ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録(9)掲載のお知らせ

2012年12月19日 13時35分07秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、いよいよ残り2回となりました。


 第8回のきょうは、6年前の6月から6回シリーズでお送りした「親の気持ち・親の疑問」シリーズの第5回『私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう』を転載します。

 おとなのひきこもりは、その行く末を見通すことがなかなかできず、いつ終わるとも知れない困難な道のりです。それだけに、相談や親の会などの場で必ず出てくるのがこの言葉。
 それに対して筆者は、最初に「それまでの4回で取り上げた言葉には意見を返していた私も、これを言われると何を言っても気休めにしか聞こえないだろうという忸怩(じくじ)たる思いがあります」などという“おことわり”から語り始めます。

 まず「親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容」を挙げ、それらはすべて社会が取り組むべきことであることを明らかにします。

 次いで「そうは言っても」という親御さんの気持ちを考えたうえで、それに対する自分なりの答え(法則)を提示します。

 この「法則」は、読んだ親御さんや講座などで筆者から聴いた親御さんのなかから「感動した」というご感想が複数寄せられるなど、反響の大きかったくだりでしたが、
文中「いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で」と筆者もことわって書いているように、ある意味では“問題作”とも呼べる1本でありましょう。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。

 このシリーズは、面接相談や親の会などの場で、わが子の不登校やひきこもりに直面した親御さんと話していて、印象的な言葉に考えさせられたり、親御さんの多くがおっしゃる言葉があることに気づいたりしてきた筆者が、そのような言葉のいくつかを取り上げ、それらに対する意見をお伝えするもので、10月24日本欄『子育てが間違っていました』に続く2度目の転載になります。


 では、このあと掲載します。
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コラム再録(8)『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔上〕心は不死鳥』

2012年12月05日 16時50分37秒 | メルマガ再録
 今号から3回にわたり、不登校とひきこもりが“終わる”瞬間を描きながら、その意味や「終わらせ方はあるのか」というあたりについて、私の意見を述べてみます。

 これまでお話ししてきたように、私はかつて、不登校もひきこもりもやっています。ということは、両方を終わらせてきているわけです。そこでまずは、これまでのコラムからその部分を抜粋しながら、私の“終わり方”をおさらいしてみましょう。


                 ●


※不登校の“終わり方”
(高校入学半年後から不登校になり、すでに3回留年していた高校4年目)

 この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が“クルッ”と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私はもがくのをやめた。(7号)

 「学校とは関係なく、このままでは自分がだめになる」という危機感に心が揺さぶられた次の瞬間「この学校を卒業するなんてことは、人生の目標としては小さすぎる」という、今にしてみればごくあたりまえの考えがひらめき、続いて「退学しても、精神的に成長しながら元気で生きていこう!」と、希望に満ちた気持ちで決心がついたのでした。

 すると、目の前がパーッと開けたような明るさと、からだの中からこんこんと湧き出るエネルギーが感じられたのです。心が澄み切っていて、何とも言えない、神秘的な境地でした。(5号)


※ひきこもりの“終わり方”
(大学卒業1年後からひきこもりになり、その数年後)

 ひきこもりに終止符を打つべく就職を模索したのに、すでに手遅れだったという思いが、自分が存在価値のない人間だという絶望感に、私を突き落としました。
 それはまさに「万策尽き果てた」という感覚でした。(22号)

 「死」が身近に感じられるほどだった。(64号)

 そんなある日、私の頭に、こんな考えが浮かぶようになりました。
 「自分はもうどうなっても構わない。ホームレスになろうと、人知れず死のうと、みんなが自分のことを忘れようと、何とも思わない。野性動物は、誰に知られて死ぬわけでもなければ、死んでからも誰かに覚えられてはいない。自分も野性動物のように、自然のままに生き自然のままに死ねればそれでいい。」
 何日間かそんなことを考えているうち、絶望の苦しみがだんだん軽くなっていくのが感じられるようになりました。(22号)


                 ●


 このように、私の場合、不登校のときもひきこもりのときも、その終わり方は「どん底まで落ちてから」「生きる希望を失うくらいの境地にいたってから」「突然人生観が変わって楽になった」といった共通点があります。

