いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ジャン・ボダンと主権

2007年06月16日 20時55分12秒 | 
先日本屋に行って、下記の本を発見。もう随分前からこういう「入門書」はやめよう、解説書もやめよう。少しでも原典そのものを読もうと、自分に課しているつもりなのだが、ついつい手にとって見てしまう。触る前は、絶対買わないと思ったが、なんとボダンの解説があるではないか。

おいらはジャン・ボダンの詳細をしらない。だから、以前から気になっていつかは調べたいと思っていた。ジャン・ボダンは今のこの世界の混乱の元凶である、国家主権、あるいは主権概念を案出した人とされているからである。

著作の邦訳はなし。ボダンに関する日本人研究者による日本語の本は品切れ。という自己言い訳をして贖う。


哲学の歴史 4 15-16世紀 (4) (単行本)


いまのところの聞きかじりによると、ボダンの主権の定義は、慣習法を含むすべての法を自分の意志で改廃し、自分は法に拘束されることはない、っていうんだけんども、もす、そうだとしたら、日本史上にはそんな御仁や組織はひとりたりとも登場したことはないざんす。


征夷大将軍―もう一つの国家主権なんかみると、天皇主権と並び、それを置きかえるに至った政治主権、とか書いてある。並んだり、置き換わったりするのは、少なくとも、ボダンの定義する主権とは違うのだろう。日本語の主権って何だ? ちなみに、置き換わりの天王山は、家康による、禁中並びに公家諸法度。つまりは、東国の征夷大将軍こそ、この戦後民主主義のさきがけなのだ、といいたいばかりの生臭い本。

「そもそもこういう法律を制定したことが画期的であって、この形式それ自体が日本史上の革命憲法に相当するのである。」


うんこもぐした、革命家


そんで、そう、もちろん話しの行き先は、国民主権。 上記定義だと、国民に主権なぞあろうはずがないよね。

A sophisticated majestas chaseはすすむかな。


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