以前もご紹介させて頂いた大津秀一先生のyomiDr.のコラム。今回も膝を打ったので、以下、最新号を転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
「どうして?」そう一言聴いてみては(2014年1月23日)
以前の連載でも触れましたが、話を聴くこと、傾聴することは大切です。
私も昨年『傾聴力』という本を書きました。看護職、介護職の方を中心に、話を聴くために必要なものがわかった、これで少しは自信をもって話を聴けそうです、と嬉しい言葉を頂いています。
「話? 聴いていますよ」そんなふうにおっしゃる皆さんもいるでしょう。本当に聴けていますか?
(中略)
「食べられない」と言ったのに…取り合ってもらえず
別のある患者さんは一番苦痛なことはなんですか?と尋ねると、「家族が食べろと無理強いすることです」とはっきり答えました。がんの終末期はほとんどの場合、食べられなくなります。ではそのせいで衰弱が早まるかというと、そうではない印象があります。実際に終末期の患者さんに、栄養がたくさん入っている濃い液(高カロリー輸液と言います)を点滴から投与しても、ほとんどの場合痩せは改善しませんし、元気にもなりません。
けれどももちろん、そういうことを知らなければ、家族も食べて元気になってもらいたいと思うのは当然です。しかしその患者さんのご家族は、もう無理して食べなくてもいいことを医療者から言われ、本人も無理して食べることが苦痛であったにも関わらず、「食べられない」と患者さんが言うとすぐに「それではだめ!」「元気になりたくないの?」「頑張らなくちゃ」と取り合ってもらえなかったのです。
ご家族にも少しでも良くなってほしいという思いがあったのでしょう。けれども、もしこのご家族が「一番つらいのは何?」と穏やかに患者さんに聴き、食べられないことを聴いた時に「そうか…大変だね」と言ってあげていたらどうだったでしょうか?
疎外感味わう患者、何を求めているのか
病気になるということは疎外感を味わうということです。
病気になると「この感覚は、なってみないとわからない」という苦痛が出ます。思い切ってその苦痛を言っても、「そのうち良くなるよ」「頑張りな」とひと言で片付けられてしまったらどうでしょうか?
そう、せっかく理解してもらいたくて言ったのに、より疎外感を覚えるのです。これが病人の一つの心理です。
いくら言ってもわからない人の対応はどうしたらいいのか?
もうそういう時期ではないと伝えられた患者さんの「まだまだ治療がしたい。最後まで治療がしたい」。
まだ終末期ではないと伝えられている患者さんが言う「死にたい」。
見た目は元気そうなのに、繰り返し言う「以前とは違う」「食べられない」。
いくら「言っても」患者さんにはわからないのです。
言うのではなく、聴かなくてはいけません。あるいは尋ねてみないといけません。言葉で「尋ねる」ことを通して、相手の方の心を「訪ねる」のです。そこに答えがあるのです。
まずは聴いてみましょう。
そのために「傾聴力」が必要なのです。
最後に。どんな声かけを行ったら、患者を元気づけられるのでしょうか? よく聞かれます。
私の答えはいつも同じです。「患者さんは何を求めていますか?」
自分が何をしたいか、何を伝えればいいか、ではないのです。
相手が何を求め、どんな言葉を聴きたいか、なのです。そのために聴かなければ始まりません。聴く習慣、しっかりつけたいものですね。
(転載終了)※ ※ ※
いつかも書いたけれど、食べられないのに「食べなくちゃ!」と言われるのは本当に辛い。もちろん、心配して言ってくれているのは十分に分かる。私自身は“終末期で食べられない”という段階ではないけれど、抗がん剤の副作用で食べられない時、そう言われるのも同様に切ない。
前回EC投与中に食べられなかった時にも、「少しでも食べなくちゃ・・・」と繰り返されながら、やるせなさに涙で抗議した記憶がある。
一生懸命言っていることが伝わらないと、本当に疎外感に苛まれる思いだ、というのも先生のコラムのとおり。
食べたいけれど、どうしても食べられない。無理に食べて吐くのは嫌。一度吐いてしまうと条件反射で吐き続けそうだし、食べなければいけないことは自分でも十分に分かっている。けれど今は口に入れたくないし、入れられない。食べられそうな時に食べられる物を自分で探して食べるから、お願いだからどうか放っておいてください、と。
