ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.3.22 放置について思うこと

2015-03-22 15:05:29 | 日記
 ずっと抱えていたモヤモヤがあった。その原因が分かって気持ちがスッキリして、これで一歩前に踏み出せそうな気がする。話を聴いてくださった方に感謝だ。
 
 仕事であれ人づきあいであれ、自分なりに知恵を絞って一生懸命相手の為にさせて頂いたことを喜んでもらうことこそ、次に繋がる原動力なのではないかと思う。
 昨日の学位授与式の来賓の言葉にもあったけれど、医療関係者が仕事をしていて一番嬉しいと思えることは、患者さんの為に頑張ったことが患者さんやご家族に通じて(たとえ結果が良かろうが悪かろうが)感謝されることだ、という。

 その人の笑顔を見たい、その人が少しでも元気になってくれるならという思いは、もしかするとこちらのお節介であり自己満足なのかもしれない。けれど、それならそうとやんわりとでもそう言ってくれれば、そうそう深追いはしないだろう。
 とにかく、私の気持ちを落ち込ませていたものが“放置”だったということを改めて確認した。

 とりあえず拒否はしないで受け取る。けれど、実際受け取ったのか、あるいはそれが満足のいくものであったのか一切音沙汰なし。一言のコメントもない。
 こちらとしては何か気分を害するようなことがあったのか、何かこちらに落ち度があったのか、本当は迷惑だったのか・・・。それはもういろいろ悪いことを延々と考え続けるわけだ。もちろん、そんなことはこちらの勝手といえば勝手なのだけれど。

 忙しいのは今の世の中、誰しも同じではないだろうか。
 そんな中、自分の為にその貴重な時間を費やしてくれる方がいることを、私は何より尊く有難いことだと思う。だから、必ず感謝の気持ちを言葉にする。なかなか礼状が書く時間が取れない、そこまでするのは億劫だというならば、とりあえずメールだけでも良いではないか、と思う。以心伝心だから分かっている筈、などと自分にとって都合の良い解釈は他人同志ではまずありえないだろう。

 人それぞれの考え方があるから、何が正解かはわからない。けれど、私のその方への思いの原動力が、繰り返し放置されることですっかりしょぼくれてしまったというのは紛れもない事実だ。
 何をされると一番堪えるのか、と考えた時、無視されること、今風に言えばスルーされることなのだろうな、と思う。私にとって、あなたは無視しても構わない取るに足りない相手です、と暗に言われている訳だから。
 
 何かしてもらったら御礼を言う。でも、そうされることが本当は迷惑だというのであれば、その後に今後はもうこのようなお気遣いはしないで・・・と添えれば相手は察するのではないか。そうはせずに、あれやこれやと放置し続けることは、人としてやってはならないことではないかと思うのだが、どうだろう。
 それこそ“忙”しいというよりも、文字通り“心”を“亡”くした所作ではないかと思うのだが・・・。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする