いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

乾いた大地 La Mancha

2007年09月05日 20時09分32秒 | 欧州紀行、事情
- - そして、騎士になるために、彼がまず最初にしたことは、ひいじいさんが着ていた鎧とかぶとを掃除することであった。 - -

セルバンテス、『ドン・キホーテ』



我らが支倉常長とセルバンテスがマドリッドですれ違った可能性についてはかつて言及した。 
ドン=キホーテに関する笑殺 1605-1943

さて、更なる草莽 妄想 的研究を進めると重大なすんずつがわかってきた。それは、支倉は『ドン・キホーテ』をぬっぽんに持ち帰ったのであった。その原本は江戸時代のあいだ中、ずっと、遅遅として訳され、ついには大塩平八郎の眼に留まり、大塩をしてその本に耽読せしめたことはいうまでもない。たぶん、この翻訳には仙台のガクモンの白眉、大槻家がクロマクであったにつがいねー。(白眉にして黒幕とはこれいかに? 白人・毛唐が腹黒いというがごとし。)

それで生じたのが大塩平八郎の乱である。

家康の旗本直参の正嫡として大坂で役人人生を終えた大塩は、飢饉も重なり、庶民の貧窮に直面する。

「義を見てせざるは勇無きなり」 by 孔子 の儒教・陽明学に自己扇動されて、義挙したとのもっぱらの説が流布している。

すかす、『ドン・キホーテ』にはこうある。

 さて、思慮分別をすっかりなくした紳士は、これまで世の狂人のだれひとりとして思いもつきもしなかったような、なんとも奇妙な考えにおちいることになった。つまり、みずから鎧かぶとに身をかため、世の中の不正を取り除き、いかなる危険にも身をさらしてそれを克服して、かくして、とこしえに語り継がれる手柄をたてることこそ、自分の名誉をますためにも、国をつくすためにも、きわめて望ましいと同時に、必要なことであると考えたのである。

ここで、冒頭の引用に戻ると、大塩は「反乱」の時、家康に仕えた先祖が使った槍を取り出して、出撃した。これは、大塩は「反乱」などをしたのではなく、自分以外の周りの不正に満ちた江戸幕閣自身が家康の遺訓(理念)への反乱をしているのだから、自分が正当な江戸幕府/家康家臣の正嫡として反乱軍の討伐を実行したにほかならない。

やはり、大塩は『ドン・キホーテ』を読んだのだ。

で、上記のことがなぜわかったかって?

トレドの古本屋で見つけた古本(アラビア語)に書いてあったのさ。