そんなことがあったからか、今回私の食が全く進まなくても、夫は無理強いをしなくなった。食卓に座って、じっと手をつけずに食事を見ていると、気遣ってくれたのか「食べられそうならまた座ればいいから、無理ならリビングで座っていたら?」と言ってくれた。
そう、がんでなくても終末期は口からものを摂るのが大変になる。
昨秋、2年近い寝たきり生活の後、亡くなった義母が、食事をするたびに誤嚥性肺炎を繰り返していた時のこと。嫁の立場で面と向かって義妹には言えなかったけれど、無理に食べさせるのは可哀想だから止めた方が・・・と思っていた。肺炎になって苦しいのは義母だ。いろいろな本を読んでみたが、どう考えても口から入れるよりも必要最低限の点滴だけにした方が穏やかに日々を送れる筈、と。
それでも、義妹はなんとかして元気になってほしい、美味しいものを口から食べてもらいたい、あれなら食べられるか、これなら良いのかといろいろ品を替えて持参していた。もちろん義妹の、娘としての気持ちは痛いほど分かるけれど、既にその時、義母は自分の意思を伝えることが出来なかったから、本当のところ義母の気持ちはわからなかったけれど、果たしてどうだったのだろう、と思うことがある。
動物は、口から食べることが出来なくなったら自らの死期を悟って群れから離れたり、飼い猫なら家から出て行ったり、ということがあるとも聞く。
ヒトも動物なのである。そう考えれば、口から食べることがどれだけ大切なことかはよく分かる。医学の進歩により、かつては助けることが出来なかった命を、点滴や胃ろうによって月単位、年単位で繋げるようになっている。もちろん、本人がそれを明確に望んでいることが分かっているならば別だけれど、本人が意思を表せない場合、本人にとってそのことは本当に幸せなのかどうか、と思わざるを得ない。
生きたければ、元気になりたければ、食べなければならない-そのことは食べられない本人が本能として一番が分かっている。
でも食べられない・・・というジレンマ。その時がやってきた時、私も家族もその事実が穏やかに受け入れることが出来るだろうか。
とにかく、口から美味しく食べることが出来るのは何より幸せなこと、その有難さを忘れてはならない、と思う。
※ ※ ※(転載開始)
「どうして?」そう一言聴いてみては(2014年1月23日)
以前の連載でも触れましたが、話を聴くこと、傾聴することは大切です。
私も昨年『傾聴力』という本を書きました。看護職、介護職の方を中心に、話を聴くために必要なものがわかった、これで少しは自信をもって話を聴けそうです、と嬉しい言葉を頂いています。
「話? 聴いていますよ」そんなふうにおっしゃる皆さんもいるでしょう。本当に聴けていますか?
(中略)
「食べられない」と言ったのに…取り合ってもらえず
別のある患者さんは一番苦痛なことはなんですか?と尋ねると、「家族が食べろと無理強いすることです」とはっきり答えました。がんの終末期はほとんどの場合、食べられなくなります。ではそのせいで衰弱が早まるかというと、そうではない印象があります。実際に終末期の患者さんに、栄養がたくさん入っている濃い液(高カロリー輸液と言います)を点滴から投与しても、ほとんどの場合痩せは改善しませんし、元気にもなりません。
けれどももちろん、そういうことを知らなければ、家族も食べて元気になってもらいたいと思うのは当然です。しかしその患者さんのご家族は、もう無理して食べなくてもいいことを医療者から言われ、本人も無理して食べることが苦痛であったにも関わらず、「食べられない」と患者さんが言うとすぐに「それではだめ!」「元気になりたくないの?」「頑張らなくちゃ」と取り合ってもらえなかったのです。
ご家族にも少しでも良くなってほしいという思いがあったのでしょう。けれども、もしこのご家族が「一番つらいのは何?」と穏やかに患者さんに聴き、食べられないことを聴いた時に「そうか…大変だね」と言ってあげていたらどうだったでしょうか?
疎外感味わう患者、何を求めているのか
病気になるということは疎外感を味わうということです。
病気になると「この感覚は、なってみないとわからない」という苦痛が出ます。思い切ってその苦痛を言っても、「そのうち良くなるよ」「頑張りな」とひと言で片付けられてしまったらどうでしょうか?
