから、シックスポケットならぬファイブポケットで何でも潤沢に与えられてきた。
 にもかかわらず、本人曰く「他の人がこれが欲しい、と言ったらたとえゴミでももったいなくなってあげたくなくなる。」のだそうだ。・・・絶句である。

 いつであったか義母が来訪した時、近くに住む曾孫(義妹の息子の長男)に息子の部屋に溢れているぬいぐるみ(中3男子、いまだにぬいぐるみと一緒に寝ている。)を「1つお土産にもっていきたいんだけれど、もう要らないのをあげてくれない?」と言った所、「どれもこれも全てに思い出があって、1つとして要らないのはないから絶対にあげられない。」と拒否したそうだ。
 義母は顔をくしゃくしゃにして口をとがらせて思いっきり「誰に似たのか・・・ケチ!」と言っていた。(って、私のこと?)

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2010.6.3 前から持ってる

2010-06-03 21:06:01 | 日記
 昨年の抗がん剤治療の副作用で浮腫みが酷かったとき以来、夫の好意(?)で夜な夜なマッサージをしてもらっている。その時間だけはリビングに夫の好きなジャズが大きな音で流れる。(それ以外は本も読めなくなってしまうので音量を下げてもらったり、ヘッドフォンで聴くことをお願いしている。)

 夫と結婚するまでは、中学・高校とブラスバンドでクラリネットを吹いていたこともあり、ビックバンドの曲を耳にしたことはあったけれど、ジャズらしいジャズなど殆ど聴いたことがなかった。
 しかし、さすがに20年以上一緒にいると、耳だけは随分いろいろな曲を覚えている。夫が好きなトランペットやサックスのギンギンバリバリのジャズではなくて、私としてはどちらかと言えばクラシックを崩したようなものとか、ピアノトリオが聴きやすくて好き。私はクラシックピアノの経験しかないので、どうしてあんな運指で(まるで鍵盤に恨みでもあるかのようにぶっ叩いているようで)あんなメロディーが弾けるんだろうなどと思ったりもしたけれど。

 結婚前、それまで彼が高校生の頃から収集していたLPのレコード3,000枚を全て売り払って、それが私の婚約指輪に化けた、という笑えない話がある。「あれだけ売ってこれだけか・・・」と、がらんとしてしまった部屋で夫がつぶやいたのをまだ覚えている。この指輪は息子のお嫁さん(来るかどうか知らないけれど・・・)に譲らなければ、と思っている数少ない宝石の1つでもある。

 しかし、指輪をするまで気づかなかったのだが、なんと私はプラチナアレルギーだったのだ。ずっとはめていると赤くかぶれて水疱になってしまう。今では指が浮腫んでいて結婚指輪も何もしていないけれど、結婚以来、外出するときにはめても帰宅すると必ず外していた。それを夫に言うと「レコードの祟りだ。」と言われるオチまでついた。

 その後、夫は順調にCDを買い集めている。
 昔と違って、今では実際にあちこちの店を探し回らずともネットで簡単に買うことができるし、突然、宅急便が届いたりすると、嬉しそうにいそいそと包みを開けている。
 今ではCDラックに納められているCDは当時のLPレコードを上回るほど(あまりの数で数えたことはないけれど)の枚数となっているのはまず間違いない。私の本棚と夫のCDラックを見ると、(絶対もう引越しはしない・・・)との思いを新たにする。

 そういえば、何年か前に転移性乳がんで亡くなった絵門ゆう子さんも、ご主人にマッサージをしてもらっていて、急に息苦しくなってそのまま救急車に運ばれて・・・、という最期だったなあ、と仕方のないことばかりよく覚えている。
 そのことを知ったとき、がんになってご主人あるいはパートナーとの関係が悪化してしまう人とそうでない人の2つに分かれることを実感した。もちろんがんという病がある意味端緒にはなったかもしれないが、別にがんになろうがなるまいが、それまでの2人の関係が背景にあってのことだろうけれど。

 さて、夜のマッサージのときに、うつらうつらとしながら流れてくるBGMについて「あれ、これ聴いたことない(けどまた買ったの?)」と問うと、「前から持ってる。」と言うのである。必ず。
 「前から」というのが「今日新しく買ってきたものではない」という意味なのか「本当にずっと前から持っていたのだけれど、これまであまり聴いてこなかったコレクションだ」という意味なのかは本当のところ不明だ。
 が、私が内緒で買った洋服を着た時に、夫から「あれ、その洋服初めて見るね。」と言われれば「あらそう?前から持ってたけど、あまり着なかったのよ。」と答えることにしているので(こんな手の内を晒すことを書いていてはいけないのだが)、"おあいこ”ということでそれ以上聞かないことにしている。
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