いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

鬼畜米国でさえ焼かなかった京都を、最も焼いたのは長州・毛利家

2016年04月06日 20時39分17秒 | 日本事情


今早春のおけいはん参りにて;

京都のヨタ話に、京都人が先の戦争・先の戦災というとそれは応仁の乱のことだというのがある;

⇒ google

もちろん、間違い。間違いであるばかりでなく、これは大日本帝国=薩長新政府の陰謀ではないだろうか(!!!???)

京都の近代での最大の戦災は何か?

案外、答えられない人もいるだろう。

答え; 蛤御門の変(禁門の変)

1864年、長州・毛利家が会津が警護する御所を襲撃、天皇を奪取しようした戦争。 もちろん世界で一番成功した○X▽の賜物だ。ただし、最初は失敗したのだ。でも、失敗は成功のもと! 今じゃ、なぜかしら?、「明治日本の産業革命遺産」だ。世界で一番成功した○X▽なのに...。 あるいは、なにより、⇒ これ

戦いは一日で終りましたが,9月19日朝,長州藩邸等から出火した火災による被害は,北は丸太町通,南は七条通,東は寺町,西は東堀川に至る,現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及びました。21日に鎮火しましたが,800か町,2万7000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災しました。   名の知られた寺院では,東本願寺・本能寺・六角堂が焼失しました。京都御所・二条城・西本願寺は,火がすぐ近くまできましたが焼失は免れました。その被害の範囲を描いたかわら版が多く残されています。   火災としては,天明8(1788)年の天明大火に次ぐ大火でしたが,どんどん焼けは幕末の動乱期に起きたため,市中は被害から容易に立ち直れませんでした。その5年後には東京遷都が行われ,なおいっそう京都の衰退に拍車がかかることになりました。 (京都市の解説より)


御所側から。