いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

とうがらし さん

2006年08月07日 20時20分18秒 | 草花野菜


昨日のテレビの、日帝による終戦間際の行き当たりばったり原爆開発をみて、やっぱ、へたれだな~日帝!と、あらためておいらの「祖国」の情けなさに涙した。実は、内容もスクープでもなんでもなくて、すでに公知。

理研の原爆開発


注目したのは、初公開文書として紹介された、敗戦直後、支那が要求した「引渡し要求科学者リスト」。

リストは5人。おいらはは4人しか記憶できなかった。

本多光太郎
伏見康治
仁科芳雄
湯川秀樹

あとひとりは確認できなかった(その5人の名前が書かれた文書を放映している時間がわづかだったため)が、そのあとのキャスターの話で、朝永の名が出た。が5人衆にいたか未確認。

上記4人で原爆開発ティーム、あるいは周辺にいたのは仁科と湯川。支那に<引渡し>を求められた湯川が終戦直後渡米するのも、事実上の戦勝国への<引渡し>なのであろう。渡米した湯川にアインシュタイン、米国大統領に原爆つくれと進言の手紙を書いた、は湯川の手をとり涙を流しあやまったとされる。アインシュタインは典型的な専門馬鹿で、その性格も極単純な純粋まっすぐクンであったらしい。

湯川のノーベル賞には、もちろん本人の業績とともに、こういう背景があるとされと、これまた、百万扁・北白川の口さがない京童から、きいた。

それにしても本多は終戦時75歳である。科学者としては終わっている年齢ではあるが、その業績が指名させたのであろう。本多は、最近公開された昔のノーベル賞候補者リストに名が載っていることがわかった(はずだ。referenceなし、おいらの記憶)。つまり、ノーベル賞をもらい損なったってわけだ。原爆を作るだの、落とされれるだのする前の時代だ。その時、「日本民族」として本多がノーベル賞を、ちゃんと、もらっていれば、日本民族の対西欧ルサンチマンは、暴発せずに、どうにかなったかもしれない。



国敗れて、わかめスープ。