そう、せっかく理解してもらいたくて言ったのに、より疎外感を覚えるのです。これが病人の一つの心理です。
いくら言ってもわからない人の対応はどうしたらいいのか?
もうそういう時期ではないと伝えられた患者さんの「まだまだ治療がしたい。最後まで治療がしたい」。
まだ終末期ではないと伝えられている患者さんが言う「死にたい」。
見た目は元気そうなのに、繰り返し言う「以前とは違う」「食べられない」。
いくら「言っても」患者さんにはわからないのです。
言うのではなく、聴かなくてはいけません。あるいは尋ねてみないといけません。言葉で「尋ねる」ことを通して、相手の方の心を「訪ねる」のです。そこに答えがあるのです。
まずは聴いてみましょう。
そのために「傾聴力」が必要なのです。
最後に。どんな声かけを行ったら、患者を元気づけられるのでしょうか? よく聞かれます。
私の答えはいつも同じです。「患者さんは何を求めていますか?」
自分が何をしたいか、何を伝えればいいか、ではないのです。
相手が何を求め、どんな言葉を聴きたいか、なのです。そのために聴かなければ始まりません。聴く習慣、しっかりつけたいものですね。
(転載終了)※ ※ ※
いつかも書いたけれど、食べられないのに「食べなくちゃ!」と言われるのは本当に辛い。もちろん、心配して言ってくれているのは十分に分かる。私自身は“終末期で食べられない”という段階ではないけれど、抗がん剤の副作用で食べられない時、そう言われるのも同様に切ない。
前回EC投与中に食べられなかった時にも、「少しでも食べなくちゃ・・・」と繰り返されながら、やるせなさに涙で抗議した記憶がある。
一生懸命言っていることが伝わらないと、本当に疎外感に苛まれる思いだ、というのも先生のコラムのとおり。
食べたいけれど、どうしても食べられない。無理に食べて吐くのは嫌。一度吐いてしまうと条件反射で吐き続けそうだし、食べなければいけないことは自分でも十分に分かっている。けれど今は口に入れたくないし、入れられない。食べられそうな時に食べられる物を自分で探して食べるから、お願いだからどうか放っておいてください、と。
そんなことがあったからか、今回私の食が全く進まなくても、夫は無理強いをしなくなった。食卓に座って、じっと手をつけずに食事を見ていると、気遣ってくれたのか「食べられそうならまた座ればいいから、無理ならリビングで座っていたら?」と言ってくれた。
そう、がんでなくても終末期は口からものを摂るのが大変になる。
昨秋、2年近い寝たきり生活の後、亡くなった義母が、食事をするたびに誤嚥性肺炎を繰り返していた時のこと。嫁の立場で面と向かって義妹には言えなかったけれど、無理に食べさせるのは可哀想だから止めた方が・・・と思っていた。肺炎になって苦しいのは義母だ。いろいろな本を読んでみたが、どう考えても口から入れるよりも必要最低限の点滴だけにした方が穏やかに日々を送れる筈、と。
それでも、義妹はなんとかして元気になってほしい、美味しいものを口から食べてもらいたい、あれなら食べられるか、これなら良いのかといろいろ品を替えて持参していた。もちろん義妹の、娘としての気持ちは痛いほど分かるけれど、既にその時、義母は自分の意思を伝えることが出来なかったから、本当のところ義母の気持ちはわからなかったけれど、果たしてどうだったのだろう、と思うことがある。
動物は、口から食べることが出来なくなったら自らの死期を悟って群れから離れたり、飼い猫なら家から出て行ったり、ということがあるとも聞く。
ヒトも動物なのである。そう考えれば、口から食べることがどれだけ大切なことかはよく分かる。医学の進歩により、かつては助けることが出来なかった命を、点滴や胃ろうによって月単位、年単位で繋げるようになっている。もちろん、本人がそれを明確に望んでいることが分かっているならば別だけれど、本人が意思を表せない場合、本人にとってそのことは本当に幸せなのかどうか、と思わざるを得ない。
生きたければ、元気になりたければ、食べなければならない-そのことは食べられない本人が本能として一番が分かっている。
でも食べられない・・・というジレンマ。その時がやってきた時、私も家族もその事実が穏やかに受け入れることが出来るだろうか。
とにかく、口から美味しく食べることが出来るのは何より幸せなこと、その有難さを忘れてはならない、と思う。