いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

大磯 「ヨハンセン」邸炎上

2009年03月22日 19時33分41秒 | 日本事情



- - 袴を穿いた「ヨハンセン」は、ほんとに太っていた。 小さくもない荷台であるが、その荷台にはみ出るのである。

 生まれて初めての自転車乗りである。 いつ転げるかわからない。油の切れた「チェーン」は「キチキチ」鳴った。それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。これからずっとこの自転車が、戦争中における乗用車になった。- -


東輝次、『私は吉田茂のスパイだった』より。

■この元スパイの話が本当だとすれば、吉田は67歳にして生まれて初めて自転車に乗ることに挑戦したことになる。「それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。」って、目に浮かぶようである。

Amazon 私は吉田茂のスパイだった―ある謀報員の手記は、いわゆる「陸軍中野学校」出身の東輝次さんという人が、終戦工作をしているだろう吉田を監視するため、書生になりすまし、大磯の吉田に住み込み工作をしていた、という自己記録。

ヨハンセンは陸軍兵務局防衛課がつけた、吉田茂のコードネーム。

■この本によると、東輝次は大礒から吉田が出した手紙をすべて写真に撮り、その上再封印して配送していたといっている。

そして、あの近衛上奏文草稿を軍は落手したと東輝次は回想している。ただし、この『私は吉田茂のスパイだった』にはそこのところが2行しか書いておらず、詳細は全然回想されていない。

吉田は昭和20年4月15日朝、憲兵隊に拘束される。上記の近衛上奏文に関する嫌疑。

吉田は5月31日解放。東輝次は書生をやめる。

▼戦後、東輝次は吉田に会い、工作員であったことを告白。「吉田はしばらくは茫然としていた」。



火災:旧吉田茂邸、ほぼ全焼…不審火か 神奈川・大磯

 22日午前6時ごろ、神奈川県大磯町西小磯の吉田茂元首相の旧邸が燃えていると119番があった。県警と町消防本部によると、木造2階建て住宅約890平方メートルをほぼ全焼した。午前8時半現在、建物はほぼ焼け落ち、周囲の樹木に火が移り消火活動が続いている。今のところ、けが人の情報はない。建物は普段無人で火の気がないことから、県警は不審火とみて出火原因を調べている。

 県警や町サイトなどによると、今は約3ヘクタールの敷地に総ヒノキ造りの建物と庭園がある。人は住んでいないが、敷地入り口に普段は警備員がいる。

 町郷土資料館のサイトによると、旧吉田邸は吉田茂元首相(1878~1967年)の養父が1884(明治17)年に別荘を建てたのが始まり。戦後、自邸として使うようになった際、日本芸術院会員だった建築家、吉田勝五十八氏に設計を依頼し建て直した。首相辞任後も元首相が亡くなるまで多くの政財界人が訪れ、戦後政治史の貴重な舞台となった。79年には大平正芳元首相とカーター元米大統領の会談が開かれた。

 県警や町サイトなどによると、元首相の死後69年から西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)が所有。県が建物の寄付を受けて県立都市公園として整備する方針。普段は一般公開されておらず、町が開く見学会などで年数回見られる程度だった。22日は午後、県や町などが企画した庭園めぐりで公開予定だったが、火災を受け中止が決まった。【五味香織】