 ここまでお読みいただいて「これは<底つき>だな」と思った方もいらっしゃると思います。たとえば、アルコール依存症の人が、家族に逃げられ、自己破産し、肝臓を病み、といった、絶望的な状態に落ち込むことを<底つき>と言います。これは、依存症が終わるきっかけになるプロセスですが、私の不登校とひきこもりが終わるプロセスも、確かにそれと似ています。

 そのあたりについては以前64号でお話ししましたので、そちらをご参照いただくとして、ここでは「そこまで落ちてから、あっと言う間に人生観が変わって楽になり、元気になる、ということが本当にあるのか」について話します。

 神話に出てくる「フェニックス」という鳥の名前をご存じかと思います。500年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、炎のなかに飛び込んで灰になる。そして、灰のなかから幼鳥としてよみがえる、というやつですね。

 つまり、死んでも死んでも生まれ変わる「不死鳥」なわけです。
 人の心も、同じだと思うのです。「心が死ぬ」「心が生まれ変わる」というのはわかりにくい表現かもしれません。でも、ほんとうにそうとしか表現できないのです。

 「もうだめだ」「もう生きていけない」という“絶望の炎”に心が焼き尽くされたとき、その灰が再び新しい心になってよみがえるのです。
 たとえば私の場合は、不登校とひきこもりの最後に「今の人生が破綻した」という絶望感に打ちひしがれたわけですが、この出来事は、象徴的に「それまでの自分が死んだ」と表現できるものです(こう表現して初めて「君の不登校が終わった理由が理解できた」とおっしゃった方がいます)。

 そして、生まれ変わった新しい自分は、大空に飛び立つ鳥のように、若々しいエネルギーに満ちあふれ、イキイキと生きるようになるわけです。


2005.02.16 [No.95]


このシリーズのあと2回を読む(次の〔中〕が出ます)
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コラム再録(8)掲載のお知らせ

2012年12月05日 14時33分17秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。

 先週は秋季休業中のためお休みさせていただいたうえ、きょうは約3時間遅くなりまして申し訳ありません。

 さて、2週ぶり8回目の転載コラムは「不登校・ひきこもりの“終わり”へ」という3回シリーズの1回目『心は不死鳥』です。

 不登校やひきこもりの青少年のなかには、支援を拒み続けていたり、自分で何とかしようともがいていたりした末に「もうダメだ・・・」と絶望のどん底に落ちてから、生まれ変わったように動き出した人が少数ながらいます。

 ここでは、不登校のときもひきこもりのときもそういうプロセスを経てきた筆者が、自分の体験について過去の記述を引用しながら「その瞬間に何が起こったのか」を描き出したうえで「そういうプロセスがどんな意味を持っているのか」を語っています。

 筆者は“底つき”というキーワードを用いて説明しているのですが、読者の方や筆者の体験談を聴いた方のなかには、この筆者の不登校とひきこもりの終結のプロセスが印象に残った方が少なくないようで、15日の記念懇談会でお話しくださる勝山実氏など筆者の周囲の方の間では「不登校・ひきこもりで“底つき” と言えば丸山」というイメージが持たれているようです。

 なお、このコラムは前述のとおり3回シリーズですので、続けてあとの2回もお読みいただくことにより、筆者が「“底つき”で終わるプロセスが一番だと考えているわけではない」ということをご理解いただければ幸いです。

 それではお待たせしました。このあと転載します。
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コラム再録(7)『適応力より自律力』

2012年11月21日 14時17分43秒 | メルマガ再録
 不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていると、学校や社会に出られなくても、塾やお稽古事の教室、単発のボランティアなどに出かけることや、友だちと遊ぶことができる――本来適応すべきとされている以外の場なら参加できる――不登校児やひきこもり青年が少なくない、という印象を受けます。

 言い換えれば「自分で選んだ場に参加している」というわけです。

 そういう本人に対して、親御さんをはじめ周囲の人々は「そういう力があるのに学校・社会に適応できないのは、逃げているから」とか「そういうことしかできない(自分の好きな場にしか参加できない)わがままな連中」などと、彼らのことを評価します。

 彼らは、自分で選んだ場に参加しているのに、なぜ学校・社会に適応できないのでしょうか。

 私が不登校だった高校2年目(2回目の1年生)の夏休みのことです。
父の知り合いから「自分の兄夫婦が子どもキャンプをやるので、ボランティアで手伝わないか」という誘いを受けました。
 前半の3日間は、奥様が主催する「子ども会」のキャンプ、後半の4日間は、旦那様が自営している子ども支援団体主催のキャンプ、ということでした。

