いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

小林千草・『伊達政宗、最期の日々』、あるいは、元祖「死ぬ死ぬ詐欺師」の最終演戯

2010年08月15日 07時37分15秒 | 仙台・竹雀・政宗



週末本屋に行ったら、平積みしてあった。初めて知る。小林千草、『伊達政宗、最期の日々』。今年7月20日刊行。買う。

いささか また みずから ひそかに政宗マニアであることを期すも、『木村宇右衛門覚書・伊達政宗言行録』(Amazon)を読めない"古文盲"( こもんもう )のおいらにはありがたい本。おいらが愚記事「伊達政宗終焉の地」で書いたことの内容は『木村宇右衛門書・伊達政宗言行録』由来。

▼関連人物;木村宇右衛門、小井川百合子、小林千草。
 木村宇右衛門は伊達政宗の小姓。実際に政宗に仕えて、その記録を文章化して残した。小井川百合子さんは仙台市立博物館の学芸員。所蔵の『木村宇右衛門覚書』原文を活字に起こして出版(翻字、翻刻)した人。小林千草さんは東海大学文学部教授。近世日本語屋さんらしい。この『伊達政宗、最期の日々』で、『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』の政宗の死に至る様の記述部分を現世庶民のために解読してくれる。

Amazon;『伊達政宗、最期の日々』 [あー、ずんだもつ食いてぇーと思わせる表紙です(???)]

内容;
第一章、くもりなき心の月をさきだてて
第二章、病身をおして
第三章、将軍家光との別れ
第四章、殉死を望む家臣たち
第五章、政宗臨終
という章立て。仙台で死期を悟った政宗が、将軍家にあいさつをするため江戸に行き、江戸藩邸で死に、亡骸となって仙台に還るまでの1636年1月から同年6月までの小姓のドキュメントを現代語訳を示し解読。

著者の小林千草さんのバックグラウンドである当時の狂言や能など、そして当時の言葉についての知識をもって、政宗の言動の背景を解説。さらに小姓とはどういう役目なのかおいらは今回勉強になった。政宗と小姓たちが狂言として遊ぶ「秀吉お茶会回顧」は圧巻。最高指導者は孤独だとよく言う。戦国武将は小姓を取り巻きにしてこうして遊んでいたんだだなぁとわかる。さらに、親子関係、夫婦関係も今テレビでやってる時代劇をホームドラマ化しているような風でななく、親子関係、夫婦関係もかなり「緊張」関係があるとわかる。こういう背景で、政宗の「真実」の姿を知っているのは実は小姓たちなのである。だからこそ、小姓、木村宇右衛門の記録者としてのすごさがある。残っててよかった『木村宇右衛門覚書』。ちょっぴり読めてよかった、『木村宇右衛門覚書』。

政宗、「死ぬ死ぬ詐欺師」時代

『伊達政宗、最期の日々』の小林千草さんは「伊達政宗の臨終観と言語行動」という心の月を先立てて『木村宇右衛門覚書』を読解。たぶん、政宗の履歴を耽溺するマニアではなさそうだ。普通の政宗マニアの心の月を先だてて政宗臨終と仙台伊達家のその後を考えよう。

『伊達政宗、最期の日々』にも書いてあるが、臨終のあと政宗の遺骸は、数週間前に仙台を旅立った衣装、つまりは束帯の御装束で、駕籠に入れられ仙台に運ばれた。白装束(しろしょうぞく)ではなかったのだ。生きている時、さらには血気盛んなころは重大事に白装束をまとい、周囲の度肝を抜いていたのに.....。

政宗が初めて関東に来たのは1590年。政宗24歳。小田原攻めのため東征していた豊臣秀吉に呼び出されたからだ。事実上の投降命令だ。呼び出しに応じても伊達家は危ないし、ほっとけば小田原・北条攻めのあと次の標的になる。6月、関東平野を迂回、遠回りして小田原に行く。秀吉に死装束で謁見。政宗、第一回目の大芝居。

