いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

梅に雪

2010年02月18日 20時02分05秒 | 筑波山麓

今日は昼前まで降雪。ひとんちの梅。


もう、吹雪ですよ。ふぶき。


-- けだし、驚異することにより人間は、今日でもそうではあるがその最初の場合にもあのように知恵を希求し(哲学し)始めたのである --
アリストテレス、『形而上学』(出隆 訳)


別にたいそうなことではない。ただ、ぎょっ!とすることこそが、知りたいと思うことの始まり、というだけのこと。

▼ ネットめぐりで見た;

私は、哲学書をほとんど読んだことがなく、哲学者の名前は知っているけれど、内容はほとんど知らないし、」by ある一橋大学教授。

あんまり、ぎょっ!とさせないでほしい。日本学術会議副会長殿。また、今夜も又「知恵を希求し(哲学し)始め」なければならないじゃないか。

それにしても、すごいね。ナマ木田元センセの謦咳に接しっちゃってんだ。 うらやましいよ。贅沢だね~。本読むなんてビンボーくさいこたぁーしない。お話で直接本人から聞く。王侯貴族サマだよ。木田センセを御伽衆あつかい。 おいらなんか立て看・木田元センセだもんね、タテカン。タテカンの横で本さ見ただよ。

●おいらは、哲学者の名前をたくさん知っているかもしれないし、哲学書もたくさんもっているかもしれないが、まともに読み込み通したことはない。でも、時間だけは使った。暇だったし。やっぱり、哲学って、特に黒川センセや石倉センセが大好きなグローバル経済・社会の理解に不可欠だと思う。なぜって、グローバル経済・社会って、技術と貨幣こそが人間を駆動している<世界>だからである。その究極は人間の言語活動能力。その存立構造と成因を明らかにすることが哲学。おいらもよく知らないけど。

よくわからないけどなぜ知りたがるというと、技術と貨幣・言語による人間の駆動というのがおいらを左右しているという実感があること。そして、木田元センセは何かそのことの解明の道筋の方角を知っていそうなこと;

技術は人間によるコントロールなどとうの昔に脱して、いまや巨大な自己運動を展開しているとしか思えない。かつては芸術と一体であった技術がなぜそうなったのか、その本性をなんとか明らかにしてみたい。 木田元「技術の本性」

ここで、技術とは狭義の工業的、産業生産的技術ばかりでなく、貨幣や知識(ためにする知識)も含まれると考えるべき。経営学などは社会制御の典型的技術に他ならない。そうであるから、グローバル経済に参画せんとするものは、まず"哲学"である。

たぶん、石倉センセは、自分のグローバル経済体験と得た知識を、「自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力」をすれば、上記、「技術」=グローバル経済の成因に迫れるんだと思う。大きなお世話だけど。

さもないと、グローバル経済というジャガノートの山車の車輪の下に自らを供具することに法悦する狂信者となるだろう。

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