いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

堀田正敦 @隠れ竹雀

2008年12月29日 18時56分12秒 | 仙台・竹雀・政宗

『鮭図』の高橋由一、つまりは幕末の開国に際しいち早く西洋に引き付けられた人物は下野(しもつけ)、今の群馬県の佐野藩のお武家さまでした。佐野・堀田家の藩主に堀田正敦(まさあつ、1755-1832)という人がいました。後述するようにロシヤ、オランダを通じて西洋への知見があった人です。自ら蝦夷地に地検に行って、知見を広めたそうです。したがって、由一の佐野藩には西洋愛好の家風があったことは想像に難くありません。一方、幕末の老中に堀田正(まさよし、1810-1864)がいます。蘭癖と呼ばれた現実・開国派です。今では、堀田家の老中で一番有名でしょう。正睦が子供のころ、堀田家の長老が正敦でした。


堀田正敦(ほったまさあつ) *1

■19世紀を目前にしていたころの1796年から19世紀に入っての1841年まで、仙台伊達家の藩主は次々と夭逝する。すなわち、1796年に8代藩主斉村(なりむら)が23歳で、1812年に9代周宗(ちかむね)が13歳で、1819年に10代斉宗(なりむね)が25歳で、1828年に11代斉義(なりよし)が30歳で、そして1841年に12代斉邦(なりくに)が25歳で死ぬ。

これだけ次々と藩主が若くして死んで、封建時代の藩の一番の存在理由は滞りない存続であるから、普通の藩ならとっくに改易されても不思議ではないだろう。でも、仙台伊達家は表高60万石(実態は百万石であったらしい)の大藩なので、幼年藩主を押し立て、なんとか体裁を整えた。 

■<仙台伊達家後見人 堀田正敦>
事実、この次々続く藩主交代において、連続する幼年藩主を幕府に認めさせ、9代から12代までの幼年藩主の後見役になったのが、堀田正敦という人です。

幕府の若年寄でした。当初のボスは松平定信。自分の領地は、最初は近江堅田藩、そして下野佐野藩へ転封。

■<堀田家長老 堀田正敦>

(コピペ)
堀田正睦は、 文化7年(1810年)8月1日、第3代藩主・堀田正時の次男として生まれる。

文化8年(1811年)、正睦が2歳のときに父が死去したが、藩主は嫡系(正時の兄の子)の堀田正愛が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。

文政8年(1825年)、正愛が長年の闘病の末に病死した際には若年寄を務めていた堀田一族の長老・堀田正敦(近江堅田藩主)がその後見を務めていたが、藩政を牛耳っていた老臣・金井右膳らは正篤を嫌って正敦の子を藩主に擁立しようとした。だが、正敦がこれを拒否したために正篤が藩主に就任した。


ウィキペディア(Wikipedia)堀田正睦

つまり、堀田正敦は仙台伊達家と堀田の本家佐倉堀田家の危機のときに、管理・貢献した人です。

■ <対露施策、蝦夷地の管理者 堀田正敦>

当時危機だったのは何も仙台伊達家や佐倉堀田家ばかりではない。蝦夷地にロシアが来航。北方防備をしないと蝦夷地がロシア領になる。事実1806年と1807年にはロシアの軍艦が来襲、物品略奪、番人連行を働いた。この事件を契機に幕府は仙台伊達家に蝦夷地への出兵を命じ、翌月、会津松平家にも出兵を命じた。なぜ、仙台伊達家が国事で一番重要な国防の責務を負ったかというと、当時伊達家の後見人だった、幕府若年寄の堀田正敦が仙台に頼みやすかったと推定される。結局、仙台は2000もの兵を出した。

上記事件を受けて1807年正敦自身蝦夷地へ赴いた。

■<鳥学者、堀田正敦>

堀田正敦は鳥さんが好きだったらしい。禽譜という鳥図鑑を刊行しています。さらに蝦夷探訪の報告記もあります。

Amazon; 江戸鳥類大図鑑 THE BIRDS AND BIRDLORE OF TOKUGAWA JAPAN (大型本)

出版社 / 著者からの内容紹介

徳川幕府の若年寄、下野佐野藩主堀田正敦(1755~1832)の鳥類図鑑、いわゆる「堀田禽譜」を中心に、一部の失われた鳥の図を、この図鑑にゆかりの深い、同じ原図を含むものなど、同時代の鳥類図譜から補って構成したもの。鳥名およびその説明の部分と、古典からの膨大な引用は翻刻に止めたが、正敦による鳥の解説は現代語に訳し、それに加えて編著者が解説を施している。

内容(「MARC」データベースより)

江戸時代の大名・堀田正敦が執筆した鳥類図鑑「堀田禽譜」を中心に、同時代の鳥類図譜から引用した鳥の図などを補い構成した、豪華鳥類百科。美しい細密画に、正敦による解説の現代語訳と編著者の解説を施す。

■<幕閣42年やりました、堀田正敦>

'内務'として仙台や佐倉の面倒を見、’外務’として蝦夷地の国防を担った堀田正敦さんの若年寄在任は1790-1832年の42年に及びました。

■<で、堀田正敦、って誰だ?>

そんな大業を堀田正敦はなぜできたのでしょうか? そもそも堀田正敦って誰なのでしょう?

堀田 正敦は仙台伊達家第6代藩主の伊達宗村(1718-1756)の八男。庶子。運よく(?)近江堅田の堀田家の養子、娘婿になり、近江堅田の藩主となる。そして幕府に入り出世。つまりは伊達の殿様の子供にして幕閣だっちゃ。

徳川家幕府の主柱である老中家の堀田氏もよい養子をもらったものだ。政宗の血筋なので幼帝時代の仙台の管理も、地元の抵抗を受けることなくできたし、北方警備にも堀田 正敦の゛実家″である仙台伊達家にその軍役負担を押しつけることができたのである。

蛇足ながら、こういうことをしてきたから旗本は幕末には腐れていたのである。

それにしても、次々若死にする藩主がいる一方、77歳まで生きて42年も幕閣をやる人間もいるのであるから、人間は体力、知力の個人的資質に大差があることがわかる。

ウィキペディア(Wikipedia)堀田正敦

▼別の隠れ竹雀

*1、堀田正敦像、『仙台市史、通史編5、近世3』より転載。

ちなみにこれは朝廷儀式用の礼服だっちゃ。

▲若者への教訓;

どうだい!? 今からワシントンか北京へ「養子」に行って、

滅亡寸前の ぬっぽん の後見人を目指してみれば!