いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

西部邁死去3年;ハーネス(安全帯)とロープをつけて谷筋での繋留死:何處かに行かないように

2021年01月21日 18時37分06秒 | 日本事情


東京、武蔵野台地の谷筋、多摩川。
西部邁は、2018年1月21日、大田区田園調布5丁目の多摩川左岸の河川敷から多摩川へ入水自殺。

 ー そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら、 - 福田恒存

西部邁が死んで3年目。2018年1月21日は関東平野は大雪になった(愚記事;西部邁死去2年)。西部の自殺については、しばらく経って幇助者がいるとわかった。西部の自殺に他人の助けがあったことは、西部がハーネス(工事現場で作業者が着ける安全帯 [1])にロープを付け、そのロープが川辺の木に結び付けてあったからわかったという。つまり、西部は、当時、手が不自由で自分でロープを木に結わえることはできるはずはないと近親者が気付いたらしい。

さて、この続報を聞いて、おいらが印象深くしたのは、西部が安全帯にロープを付けていたことであった。すなわち、他人に頼んで、川に流されていかないための措置をとったのだ。死んでもどっかに「吹っ飛んで」いかないようにという西部の意思が印象深かった。もちろん川での入水自殺なので空をすっ飛んでいくことはないが、多摩川のような大きな川では、流されそのまま海に出ると行方がわからなくなる。西部自殺の数日後の続報であるロープでつないで入水自殺したと聞いたとき、冒頭の福田恒存の言葉を想起した。そして、西部はどこぞにすっ飛んでいかないように、どこぞに流されていかないように、ロープで自覚的に繋留したに違いない。


[1] ハーネス

冒頭の福田恒存の「そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら」という"せりふ"は、1960年の安保騒動の後に福田恒存が全学連の幹部との会合で放ったものだ。詳細はこうだ;

反安保闘争直後、知人の紹介で全学連の指導者達に会った事がある。島、唐牛両氏その他五、六人はいた様に思う。席上、誰だったか、こういう意味の事を言った、「僕たちはもう清水幾太郎を信用していません、信用できるのは丸山眞男だけです、マルクスも『資本論』のマルクスは捨てた、信じられるのは初期マルクスだけです」。それに対して私はこう答えた、「そうして君達は次々に仲間を捨てて行ってどうする気持なのかね、そのうち丸山眞男も初期マルクスも切り捨てて行くだろうよ、そして紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行くやら、最後には自分も信じられれなくなる時が来るに決まっている」。(以下略)[仮名遣い変更と強調は、おいら]

この文章は、福田恒存、『近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず』の註である。

■ 西部の入水自殺宣言

西部は自殺にあたって極めて自覚的で「最後には自分も信じられれなくなる」ということではなかったと自分では信じているだろう。だから、死んだとしても「紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行く」ことがないように措置をしたのだ。

死後の自分が「紐の切れた凧みたいに風のまにまに何處へ行く」ことがないようにしたことは別として、入水自殺することは以前から自覚的であった。20年前から云っていた;

「どうやって死ぬか。自分で死んでしまえ、と。いちばんいいのは青酸カリで、次はピストルだけど、青酸カリとピストルは、日本では手に入らないことがことがある。それで三番目に思いついたのは入水自殺です。私はカナヅチで泳げない。それで最初は、入水自殺というイメージはものすごい恐怖なんです。ところがおもしろいことに、自分が入水自殺した光景を繰り返し繰り返し自分の中ででイメージさせる。そうすると次第に自分の頭が平気になるんです。」(【共同討議】伝統・国家・資本主義、 西部邁、福田和也、浅田彰、柄谷行人、「批評空間 II-16」1998)

■ 散乱気質制御としての「保守」、あるいは、尾根筋・谷筋

1980年代中半から「保守」を掲げるようになった西部の論敵は戦後民主主義であったが、別の主敵はポストモダン派だった。その価値探求を忌避する態度と論理が気に入らなかった。論敵は浅田彰で、対談がいくつかある。西部は晩年に至るまで浅田の「ありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾキッズ」(浅田彰、『逃走論』の装丁の上の文章)の文言を繰り返し口にし、そんなバカなことはないと云っていた。西部は人間は差異化運動を限りなく続ける記号に踊らされるのではなく、「価値」を求めて生きるべきという思想を喧伝していた。でも、保守を掲げながら、落ち着くことなく、逃散気質であったのは西部の方だろう。西部の人生の逃散ぶりはこうだ;