ちなみに、この1590年というのは、45年後に自分が屋敷を建てて死ぬことになる江戸なんてものは全くない時代である。家康江戸転封は1590年。ここ10年日本の主要都市が次々に開府400年を祝ったが、この1600年を挟む50年というのは日本大発展の時代。こんなのだって政宗(伊達家)が掘ったんだよ。地形一変。

第二の政宗白装束大芝居は、翌年1591年、25歳。大崎事件で秀吉から嫌疑をかけられた時、白装束に磔(はりつけ)用の金箔をはった柱を持って参上。例の鶺鴒の目の花押で窮地を切り抜けた。

これら決死の行為は戦略的裏付けに基づく"大芝居"とされている。政宗が70歳まで生きおおせたのも、常に死ぬことを考えて、しかし実は、"掛け金"を担保することを先回り、用意周到に行ったからであるとされている。

政宗、でも実は二流の戦略家?

自分の運命はその自己演出と演戯のために全うした政宗であったが、仙台伊達家のその後は、政宗の死後わずか25年で、綱村隠居事件をむかえる。 のち、寛文事件(1660年)、いわゆる、伊達騒動に発展。すなわち、第三代仙台藩主・伊達綱宗は遊興放蕩三昧を理由に強制隠居させられる。これで、2歳の幼子が藩主となったうえ、内部で闘争。幕府に上訴、裁判の席上斬りあい。結果、仙台は"保護観察処分"。仙台には幕府からの"査察団"が常駐することとなる。

大きな背景は2つある。ひとつは伊達家内で"小姑"が多く直系の後継者が足を引っ張られたこと。ふたつめは、幕府内での外様大名弱体化政策。これらに政宗が中長期的な先手を打たなかったことにある。

例えば、ちょっと話がずれるが、政宗が死んだ時、政宗の婿(むこ)であり家康の息子の忠輝は43歳で生きていた。ただし、罪人として配流先の諏訪で。松平忠輝は"元気すぎて"、後々徳川直系の後継者の競争・敵対者になると警戒され改易、配流になった。決断、断行したのは、家康の意向と秀忠。つまり、危ない芽は事前に摘んでいる。家光は弟を事実上"殺して"いる。一方、政宗はこういうことをしなかった(若いころはしたのにね)。つまり、伊達騒動の後、幼殿をいただいて権勢をふるったのは政宗の末の方の息子である。彼らは、幼殿という体制になったから権勢をふるったばかりではなく、三代目失脚を一族の一部は図ったのだろう。「家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た」(wiki; 伊達騒動)。

政宗は、『木村宇右衛門覚書・伊達政宗言行録』、『伊達政宗、最期の日々』に書いてあるように、徳川将軍家への忠誠を尽くすことで仙台伊達家の存続を図ろうという戦略を取った。特に、秀忠、家光の両将軍には個人的にとても深い絆を持ったといえるだろう。

しかし、時代が変わると、幕府は将軍の独裁的意向で運営されるのではないということに政宗は無頓着だったに違いない。つまり政宗は個人を超えた制度が自律するということに考えが及んでいない。1660年の幕府による仙台伊達家弱体化の時の事実上の最高権力者は当時下馬将軍といわれた酒井忠清。将軍ではない。将軍とはあるいみ緊張関係にある老中家臣団が権力を持つと石高の高い外様大名の存在は石高の低い三河武士たちにとって癪の種であるので、彼らが分割統治したがるのは当然。

一方、政宗は自分の藩において「個人を超えた自律する制度」を埋め込むことができなかった。だから、兄弟・親族で争いあう一族郎党となるのである。こういう事例は強大なカリスマが死んだあとの大組織で起こる普遍的なことだ。家康は、それを見越して、将軍家、老中、親藩の役割と幼長の序を制度としてしっかり埋め込んだといえる。(もっとも埋め込んだ最大のくさびは"禁中並びに公家諸法度"だろうけど。) 家康は自分の存命中に3代将軍を指名している。後で後継争いが起こらないように。そして、早めに引退している。「個人を超えた自律する制度」の運用を見守るために。



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