いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

デリーのカシミール門のJohn Smith (ジョン・スミス)さんの素性がわかった;靴職人の息子だった。

2019年05月02日 19時40分24秒 | インド

2007年10月7日の愚記事「カシミール門」において、現地の石碑にJohn Smith (ジョン・スミス)の名を見つけたことを書いた。

John Smith (ジョン・スミス)とは、wikipediaによってでも明らかなように、こういう意味である;

そして、今日の主役、カシミール門 (Cashmere Gate) のJohn Smith (ジョン・スミス)さん。

ググったら、あった。⇒ Sgt John Smith VC 

彼はイギリスの真ん中のティックナル(Ticknall)という街で靴職人の息子として1814年生まれた。

1857年の、今の中高年の人は「セポイの乱」として習った、でも現在は「インド大反乱」と呼ばれる戦争で、彼はカシミール門攻撃作戦の功績で"敵前において勇気を見せた軍人"に対してのみ授与される「ヴィクトリア十字勲章」(wiki)を他の仲間3人と共に授けられた。ただし、生存者は彼ひとり。

生涯英国本国には帰らず、現地で(イギリス人と)結婚して、1864年赤痢で死んだ。

彼のヴィクトリア十字勲章は親類に伝えられたが、その後行方不明。1989年に売買されたことが確認されている。

以上は上記のサイトに書いてあること。このティックナルのサイトは郷土の人についての情報を載せているのだ。


ところで、なぜ今日、カシミール門のJohn Smith (ジョン・スミス)さんをググったかというと、休みで本の整理をしていたら、文庫本(2003年刊行)で内田樹の『ためらいの倫理学』が出てきて、読んでいた。すると下記あった;

 たとえば、アメリカ人で共和党支持者のジョン・スミスさん(イリノイ州オーロラ在住、四十三歳、仮名)

とあり、John Smith (ジョン・スミス)のことを思い出し、ググったのだ。この内田のジョン・スミスの用法は上記のwikipediaにある用法の典型例である。

このアメリカ人のジョン・スミスさんは戦後の戦争に対する「日本人としての政治責任」の取り方について、保守的米国人が望む政策=在日米軍によるアジアでの米国のプレゼンスの維持を主張する人のモデル。ちなみに、これと対照的なのが、コリアンの徐京植(ソキョンシク)さんの「日本人難民化」。内田は徐の主張は「恫喝」であると批判し、その批判の一環として戦後の戦争に対する「日本人としての政治責任」の取り方は国によって違うことの例としてジョン・スミスさんモデルを提示。