いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

大英帝国に使嗾されるインド兵;北京(1902年)、東京・鳥取(1947年)、最初はアヘン戦争(1840年)、なぜシーク教徒?

2021年08月08日 19時38分13秒 | インド


北京1902年、円明園  ソース


東京1947年  ソース


鳥取 1946-47年頃  ソース

アヘン戦争(1840年)のイギリス軍の多数兵はインド兵であったと知った。今まで、知らなかった。大川周明の『英米東亜侵略史』にも書いていなかった。

でも、高校の世界史の教科書でみんな、この写真を見るはずだ;


↑義和団事変に出兵した各国兵士 左から、英・米・露・インド・独・仏・オーストリア・伊・日 

ちゃんとインド兵が写っている。義和団事変は1900年。なので、インドはインド帝国の兵士であったことになる。なお、この写真が1900年撮影。なので、このインド兵は女王陛下の兵士だ(Queen's soldier)。インド帝国の君主はヴィクトリア女王であった(彼女は1901年1月22日没)。

インド兵が最初にチャイナを襲ったのが1840年、アヘン戦争だ。

(大英帝国の)中国に対する砲艦外交では、「帝国拡張の先兵」インド軍が動員された。インド軍は、インド財政の負担で維持され、イギリス政府とインド政庁が自由に海外へ派遣できる緊急展開部隊として、インド洋周辺の地域やインドの北西国境地帯を中心に、アジア・アフリカの各地に派兵された。イギリス帝国拡張と防衛の経費は、白人自治領もその一部を負担したが、その大半はインド財政に押しつけられたのである。第一次アヘン戦争では、約五八〇〇名のインド軍が広東に、第二次アヘン戦争(アロー戦争)では約一万一〇〇〇名のインド軍が北京の攻略に動員された。ただし、この場合の中国遠征の経費は、本国側が負担した。(秋田茂、『イギリス帝国の歴史』)

そして、秋田茂、『イギリス帝国の歴史』には書いてないが、円明園のあの破壊 [1]にインド軍は参加しているのだ。

    

[1] 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。(wiki)

エルギン配下で円明園を破壊したインド軍兵士;パンジャブ連隊のシーク教徒兵士 [2]。下のYouTubeより;

[2] 8th Regiment of Punjab Infantry

Story of Indian soldiers who fought for British Army in China | James Bruce, Earl of Elgin | WION

このあいだのヒマラヤでの中印軍事衝突でインド兵が20名死亡。ところで、アロー戦争ではインド兵が清軍に捕まり拷問で20人ほど殺されたという話と円明園を破壊した話を紹介している。

■ そして、日本

敗戦後の占領下で、皇居前広場を行進するパンジャブ連隊が映っている動画を見つけた。

Ceremonial retreat at Tokyo

日本敗戦時、インド帝国のパンジャブ連隊は英連邦軍の一部として日本占領に参加した。大英帝国とインド帝国の「最期」の覇権的派遣だ。

パンジャブ連隊は鳥取に駐屯した。一方、東京にも出張り、占領軍としての示唆的行動=パレードを行っている。

パンジャブ連隊を含む英連邦軍の占領地は中国・四国地方であった。ただし、東京には連合軍としての一端を担うことを誇示するために駐屯した部隊もある。キャンプ・恵比寿。主に、豪軍[3]。そのキャンプ・恵比寿には呉など中国・四国地方から英連邦軍がしばしば訪れていたと記録からわかる。

[3]

 
左;第67歩兵連隊の所属。岡山に駐屯していた部隊。撮影場所は皇居、右;所属部隊不明、渋谷・ハチ公像前

● なぜ、シーク教徒か?

なぜ、インド軍兵士はシーク教徒なのか? あるいは、なぜヒンドゥー教徒ではないのか?

当時のインドの職業兵士;シパーシー(セポイ)の中のヒンドゥー教徒は、インダス川を渡って遠征すること、船に乗ることがタブーであった。あのセポイの乱は、下記理由で生じた;

彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用されたライフル銃(それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)であるエンフィールド銃の薬包(先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みに包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とムスリムが不浄とみなしている豚の脂が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたこと (wiki

一方、前述のように、シパーシー(セポイ)のうちヒンドゥー教徒は遠征も拒否していた(長崎暢子、『インド大反乱 一八五七年』)。したがって、大英帝国の海外遠征文体はイスラム教徒、シーク教徒となったと思われる。

こういう事情で、チャイナでも日本でも現れたインド帝国軍兵士はシーク教徒だったのだ。

なお、われらが大日本帝国が支援した「インド国民軍」は戦後インドで裁判にかけられる。


愚記事;Chalo Delhi! INA :インド国民軍



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