 学校には時々行くが、それ以外には外出できない私も「夏休みなら大丈夫だし、面白そうだ」と思って参加することにしました。

 どちらのキャンプも、中学生から大学生までのボランティア数人が、参加した小学生をサポートする、というシステムです。私は、かわいい子どもたちと共に過ごした楽しい時間が素晴らしい思い出になっただけでなく、ほかのボランティアと同等に扱われ、与えられた役割を果たしたことで自信がつきました。
 そのため私は「夏休み明けの2学期からは学校に完全復帰できるぞ」と確信しました。

 ところが、夏休みが終わって2学期が始まっても、私は夏休み前と同じように、時々登校することしかできませんでした。

 夏休み中にキャンプでのボランティア活動ができたことは、学校への完全復帰とは関係なかったのです。

 そこで、学校や社会に適応することと、自分で選んだ場に参加することの違いを考えてみましょう。

 学校や社会は、社会通念上誰もが適応するのが当たり前という「標準」として存在している世界です。
 ですから、そこに適応するのは人として必須のことだと誰もが信じています。

 それに対し、塾やお稽古事の教室、あるいはボランティア活動や友だちとの遊び、という場は、誰もが適応するのが当たり前の世界ではありません。

 ですから、やることは個人個人がそのなかから必要に応じて選べばよく、友だちも気の合う人を選べばよいわけです。そして、選んだ場や友だちとの関係に適応すれば足りるわけです。

 このように見ると、前者は他律的な場で、後者は自律的な場、ということになります。
 つまり両者は、かなり違う性質を持った世界です。ということは、前者に適応するのと後者に適応するのとでは、使う力が違うのです。

 前者に適応するために使う力は、好むと好まざるとに関わらず、一律に適応しなければならない世界で使う力ですから、そのまま「適応力」と名づけましょう。
 この適応力は、おもに「社会→(学校→)親→自分」という経路で与えられるものです。

 後者に適応するために使う力は、自分で判断する力ですから「自律力」と名づけましょう。
 この自律力は、主に自分のなかから生まれるものです。

 「不登校児やひきこもり青年は力がない」とよく言われますが、その場合は「適応力」だけを指しています。しかし今お話ししたように、人の力には2種類あるのです。そして、自分で選んだ場に参加する不登校児やひきこもり青年には「自律力」だけは備わっている、と言えるわけです。

 一般に「支援」と言うときには、適応力をつけることを指していますが、それでは宝の持ち腐れです。

 逆に、自律力を活かすことを念頭に支援していけば、本人は学校や社会に「支援のおかげで適応できた」ということではなく「自分の力で参加できた」ということになります。 そういうプロセスを歩むことができれば、自分の人生への深い納得と、自己肯定感と生きる喜びを得られます。そしてそれこそ、生きる力の源泉なのです。

 「学校や社会では自分の思いどおりにはならない。適応力がついていなければ、自律力だけで参加できても、周囲とうまくいかなかったときに折り合いをつけることができずに挫折して、不登校・ひきこもりに逆戻りするのが関の山だ」
 などという反論が返ってくるかと思います。

 ふたつの力は両立しないのでしょうか。次回考えましょう。


続けて次の号を読む
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コラム再録(7)掲載のお知らせ

2012年11月21日 13時54分49秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第7回のきょうは、5年前の8月配信号に掲載した『適応力より自律力』を転載します。

 筆者が不登校だった高校2年目の夏休み中「一般の小学生を対象にした子どもキャンプでボランティアをして自信をつけたのに、学校への完全復帰ができなかった」という体験から「学校や社会に適応することと自分で選んだ場に参加することの違い」を考察し、前者を「適応力を使うこと」と、後者を「自律力を使うこと」と論じた文章です。

 このふたつのキーワードは、次の号に掲載した『イチロー選手に学ぶ自律と適応』で提示した「適応力は、自律力のあとに自然についてくる」という主張とあわせて読者の注目を集めたようで「この考え方を自分の生き方の参考にした」と述懐する当事者の方もおられました。

