30年経ってわかった「意味」。
今夜もどうでもよい些細なことです。自分のための記録です。
←東 西→
下の地図の左側の「宮城県仙台二高」と書いてある付近です。上の画像の右手の建物が「仙台二高」です。
この「通り」、画像に向かって左が低地です。
←西 東→
最上画像の通りから、ある建物を撮影。この建物崖に接して立っています。根が生えています。
仙台二高の東側の通り(最上画像)の東側に急な階段があります。
30年前は特に気にしていなかったが、これは段丘崖なのだ。
画像の左が仙台二高。画像が平面的で高低差は読み取りずらいが仙台二高の右の通りが最上の画像の通り。この画像の右側が下町段丘の低地。
赤丸が上画像の段丘崖。①が下町段丘、②が中町段丘。仙台二高は中町段丘にある。
web 上 http://www.hirosegawa-net.com/kids/tokutyou_kinou/zu_1.html より
なお、今このあたりの一戸建ての価格;
あ~、おいらは、住めないんだなぁ、と気づく。
(wikipedia)に書いてある; 「西側の下町段丘には庶民的な下町の川内大工町があり、[強調、いか@]」...。 庶民的な街には住みたいなら、4000万円、用意せよ!
■ 子供ながらに魅せられた陥落街; 仙台第二高校・南地区を初めて知った。
1999年に出版された浅野裕一、『儒教 ルサンチマンの宗教』の冒頭に書いてある;
高校時代、たまに学校の図書館で勉強したことがある。建物はPX(酒保)と思しき進駐軍の遺物で、正面の入口から左右両翼に分かれており、右側が図書閲覧室であった。おそらくホールに使われていたのであろう、その大きな部屋の東南の隅には、バンドが陣取ったらしい棚田風のステージがあった。
その浅野裕一さんの経歴を見ると、1946年仙台生まれ。東北大学文学部卒業、 とある。
これらをみて(1999年頃)おいらは、 (仙台での[今から思えば、いたいけで牧歌的]修行を経て、しかも、もっと苛酷な山陰での下放時代の修行、そして、カナダでの修行を経て)、 この浅野さんの高校とはどこなんだろう?とおもった。仙台生まれで東北大学に行くなら仙台一高か仙台二高である可能性が高い。そして、仙台二高がある川内は敗戦後占領軍が進駐した。占領軍がこの地に進駐した理由は大日本帝国陸軍の第二師団の駐屯地だったからだ。こういう状況なら、この浅野さんが「進駐軍の遺物」をみたのは仙台二高の可能性が高いはずと、1999年頃においらは、当時いた筑波山麓で、考えた。
でも、そんなはずはない、とも思った。なぜなら、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の裏に、昭和最末期、住んだことがあるおいらは、仙台二高(敗戦時は仙台二中)の敷地は、旧陸軍第二師団の敷地ではないと知っていた。さらに、おいらが仙台に来た1980年代半(なかば)には、仙台二高の敷地周辺には off-limits boundary (占領軍による立入禁止境界) 的遺物はなかったからである。謎であった。(この考えの背景は少し説明しないといけない。昭和末期、中曽根自民党が300議席取って、戦後政治の総決算!と勢いずいていた時代、仙台川内(奥の方)にはまだ米軍のカマボコ兵舎が残っていたのだ。)
という全然深刻でない疑問を長年持っていた。
そして、こないだ知った。ネットで知った。なんのことはない、仙台二高には通りを挟んで南地区というのがあり、その南地区が占領軍の施設だったのだ。この本校舎との間の通りが off-limits boundary (立入禁止境界)だったのだ。つまり、敗戦後、仙台二高はその地で通常営業したようだ。つまり、占領軍の向かいで営業していたのだ [1]。
現在の南側の校地は、戦後の占領下に進駐軍キャンプとして利用され、米兵とその家族用の50mプールや幼児プール(15m×15m)が設置された。進駐軍撤収後は同校のプールとなり、西公園プールが完成するまでは宮城県下唯一の50mプールとして県下の水泳大会の会場として利用された。また、幼児プールは地域の子供に開放された。 (wiki 宮城県仙台第二高等学校)
[1] だから、遠いアメリカは変だぞ。隣のアメリカだろう、という話はこちら:常盤新平は仙台第二高等学校(この時代ならまだ旧制かもしれない;旧制仙台二中)に通学していたのだから、
西を向いて撮影
仙台二高前交差点。おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非occupied Japan地域で、この画像に写っていない「第三象限」が仙台二高・南地区とのこと。今月知った。
画像左が西
青丸が撮影位置。赤線が off-limits。赤矢印方向が占領軍占拠地域。
ネットで調べると、占領時代の off-limits についての情報があった;
ある風景が浮かびあがって来ます。
白い詰所?
その 小さい箱詰所の外に立つ
白ヘルメットの大きな外人さん。
そこで
用紙に何かを書き込んでいる母の横顔。
この風景が今回の思い出。 (ブログ: サクラっぴーinわたり 様 、記事: 進駐軍が居た頃(幼少時の思い出)
そして、書いてあった;
書類に必要事項を記入して許可を取る必要があったようです。
この記憶にあるMPボックスは 中の瀬橋を渡って
二高を右に見て道路を渡ったすぐ、
今の県美術館前あたりだった気がいたします。
今の県美術館前あたりだった気がいたします。⇒ ここだ ↓ !
愚記事: 仙台参り 【2015】 宮城県立美術館
約60年前にMPのポリボックスがあった場所で、山下菊二の戦時中の作品『人道の敵米国の崩壊』のち『日本の敵米国の崩壊』に改題、そして、敗戦後の「山村工作隊」経験色濃い『あけぼの村物語』が展示された。
■ まとめ
1.「歴史」が抹殺されそうな「場所」で、歴史を考えてみた。
2.そして、おいらが立って撮影している「象限」(第四象限)だけが非接収地帯、
すなわち、
基地外、ということだ!
おそるべし、敗戦国・ぬっぽん!
3.山下菊二の『日本の敵米国の崩壊』、『あけぼの村物語』など展示された『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』 は、レコンキスタ (失地回復闘争) [wiki]であったと気づく。