共産主義組織の活動家 ⇒ 逮捕・裁判 ⇒ 各種薬物の試用 ⇒ 近代経済学(制度化した学問)の習得と初陣の成果(宇沢弘文に認められ大学の職につく) ⇒ 「言語論的転回」の洗礼 ⇒ 近代批判、制度化し社会のイデオロギー装置と化した経済学の批判 (”自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力”) ⇒ 構造主義的社会科学総合への夢/団塊世代の若手学者の啓発 ⇒ (ポストモダン的批判の)行き詰まり ⇒ ポストモダン批判 ⇒ 大衆批判/ビジネス文明批判 ⇒ 幻像の「保守」へ ⇒ 大学離職 ⇒ テレビでの言論活動 ⇒ 雑誌運営 ⇒ 戦没参りへの耽溺 ⇒ イラク戦争批判、反米言論活動、など、など

西部は、この自分の逃散気質を自覚していて、克服したいと思い自覚的に「保守」を掲げたに違いない。「保守」を掲げても気質は変わらなかったと見える。西部が1980年代中頃から喧伝した「保守」とは、実体のあるものではなく、逃散気質の自己を何とか平安に制御する思想のことであったに違いない。事実、逃散気質克服修行での言葉が残されている。1986年。西部は、真理や正義を口にする。価値相対主義はいけない、と。西部は、長崎浩との対談で、云っている;

真理にたどり着くはずの道を見たぞという思い、あるいはそれを見出そうとする持続的な構え、それが僕の言う正義なんです。」「僕の思う正義というのは、感性と理性の話で言えば、両者がキチっと折り合いがつく際の存在の型のようなものです。そんなものがあると思うのは夢かもしれないけど、僕の思う正義の本質はそんなものです。二律背反にずっとさいなまれていたのに、その二律背反をきわどく渡り切る経路が一瞬みえてくる。数学でいえばサドル・ポイント、つまり鞍点解  [2]  にすっと近づく一線のことです。そこからちゅっとでもはずれれば、すっとどこかに飛んでいくというきわどい一線のことなんです。

長崎「僕の言う尾根道だ。」 (『<現在>との対話6  西部邁 ビジネス文明批判/尾根道をたどりながら』)[強調、おいら]


[2]  鞍点

1986年に西部は、「そこからちゅっとでもはずれれば、すっとどこかに飛んでいくというきわどい一線」への繋留を語っている。つまり、西部は油断すると「すっとどこかに飛んでい」ってしまうという自分に警戒しているのだ。その「すっとどこかに飛んでい」くだろうよ!という警告が冒頭の福田恒存の言葉だ。全学連だった西部は、いつの時点かで、気付いたのだ。それでも、西部の逃散気質の駆動力は衰えなかったのではないか。最後に、約束通り、自殺を決行した直接の原因は、病院死への嫌悪だ。西部は最晩年まで、近代批判=モダン批判、=モデル批判をしていた。つまり、モデル思考を非難する。モデル思考とは、複雑な現実の仔細を蔑ろにして、大雑把なパラメータ(因子)で現実を切り取り、説明することである [3]。その理論の応用が、大量生産社会であり、画一的人間の生活様式だ。そして、今では人間の死までも、画一モデル、すなわち、パッケージされたルーチンの治療から臨終処理まで画一的な処理過程が病院で実施されているのだ。西部はそんな死に方はいやだと考えた。そして、散乱、逃走! 多摩川へ。

[3] ちなみに、西部が学者としての初陣で、宇沢弘文が解けなかった数理経済モデルを解いて、宇沢弘文に認められた。そして、のち、そんな数理経済モデルはくだらないと捨て去る(逃散、逃走)。

そして、谷筋で死す

尾根道、尾根筋があれば、地表には、谷筋がある。高地の谷筋は名の通り谷、あるいは水を添えて渓谷である。一方、平野での谷筋は河川だ。凸凹がある関東平野西方の谷筋は多摩川がながれている谷だ。西部はその谷筋の多摩川で入水自殺した。そして、どこかに行ってしまわないように、体をロープで繋留したのだ。逃散気質制御の最期の見せ所となったのだ。