 不登校やひきこもりの青少年に適応力さえ身につけさせれば、本人が満足できる解決につながるのかどうかを、このあと掲載する文章とその末尾にリンクする次の号を続けてお読みのうえお考えいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、このあと掲載します。


【おことわり】
 前記「次の号」は、通常使用しているサイトに不具合が発生していてアクセスできないため、違うサイトにリンクさせています。通常使用しているサイトにアクセスできるようになりましたらリンク先を戻します。ご了承ください。
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コラム再録(6)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔下〕寄り添い続けるということ』

2012年11月14日 13時47分13秒 | メルマガ再録
 前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年が「強いこだわり(自分のこだわり=“荷物”と世間の常識=“よろい”)」をなかなか捨てられない理由と、捨てさせるための対応の変遷について述べました。

 そして“荷物”を捨てさせるより“よろい”を脱がせるほうが、理解のある対応だと指摘しました。

 ところが、ここで考えるべきことがあります。それは、本人のことではなく周囲の人たちの問題です。


++++++++++

 そのため、本人に早く“よろい”を脱いでほしいと願っている親御さんや関係者たちは「“よろい”を脱ぐことを勧める対応は適切である」という確信と、にもかかわらずその対応を受け入れない本人に対する「なぜだろう」「歯がゆい」といった気持ちを、抱きがちです。
 しかし、周囲の人々のこのような気持ちは“よろい”をなかなか脱ぐことができないでいる本人の気持ちに合っているでしょうか?(81号)

++++++++++


 よく考えてみると「“よろい”を脱がせる」は「“荷物”を捨てさせる」と同様「○○させる」という強制的なニュアンスを含んでいます。
 つまり、どちらの対応も「べき」論(“荷物”を捨てるべき、“よろい”を脱ぐき)、すなわち「正論」にもとづいて行われるわけです。

 周囲の側は「“荷物”を捨てる」「“よろい”を脱ぐ」という望ましい結果、つまりめざすべき地点から逆算して、本人を見ているわけです。
 そのため、本人が“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできないと、周囲は「なぜできない?」と不思議に思ってしまいます。

 周囲のこのような反応は、本人にとっては、自分の現状を否定する、共感のないただの「命令」「押しつけ」にしか感じられないものです。
 これでは、いくら「“荷物”を捨てさせる対応」から「“よろい”を脱がせる対応」に変わっても、本人は「自分のことを理解してくれた」とは思えないわけです。

 近年、不登校やひきこもりの経験者による体験発表や手記などが増えています(このメルマガも一部そういう要素が含まれています)。経験者は、自分がいかにして“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできたかを語ることが少なくありません。なかには<あとに続く後輩(=現在不登校やひきこもりでいる人)>に“荷物”や“よろい”を捨てるこ
とを勧める人もいるでしょう。

 「“先人の教え”の押しつけがましさ」という感覚を経験した覚えのある方がいらっしゃると思います。
 現在不登校やひきこもりでいる人のなかに<先輩>の体験談を、聞いたり読んだりすることを苦痛に感じる人がいるのは、この「押しつけがましさ」を感じるからだと思います。

 つまり、彼らにとって<先輩>の体験談は、今述べている「“荷物”を捨てるべき」「“よろい”を脱ぐべき」という、自分の現状を否定するニュアンスを感じてしまうからだと考えられるわけです。

 それでは、このような複雑な感情を抱いて生きている本人に対して、周囲はどのように対応すればよいのでしょうか。

 まず“荷物”を捨てさせる対応です。論考では、イソップ童話『北風と太陽』を引用しながら述べました。

 ご存知のとおり、これは、北風と太陽が、どちらが早く旅人のマントを脱がせることができるか勝負し、北風が旅人のマントを吹き飛ばそうとしたが、旅人がマントをしっかり押さえて離さなかった。しかし太陽が旅人の体を暖めていくうち、旅人は暑くなってマントを脱いだ--という話です。

 私はこの話を、北風は旅人のマントにねらいを定めたのに対し、太陽は旅人の体とその周辺の空気にねらいを定めた--旅人がマントを必要としない環境を創り出した--と解釈しました。
 それを本人への対応に当てはめると、こうなります。

