新版 Caf´eから時代は創られる | |
飯田 美樹 | |
いなほ書房 |
今日は新国立美術館のマン・レイ展に行ってきた。
久しぶりに子供を預けてゆっくりとした雰囲気で
美術館の中に入れてなんだかとっても豊かな時間。
東京に帰ってきてから あまりに突然来たというのに
連日友達に会っていて 急遽会うことになった友人たちは
なんだか今の私が会うべき人で あーそうだよね!!と
思わず深くうなずいてしまう そんな会話をいつもしている。
最近会う人会う人が 日本脱出計画組で
これまでは「日本をもっとよくしよう」と思ってたけど
「もう出たい!!」と思ってしまってようやくそんな人たちの
気持ちがよーくわかるようになり そんな人たちと話をしながら
うんそうだよねえと深く納得。
今日の展覧会は早稲田時代の写真のゼミの子と見にいって
マンレイやらパリやらの話をしながら「こんな生活したいよね!」
という話で盛り上がる。でもどうやって?
私たち は まだまだ遠い そんな生活 夢みたい。
けれど夢見ないことにははじまらない?
憧れがなければ実現すらない 私はただのママだけど
私は本の著者でもあって 私の頭にある世界 は
彼らが生きていた世界。それをあまりに私は知ってて
マンレイだったりロベールドワノーだったりの展覧会に
行ってみる度嬉しくて あ!あの人たちだと思ってしまう。
私はそんな世界にいたい。
最近自分の本から影響を受けてくれた人たちが
その内容について書いてくれたものを読む度に
ああ こんなにも 彼らは正確に読んでくれ
こんなにも きちんとメッセージが伝わってるのに
そんな人たちに少なからず感動を与えることができたかもしれない私は
ただのニュータウンで子育てをしているママでしかなく
そんなのでいいのだろうかと本気で思った。
私は彼らに恥じない生き方をしてみたい。
「ごめんなさい 子育て中だから何も考えられません」なんて
もう言っていたくない。
私にだって 想いがあって
ものすごく想いがあるから 重い本が書けた訳 で
そんなの簡単なことじゃないのに 忘れてしまうわけにはいかない。
ボーヴォワールはこう言っていた。
「私はこの地上でひどく楽しげなおとなをひとりも知らない。
人生は楽しくない、人生は小説のようではない、と
みんな声を揃えて言うのだった。
おとなたちの単調な生活を私はいつも気の毒に思っていた。
それが近いうちに自分の宿命になるのだということに気がつくと、
私は不安に駆られた。
毎日、昼食と夕食、毎日皿洗い、
これらの時間は無限にくりかえされ、何処にも到達しない。
私もこのように生きていくのだろうか?
私は、生まれて以来、毎晩、前の日よりも少しずつ
豊かになって寝に就いた。私は自分を少しずつ高い
階段に引き上げて来た。
しかし、あの上の彼方につまらない単調な草原しか
見出せないのだとしたら、目的もなしに何に向かって
歩むのだろうか?
そんなことをしてもしょうがないではないか?
積み重ねられた皿の山を戸棚の中にしまいながら、
いや、ちがう、と私は自分に言った。
私の人生はどこかに到達するのだ。」
(cafeから時代は創られる p.88)
これを引用していたときには私はまだ
そこまでピンとこなかったけど
今の私には痛いほど 突き刺さるほどこの気持ちがよくわかる。
蓮太郎がNOというなら 私だってNOといいたい。
嫌なことは嫌だといいたい。
何のために生まれてきたのか?
どこへ向かって進んでゆくのか?
単調な毎日をあと40年間ひたすら繰り返すだけなのか?
「ご婦人の手芸」を趣味にしてればそれでいいのか?
私だってNOといいたい。
少なくともこの本を書いた誰かは
そんな人ではなかったはずで
読んだ人ならわかるだろう。
マンレイはパリに憧れ パリに戻った
ヘミングウェイもパリに憧れ パリを描いた
私も何処かに到達したい
何のため に たくさんのものに触れてきたのか
この先に意味があるのなら
私も何処かに到達したい。