-政宗が演説したとされる、サンファンバウティスタ号(復元)の内部-
■プロローグ
「この船は、私の領国内の神の掟を弘め、宣教師たちを招く目的のためだけに建造され、派遣されるのであり、よい旅行ができるように祈願することと、成功するように神を信じ、すべての面においてフライ・ルイス・ソテロ神父の命に従うことである。宣教師たちが私の領国に戻った暁には教会の建造を命じるであろう。そして私たちは皆キリスト教徒になりましょう。」
政宗が鷹狩りのついでにサンファンバウティスタ号にやってきて、宣教師や工事に携わっている信徒に演説をしたそうだ。『伊達政宗の遣欧使節記』というイタリア人の歴史家シビネーオ・アマーティに書かれているらしい。でもこのアマーティはマドリードから遣欧使節やソテロと同行した文筆家であり、内容はソテロからの伝聞に違いない。この政宗の言動の確実な信憑性は担保されない。
■先日、本屋に行ったら、大泉光一、『伊達政宗の密使』という本を見つけた (Amazon)。今年の夏の小林千草・『伊達政宗、最期の日々』に続く、2冊目の政宗本。この新書『伊達政宗の密使』は大泉光一さんの一連の支倉六右衛門・慶長遣欧使節団に関する専門書のダイジェストものらしい。"ライバル"は『支倉常長―武士、ローマを行進す (ミネルヴァ日本評伝選)』であり、間違いを、暗に明に、指摘している。
大泉光一さんはスペイン語・ポルトガル語、しかも古語の専門家で古文書の歴史文書の読解で、慶長遣欧使節団の研究に貢献しているらしい。特に、この新書で強調されているのは、イエズス会の神父・アンジェリスが政宗やソテロの動向をローマのイエズス会本部に報告した文書の読解、日本語訳を大泉光一さんがしたこと。この資料で慶長遣欧使節団の意味を考えるというのが主旨。
結論は、伊達政宗はキリスト教に入信する考えなどないのに、「キリシタン帝国」を作り、キリスト王となるつもりがあると「嘘」の計画をスペイン王とローマ教皇を欺いて、スペインの軍事援助を受けて倒幕し、将軍になる、つまりは、天下人になる謀略だった、というもの。
この政宗の野望、すなわちスペインと組んで徳川にとってかわる野望があったという推定は昔からなされている。娘婿で家康の息子の松平忠輝がキリスト教シンパであったこと、そして大久保長安事件のこともありよく流布された説である。なにより、歴史小説のネタには絶好である。
■慶長遣欧使節団とは徳川家と伊達家が合同でメキシコに派遣した外交使節。メキシコは当時の世界帝国であったスペインの太平洋へ出る要の植民地であった。家康の目的のひとつはあずかっているメキシコ(スペイン)の外交団をメキシコに送り返すこと。彼らは海難で船を失い帰りそびれていた。徳川家と伊達家が合同のプロジェクトだけど船、サンファンバウティスタ号は伊達政宗が準備した。家康はメキシコまでの派遣にしか用はなかった。
一方、政宗はメキシコからその"奥"の大西洋を渡ったスペイン、ローマまで使節を派遣したかった。理由は神父ソテロに口説かれたからである。神父ソテロは「東日本の司教になるためにはどうしてもローマまで行って教皇に謁見する必要があった」。しかも、サンファンバウティスタ号を作り始めるまではメキシコに行く話しかソテロは政宗にしていなかったのに、サンファンバウティスタ号が完成し出発を待つだけという状況で、スペイン・ローマ行きを政宗に提言、了承された。貴族の息子で神父のソテロは、坊主のくせに、いや坊主だからこそか、
功名 いささか また みずから ひそかに 期す (功名聊復自私期)のであったのだ。
これでは政宗と肝胆相照らさないはずがない。"奥州キリスト王"と"東日本の司教"を目指した、王と坊主の野望!
そして、そのプロジェクトに支倉六右衛門が選ばれた。
これは、政宗が騙されたわけでもないだろう。肝胆相照らしていたに違いないのだ。スペイン・ローマ行きはソテロが企画・主導・実行したものであるが、政宗は面白いと思って、"馬券を買ったのだ"。政宗は「スペインの軍事援助を受けて倒幕し、将軍になり而して天下人となる」ための一つの"賭け札"くらいと考えていたのだろう。ただ、出費は高くついたのだろうけど。
政宗のこの慶長遣欧使節団の"陰謀"は同様で別の事例から視ればいい。例えば、和賀忠親事件; 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を燃やす政宗の密命を受けて、旧領を回復しようとした。そして政宗の援助を受けて和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み、花巻城(鳥屋ヶ崎城)を急襲したが、北信愛と利直の反撃を受けて失敗する。そして関ヶ原の後、政宗により仙台領、陸奥国分寺にて暗殺された (wiki)。政宗はこんなことばっかりやっていたのだ。
「そして私たちは皆キリスト教徒になりましょう。」
梟雄(きゅうゆう)の嘘吼(きょこう)である。
■そして、大泉さんがいうには、田中英道、『支倉常長―武士、ローマを行進す』で書かれいる"あの絵"は支倉六右衛門の像ではないとのこと。この絵の人物はローマで洗礼を受けた「小平外記」であるというのだ。もしそうであるなら、田中英道さんは面目丸つぶれである。
今、ネット調べたら、詳細があった;
・ブログ・「久安つれづれ日誌」様、「捏造された慶長遣欧使節記」(大泉光一著 雄山閣)を読みました。
・ブログ・「新版Kizurizm」様、大泉光一『捏造された慶長遣欧使節記』
■エピローグ
確かに、支倉六右衛門はスペイン王(フェリペ3世)とローマ教皇(パウロ5世)に会って、その人格の高潔さは印象ずけたが、政治目標の達成はできなかった。つまり、政宗にスペインカードを手中にさせることに失敗した。失敗の確定を以って政宗は、家光の意向にそって、耶蘇信徒を弾圧、仙台領から耶蘇信徒は消えた。
二百数十年後。仙台伊達家解散。明治になって宮城県ではロシア正教を中心にキリスト教が広まった。信徒は没落した武士階層を中心としたものとされている。明治の仙台武士は二重の敗残者であった。武士としては戊辰戦争での敗北。朝敵大名の家臣。そして何より新政府で武士身分そのものがなくなった。すがる精神的支柱がなくなったのだ。それで、すくなからずがキリスト教徒になったとされている。内村鑑三、新渡戸稲造ら旧武士層がキリスト信徒になったのと同じ社会的、文化的背景である。
「そして私たちは、敗残し全てを失い、キリスト教徒になったのです、武士のエートスのために」
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案外、そのトンデモは政宗が流してたりしてね。
それにしても、
一体、なんざんしょう?