 “荷物”を捨てられない本人に対して、周囲が“荷物”を捨てさせようとすると、本人は“荷物”を奪われまいとして、ますます“荷物”をしっかり握って、離そうとしなくなります。逆に本人がひっかかっていることを否定せず、むしろその解決を手伝って“荷物”を軽くしたり、“荷物”以外の面に関心を移す、といったことで“荷物”を必要としなくなる環境を創り出せば、本人は“荷物”が気にならなくなるわけです。

 次は“よろい”を脱がせる対応です。論考では「本人の望むとおりにさせること」という、根本的で少々過激な方法を提案しました。

 前々号で述べたように、彼らは、内申点の関係で普通高校に進学することが不可能なのに、フリースクールを選択肢に加えることを拒否したり、ボランティアやアルバイトをせず、最初から正社員として就職することをめざしたりします。

 そのような「“普通の人生”“常識的なプロセス”をあきらめきれない」という本人の「今の思い」を、否定せずに支持し、思いに沿った行動に協力する意思を伝えることです。
 もちろん本人の状態からして、行動に移せずじまいに終わったり、行動しても失敗したりする可能性が高いでしょう。

 でもそのときこそ、そういう自分の現実を受け入れ“よろい”を脱がなければならない本人の苦しみを支えるという「対応」が始まるのです。
 「無条件の肯定」です。寄り添い続けるのです。


2005.11.02 [No.111]


文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)
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コラム再録(6)掲載のお知らせ

2012年11月14日 13時23分11秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第6回のきょうは、8年前に“「荷物」と「よろい」シリーズ”ともいうべき7回にわたって執筆した文章を、翌年に3回完結に再構成し一部加筆した連載「本人の変わりにくさにどう寄り添うか」の最終回を転載します。

 先週転載した第2回の最後に書かれている「本人に“荷物”を捨てさせる(=自分のこだわりを捨てさせる)ことより“よろい”を脱がせる(=世間の常識を捨てさせる)ことのほうが理解ある対応だが、ここで考えなければならないことがある」という点について詳しく論じたうえ、どういう考え方で対応すれば本人が“荷物”を捨てやすく、また“よろい”を脱ぎやすくなるか、について有名な童話を引用するなどして提唱して3回のまとめとしています。

 先々週からの3回分をすべてお読みいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、このあと掲載します。
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コラム再録(5)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔中〕“荷物”と“よろい”を捨てられないわけ』

2012年11月08日 14時20分52秒 | メルマガ再録
 前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年によく見られる「強いこだわり」には、文字どおりの「こだわり」と、社会から与えられ取り込んだ「世間の常識」の、ふたつの種類があることをお話しました。

 そして「こだわり」を“荷物”に「世間の常識」を“よろい”に、それぞれたとえ“よろい”を脱ぐことも“荷物”を捨てることもなかなかできないことにふれました。
 今回は、その理由を考えてみます。

 第一に「自尊心」です。論考で、私はこう述べました。


++++++++++

 人は「今」を生きています。たとえその生き方に誤りや無理がありそのために自分がどんなに苦しくても、自分の人生を真剣に生きていることには違いない、ということは、誰にも譲れない一線なのです。
 このようなプライド(自尊心)は、人が生きていくためには必要不可欠なものだと思います。(82号)

++++++++++


 第二に、これは論考には書かなかったことですが「価値観・美学」です。彼らは「自分はこういう人間であるはずだ」という“信じたい自己像”と「自分はこういう人生を送りたい」という“望む生き方”と「人間はこうあるべきだ」という“倫理観”を持っています。

 にもかかわらず「学校に行けない」「社会に出られない」といった自分の現状は、まさに自分自身の価値観・美学に背くものであり、屈辱的なものです。そのため、価値観・美学(これじたいが“荷物”でもあるわけですが)を捨てるのではなく。価値観・美学に自分を合わせることを、彼はひたすらめざしているのです。

 第三に、執着心を捨てられない状況です。これは、論考でお話ししたように“荷物”について特に言えることです。つまり、親との関係など、独自のコミュニケーションがあり、かつ表面化しにくく、周囲の理解も得られにくい“荷物”を抱えていると、お互いに意地を張ってしまったりしていて「ああでもないこうでもない」と堂々めぐりする悪循環から、抜け出すことが難しいわけです。

