いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1942年のデリーに、3000人の日本人がいた

2012年10月24日 19時29分13秒 | インド

今日知ったこと;1942年のデリーに、3000人の日本人がいた。

岡部伸 、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』を読んでいて、初めて知った。

先日同様、この本の本筋とはずれた話し。

スウエーデンはストックホルムで諜報活動、そして大戦末期には終戦工作にがんばっていた小野寺信陸軍少将の当地ストックホルムでの"ライバル"は、外務省のスウエーデン公使・岡本李正(すえまさ)[コトバンク]であった。

ちなみに、大日本帝国陸軍少将、小野寺信は親米英派、対米英への 幸福 降伏論者小野寺信は、ヤルタ密約での「ドイツ敗北後3カ月でソ連対日参戦」という情報を掴んでいて、そのソ連に和平仲介を依頼するのは笑止なり!という立場。一方、外務省・岡本李正は、戦争末期の東京の路線に合わせてソ連へのい仲介和平論者。米英、特に英国にふくむところがある。

その上記ふくむところというのが、今日のお題。

大東亜戦争、対米英戦争は日本軍によるコタバル上陸作戦で始まった。真珠湾攻撃より数時間前である。

当然、1941年12月8日だ。

その1941年12月8日の数日前に、のこのことシンガポール総領事としてやってきたのが、大日本帝国政府外務省の岡本李正にほかならない(1941年12月5日)。そして、開戦。

大英帝国支配下(数か月後には日帝軍に占領されるのだが)の日本人は逮捕、拘束。民間人でありながら、みんな捕虜となった(civilian prisoners)。そして、インドに連行されたのである。

意外なChalo Delhi!ではある(google: 進め、デリーへ!)。 当のチャンドラ・ボースはデリーへたどりつけなかったのに...。

■ デリー、プラナキラ

おいらは、残念ながら、デリーのプラナキラに行ったことがない。ほんの数キロ先のインド門には行ったことがある(愚記事;他人の戦争と自分の戦争、あるいは、横田を還さないふたり )。インドのデリーは多重都市(愚記事: 続、占領地域を闊歩する日帝学徒/役人)と表現されことがある。歴史的にみて、大昔から為政者はデリーに都を築いてきた。その歴代の王朝の建物がデリーには残されているのだ。多重都市という視点で東京を見れば、たかだか二重都市である。すなわち、徳川家の江戸時代と皇室の近代・東京。そして、デリーと大違いなのが、中心が江戸―東京では変わらない。つまり、徳川家の居城が、現在の皇室の宮殿である。それに対し、デリーは各王朝の王宮がばらばらある。例えば、時代的に近いところでは、ムガール王朝の最盛期の宮殿はラールキラー(愚記事)である。そして、ムガール王朝を滅ぼした大英帝国のインド帝国の政庁はいわゆるニューデリー(上図の☆1)である。この印象は、例えば今京都に行っても「室町幕府」跡という立派な建物がないことで強烈さを増す。しかし、インドのデリーはこの「室町幕府」跡という立派(崩壊しつつも)な建物が点在しているのだ。それが、多重都市の意味。

『多重都市: 中世いらいインド歴代王朝の首都であり、権力の盛衰・興亡の一大拠点であったデリー。「七つの都市デリー」「十五の町デリー」と言われてきたように、そこ には各時代における城砦都市や首都の地域的な移動といった事実のほか、民族と宗教の問題、植民地支配時代の「東洋と西洋」の問題をはじめ、多重・多層的な 複雑な性格が見られる。本書はデリーが発展し、停滞し、再興されて行く歴史の中に多重都市の特徴と由縁を見る。Amazonの商品内容説明。

さて、プラナキラ

プラナキラは、16世紀にムガール王朝の二代目のフマユーン帝の政庁(ムガール帝国発足時)、そして城。ちなみにフマユーン帝は、あのタージマハルを作ったムガール王朝の5代目のシャー・ジャハーンの2代前に当たる。そのフマユーン帝の御墓は、フマユーン廟としてデリーにある。フマユーンシャー・ジャハーンのおじいさんであり、タージマハル(田島春)さんのおばあさんこそが、フマユーン廟なのである

デリーには世界遺産が複数あるようで、上記ラールキラーはもちろん、フマユーンも観光名所。そして、プラナキラは少しマイナー。だから、元来御調子者のおいらは、これまで6回デリーに行ったなかで3回はラールキラーには行ったが、プラナキラは行かずじまいだった。

そのプラナキラこそが、1942年に大英帝国の虜となった日本人3000人の収容所だったのだ!

知らなかった。

そして、外務省の岡本李正さん。

さてプラナキラ抑留所の状況について初めて具体的に日本政府が知ったのは1942年9月3日のことだった。ロレンソマルケスに着いた岡本季正シンガポール総領事は9月1日イタリア領事を通してポルトガルの日本公使から外務省に電報を打ってもらった。それが外務省に届いたのが3日夜だった。その電報は、ロレンソマルケスに到着するまでに720名中6名の死者が出たこと、「印度に於て目下収容中の邦人は二千百名にして本官か親しく収容所を視察せる処に依れは之等邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにして随て極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚た悪く赤痢流行し蔓延しつつあり 目下患者五十名なるか医療行き届かす前途憂慮に堪へす」という内容だった(資料①所収)。

この電報は中立国であったスイス、スウェーデン、スペインのそれぞれの日本公使館にも送られた。これを受けた徳永太郎スイス駐在代理公使は9月9日 付で本省に電報を打ち、「十五日間の航海中に於て七二〇名中死者六名を出すか如きは如何に其の待遇悪きかか窺れ又印度に於ける邦人待遇に対しては義憤を感 せさるを得す」としてイギリス政府に「厳重抗議方然るへし」と意見具申するとともに、岡本総領事らのリスボン到着を待って赤十字国際委員会に「厳重なる再 調査を依頼」することを本省に伝えた。

これを受けて外務省は9月14日 徳永スイス駐在代理公使に対して、「在印度抑留邦人に対する待遇は極めて悪き為一同甚だしき栄養不良に陥り又赤痢蔓延しつつあるも衛生設備不備にして医療 行届かざる状態なる趣の処右事実は交換船シチ・オブパリス号にて僅か十五日間の航海中死者六名を出したる不祥事と共に帝国政府の深く憂慮する所なり  茲に英国政府に対し右に付強く抗議すると共に同政府より印度政府に対し在印抑留邦人の待遇改善方に付至急指令あらんことを要請する次第なり」との趣旨をイギリス政府に申し入れることを指示した。これが最初の日本政府からの抗議であった。 (出典:インドに抑留された日本人民間抑留者)赤字・強調、いか@。






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