alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

子供の強さ

2011年06月07日 | 子どもから学ぶ

 私が子供を産んだのは
子供から学べることがきっとあるのだろうと
思ったからでもあったはず で 最近は
不安な時とか 蓮太郎 本当にいてくれてありがとうとか
もしかして彼がいなかったらフランスにこんなに
長く居れてないかも?とか思うこともあったりもする


 そんな彼とパリの公園に行ったりしながら
フランスのはちゃめちゃなエネルギーのある
子供たちをみていると(やつらは集まると
めちゃくちゃうるさい!!)なんか
子供って すごいんだなあと思わされる。


 例えばけっこうレベルの高そうなアスレチックが
あったりしても 怖い物なしで仲間達と
いろんな風に身体を使って遊んだりして
私なんか そんなとこ行くことですらこわいのに
8歳にもならないであろう子供達は いろんなことを
ひょいとやってのけ「ちょっとそこのちびっ子
邪魔なんだけど」と言いたげに 走り回って何かをしている


 子供って 怖れとかないのかなあ??


 私は最近子供を見る機会が山ほどあるので思うんだけど

 どうして子供が言葉を覚えるのが早いのか
どうしていろんなことがあんなに簡単にできるようになってしまうのか
それは若いだけじゃなくって 怖れとか 壁を自分でつくっていない
からなんじゃないかと思ったりする。


 私はまず先に怖いと思う。そして不安になったりもする
例えばベルヴィル公園という、めちゃ長いすべり台がある公園で
息子が滑り始めた直後に体勢を崩し 頭からすごい勢いで
滑り落ちてしまった時に後ろから追ってた私は青ざめた。
このままでは息子は死んでしまう!!!本当にすごいスピードだった
どうしよう 助けなきゃ!と思ったけど 彼は私より
よっぽど早くて おそろしい着地の瞬間 たいして
何事もなかったように うまく手をついたのだろうか
泣くこともなく着地して 私はほとんどパニックだったから
その瞬間がよくわからない。けれども彼は元気で心配そうな
私を見ながら平気だよーみたいな顔をしていた。


 「あ あんた 怖くなかったの???」

 私はとっても驚いた 息子はまだ三歳にもなってないのに
母よりなんだか勇敢で 今日もラビレットの子供館みたいな
すごい遊具(教育 科学的遊具みたいなの)がいっぱいあるとこに
行ったのだけど そこで木製の工事の機械がいっぱいあって
クレーン車をうごかしたり 家をつくったり
手動でいろんな機械を子供達が動かしていて
なんだか「きのくに」という かつて見学しにいった
自由学校みたいだなあと思ってしまった
子供って 家も作れるんだよね
それにそういうの したいと思ってるんだよね
しかもやらせたらけっこう上手だったりするわけで


 なんかすごいなーと圧倒されて見てしまう


 きっと彼らは勇気があって しかもあまりバリアがないから
パリの幼稚園児のおにいちゃんの中に勇気を出して混じって行った
息子のように ちょっとしたら なんとなく意気投合してみたりして
それから吸収してみたりして そうしてぐーんと成長していく
かつてそんな子供だった私は6年生の時に国連のことを学んで
こう思ったことがある「みんな仲良くすればいいだけじゃない?」
きっと 本当は 仲良くすればいいだけなんだ
だけど大人になると 宗教だとか お金のこととか難かしそうなことが
たくさんからんで 「そういうわけで無理」になることが沢山で
本当のところはどうなのだろう
大人にとって 重要そうにみえる しかめっつらをしながら話さないと
いけない複雑なことというのは 本当はどれほど大事なのだろう


 子供の心 子供がもってる好奇心や素直な勇気や素直な気持
それらに私は圧倒される でもそれは大人に守られているからなのかなあ?
不安や怖れというものが そんなに大きくならないで
「面白そうじゃん やってみよう」と 子供みたいに
やってみれたら 何かはちょっと変わるのだろうか
いつからか私はくそ真面目で一歩引いた人になってしまっていたけど
やってみて 進んで行ったら面白いことも多いのだろう
大人になるって何なんだろう 子供から何を学んだらいいんだろう
なんだかよくわからないけれど 子供はけっこう おもしろい。

あれから1年

2011年06月07日 | 想いをカタチに

 もうこの頃で 昨年にフランスに旅行してから
1年が経ったよう で いったいこの1年は
何だったのか 何かが激変したような
でも自分自身というのはたいして変わってないような


 何ごとか が急速に動き始めてしまったの は
きっとわくわくしたからで あの時カフェで会話していた
いつかパリのカフェのガイドがしたいとか
オルタナティブな暮らしのガイドがしたいとか
そんなこと に わくわくしていたからなのだろう。


 子供を産んで わくわくすることをすっかり忘れてしまった
私が 昨年の2月に行った「未来をつくるワークショップ」で
「何でも叶うなら何がしたいか?」と問われたときに
一人だけとんちんかんに「パリのカフェで議論がしたい」と答えてた
そんなの夢のまた夢で雲の上の世界だったし
いつの日か ワインのシャトーの見学を という想いも
そんなの夢のまた夢だった。


 パリのカフェで議論?ねえ

 私に勇気があったなら もっとやっていけるのだろうか
私には言葉が足りないといつも思ってしまうけど
「言葉の問題じゃないんじゃないの」と友人に言われてしまった
足りないのは勇気とか 積極的に働きかけようとする姿勢なんだろか


 この1年で 全くもって知らなかったワインのことやら
フランスの料理のことも だいぶ勉強させてもらったし
フランス語だって かつてはラジオを聞くのも嫌だったのに
今ではだいぶ上達しているはずなんだけど
変わったの は 頭の中身だけなのかなあ


 結局私は勇気がなくて 結局のところ弱気なままで
強気な風によそおってみても 本来の私は弱っちく
しょっちゅう涙をながしたりして でも泣いてこそ
強くなるような 私はそんな人の様な そんな気もするんだけど

 ポジティブになって わくわくしていて
楽しそうにしていたら いろんなことが叶うのだろうか
そういうことをつい遮ってしまうのは 理性とか
固い思考なんだろか そう 私は だいぶ保守的になってしまって
それがきっと エネルギーが あるかもしれない
イイダミキという人を 自分でブレーキをかけてしまって
「ほらだからね 結局何もできないじゃない」と
そうしてしまうのかもしれない。


 この1年で いろんな風に進んで行って
ものごとは変化したけど 保守的な私はいつも歯止めをかける
それはちょっと無理だろうとか 保険はいったいどうするのかとか
そんなこと言ったって やっぱりそんなに簡単じゃないだとか
そう できない理由を数え上げればきりがない。
だけど少しずつ ステップを描いて行ったなら?
何かはかなっていくのだろうか 全部遠い未来が
いっぺんにふってくることはなくっても

 私はフランス語のpetit a petitという言葉が好きだ
響きがとってもかわいくて「プチタプティ」と言うのだけれど
少しずつ という意味で うちの事務所の人だとか
たまに会話をしているときに「全てはじめからできないけれど
petit a petitやっていけばいいのよ」と言ってもらえると
ほっとする。


 そう思うなら 少しずつでも進んで行けるのならば
この先どこかに行けるのかなあ 諦めるのは一番楽だ
諦めるのは一番早い でも それが本当に楽なのかって
それも私にはよくわからない どっちにしたって泣くのなら
泣いたあとポジティブになれる方がいいのだろう。


 あまりにもいろんなことがありすぎたこの1年
これからどこに向かって行くのか 私にはよくわからない。

フランスに行くなら

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