 最後に、そもそも“荷物”や“よろい”を捨てることが、彼らにとってどういうことなのか、ということです。
 これは、論考でお話ししたように“よろい”について特に言えることです。論考で私は、こう書きました。


++++++++++

 今の自分の生き方は、自分が育ってくるなかで身につけてきた生き方です。これを否定すれば、自分のそれまでの十何年、二十何年の人生が否定されるように感じるのは、当然のことだと思うのです。
 「“よろい”を脱ぐ」ということは「今までの生き方を否定する」という、辛いプロセスを通過しないと、できないことなのです。
 彼らにとって「“よろい”を着ている自分」と「“よろい”を着ていない自分」は、別人だからです。
 たとえて言うと、彼らにとって「“よろい”を脱ぐ」ことは「生まれ変わる」ことと同じなのです(この「生まれ変わる」ということについては、35号のコラム『生まれ変わるための闘い』をご参照ください)。(82号)

++++++++++


 以上のように見ると、不登校児やひきこもり青年は「ころんでもただでは起きない」人たちであることがうかがえます。“荷物”や“よろい”を捨てることがそう簡単ではないことが、想像できると思います。

 それでは、そんな彼らが“荷物”や“よろい”を捨てることができるようになるためには、どうすればよいのでしょうか。

 前号でもふれたように、通常「こだわりを捨てる」とは「“荷物”を捨てる」ことだと考えられがちです。そのため、周囲は常に「本人が病的なこだわりを捨てればいい」とだけ考え、それを本人に要求する、という対応が一般的です。


++++++++++

 そうすると、本人と周囲とのコミュニケーションが“荷物”のことに集中します。そのため、本人は“荷物”への関心がかえって強まり捨てることがますます難しくなってしまいます。(78号)

++++++++++


 このような状況に対して「“よろい”を脱ぐ」ことのほうが重要だ、という考え方が、この20年くらいの間に徐々に広まってきました。「おかしいのは本人より社会のほうである」という視点が台頭してきたのです。
 この視点は、本人への対応に画期的な変化をもたらしました。つまりこういうことです。


++++++++++

 “荷物”を捨てることは、周囲の人々はそのままで、本人だけにやらせればいいことです。それに対し“よろい”を脱ぐことは、まず周囲の人々がやらない限り、本人にやらせることは困難です。
 周囲の人々が、世間の常識を持ったまま、本人に「常識を捨てろ」と言っても、説得力はゼロだからです。
 その結果、周囲の人々は、本人への対立的意識がなくなるだけでなく「世間の常識に縛られて生きてきた者どおし」としての共感・連帯感が生まれます。そして「本人を世間の常識に従わせる」のではなく
 「本人が自分の意思に従って生きることを応援する」というスタンスになるわけです。(81号)

++++++++++


 このように“荷物”を捨てさせることより“よろい”を脱がせることのほうが、理解ある対応だと言えます。しかし、ここで考えなければならないことがあるのです。それは次回に。

2005.10.19 [No.110]


文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)
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コラム再録(5)掲載のお知らせ

2012年11月08日 14時07分38秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第5回は、事情により1日遅れとなりましたが、8年前に“「荷物」と「よろい」シリーズ”ともいうべき7回にわたって執筆した文章を、翌年に3回完結に再構成し一部加筆した連載「本人の変わりにくさにどう寄り添うか」の第2回を転載します。

 先週転載した第1回に述べられていたことをもとに「本人が“よろい”を脱ぐ(=世間の常識を捨てる)ことや“荷物”を捨てる(=自分のこだわりを捨てる)こと」が難しい理由を挙げたうえ、それらに対する周囲の対応の傾向について概観しています。

 先週転載した第1回のほうとあわせてお読みいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、1日と1時間くらい遅くなりましたがこのあと掲載します。
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コラム再録(4)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔上〕“荷物”と“よろい”』

2012年10月31日 14時52分18秒 | メルマガ再録
 去年の春から夏にかけて、本欄では7回にわたり“荷物”(=自分のこだわり)と“よろい”(=世間の常識)という、ふたつをキーワードにして「本人が“よろい”を脱ぐ(=世間の常識を捨てる)ことや“荷物”を捨てる(=自分のこだわりを捨てる)ことの難しさと、それらを容易にする対応」について考えました。

