いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜⇒東京散歩;東急・恩田駅 ⇒ 成瀬尾根 ⇒ JR・成瀬駅

2020年11月08日 16時09分41秒 | 東京・横浜


1;東急・恩田駅、2;熊の谷公園前交差点、3;成瀬山吹緑地、4;堂之坂公苑、5;JR成瀬駅

■ 1.東急・恩田駅

この線は単に東急線ではなく、 横浜高速鉄道という名がついている(wiki)。 
横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路を保有し、東急電鉄が第二種鉄道事業者として旅客の運送を行うwiki)ものらしい。


うしでんしゃ (google)

■ 徳恩寺

1373年にできたお寺とのこと。南北朝時代。

■ ⇒ 横浜市青葉区あかね台 熊の谷公園前交差点

西へ進む経路において左を向く。南の方を望む。


熊の谷公園前交差点


渡った通り。南北に走る。南を望む。このあかね台を長津田方面に下る道。

谷戸をつぶして造成した住宅地域。開発前の谷戸の航空写真は本記事最後尾にあり。

成瀬尾根。横浜市・町田市境界を成す柵。

▼ 成瀬山吹緑地

町田の中心街(相模原台地)が低くみえる。ここは多摩丘陵(西端)。

 

■ ⇒ 4;堂之坂公苑


恩田川


町田市総合体育館

まったく予断なく出会った。とても高い樹をもつ「御屋敷」。

公園=公苑とわかる。 入ってみる。

江戸時代に旗本井戸石見守弘道いどいわみのかみひろみちの穀倉があったところで、その穀倉は明治になって江戸屋敷消滅後に井戸氏の妻と子息が余生を送った住まいとされています。町田市 web site

井戸 弘道(いど ひろみち、生年不詳 - 安政2年7月26日(1855年9月7日))は、幕末の江戸幕府旗本。通称、鉄太郎、石見守。井戸弘勗の長男、母は福原資明の娘。

当初西丸小姓番士だったが、弘化3年(1846年)徒頭となり、翌年には西丸目付に昇進。嘉永元年(1847年)目付となり、勝手掛、海防掛を兼務する。嘉永6年(1853年)浦賀奉行となり、同年のペリー来航時には、同じく浦賀奉行の戸田氏栄とともに久里浜でペリーより国書を受け取った。同年には大目付に就任し、再び海防掛を兼務。安政元年(1854年)軍制改正用掛となった。老練な実務官僚として優れていたとの評が残っている。安政2年(1855年)大目付在任中に卒去。

生年は不明だが、ペリーの日記によると「戸田氏栄より10歳から15歳ほど年長に見えた」とのことである。 (wiki)

生まれて初めて実物の水琴窟をみて、音を聞いた。本当に響いていた。竹筒の口に耳を当てて聞くのだ。


航空写真。左から1960年代、1980年代、現在。この公苑と隣接家屋は平地の中の雑木林であったとわかる。

現在の庭園にいつ仕立て上げたのかは不明。

■ 4;堂之坂公苑 ⇒ 5;JR成瀬駅

駅へ向かう道は勾配がある。上り坂。

駅から振り返ってみる。駅は高い場所にある。

■ 振り返り:JR成瀬駅は相模原台地ではなく、多摩丘陵

JR成瀬駅から今来た経路の方面をみると、少し低地。成瀬駅は高い場所にある。これは相模原台地なんだろうか?と疑問に思い、調べると。多摩丘陵だった。成瀬駅が載っている高台は相模原台地に埋もれているようだ。

ジオテック株式会社 町田市の地盤

すなわち、経路で来た地域、恩田川が流れている地域は(海退期に)河川に浸食され谷となり、のち海進期に沖積平野となったのか? いずれにせよ、成瀬駅が載っている高台は、海退期の侵食を免れた残丘らしい。

現在のあかね台は多くの谷戸がある耕作地と雑木林であった。

▼ 少し拡大した1960年代の航空写真

右上の横浜市域の多摩丘陵は樹脂状の谷をもつ。一方、成瀬駅付近(左下)の多摩丘陵は谷戸は発達していない。最下部に左右に走っている線がJR横浜線。その上を左右に走っているのが恩田川。



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