 この論考は周囲の支援関係者の方々に好評をいただき、所属する学習会やミニ講演会など数ヶ所でテーマとして依頼を受け、内容を再構成してレジュメを作成し、それをもとにお話させていただきました。
 そこで今回から、その話の内容を3回に分けてお伝えします。

 なお、この論考をお読みでない方は、去年6月2日配信の78号から84号までの本欄を、あわせてお読みいただくと理解しやすいかと思います。


         〔上〕“荷物”と“よろい”

 不登校児やひきこもり青年の心理として、よく挙げられるのが「こだわりが強い」という点です。そのため「不登校児やひきこもり青年は、こだわりがなかなかとれないから変わるのに時間がかかる。だから不登校やひきこもりは長引くことが多いのだ」と言われています。

 ただ、ひと口に「こだわり」と言っても、それにはふたつの種類があることを理解して対応すべきであると、私は考えています。

 ひとつは、文字どおりの「こだわり」、すなわち自分のなかから生まれているこだわりです。
 たとえば「健康にいいことなら何でもやる」とか「ブランド物は○○しか買わない」などというものです。私はこれを“荷物”にたとえたいと思います。

 もうひとつは「世間の常識」、すなわち社会から取り込んだ、あるいは社会から与えられたこだわりです。
 たとえば「子どもは学校に通うのが当然」「中学を卒業したら正規の高校に入るのが一般的」「おとなは働くのが当然」「正規に就職して一人前」というものです。私はこれを“よろい”にたとえたいと思います。

 もちろん、どちらも社会や時代の影響抜きにはありえない価値観なのですが、前者は人それぞれの個人的な信念であるのに対し、後者は社会通念として、大多数の現代人の間で共有されている信念である、というところが大きく違います。

 さて、このふたつのこだわりは、多かれ少なかれ誰でも持っているものです。ところが、ひとたび学校へ行けなくなったり社会に出られなくなったりすると、両方強くなって本人を苦しめるようになります。

 前者の「こだわり」が強くなると「親との関係」「学校でいじめられた体験」「職場での失敗体験」などといった、マイナスの記憶や経緯に執着するようになります。過去の出来事や解決不可能な問題をあきらめることができず、どうすればよかったかを繰り返し追求し続けます。
 私はこれを「重い“荷物”を背負っている」と表現しています。

 後者の「世間の常識」が強くなると、前述したような「普通の人生」「常識的なプロセス」に執着するようになります。内申点の関係で普通高校に進学することが不可能なのに、フリースクールを選択肢に加えることを拒否したり、ボランティアやアルバイトをせず、最初から正社員として就職することをめざしていたりします。
 私はこれを「重い“よろい”を着ている」と表現しています。

 現実の生活のなかでだって、重いよろいを着たまま重い荷物を背負っていては、とても動ける、あるいは動き続けられる状態ではないのと同じで、不登校児やひきこもり者は、心理的にそのような状態になった結果、苦しくなり、動けなくなっているわけです。


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 「登校するのが(働くのが)普通なのにそうできない」という気持ちと「ひっかかっていることへのこだわりを捨てることができない」という気持ちを両方もっていては、平穏で元気な生活を送ることは、とてもできないでしょう。(78号)

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 では、このような心理状態を変えること、つまり苦しみが軽くなって動き出せるようになるためには、本人はどうすればよいのでしょうか。
 私は論考のなかで、次のように述べました。


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 結論からいいますと“よろい”(=世間の常識)と“荷物”(=こだわり)の、どちらかを捨てることです。
 そこで「今の自分は、登校できない(働けない)時期なんだ」と、現在のありのままの自分を受け入れるか「今ひっかかっていることをそのままにする」とあきらめるのかの、どちらかを選択することです。
 しかし現実には、周囲は“よろい”を脱ぐことは認めず“荷物”を捨てることだけを要求するものです。(78号)

 常識的に考えると「背負っている“荷物”を捨てればいい」ということで片づいてしまいます。というか、大多数の人々は“荷物”を見つけても拾わず、背負った“荷物”が重ければ捨てているわけです。
 それが“生きる知恵”でもあることは確かでしょう。
 しかし“荷物”を捨てられるかどうかは、本人の性格だけでなく、そのときどきの状況や人間関係など、本人以外の要素も関係します。したがって、本人以外の要素が取り除かれるようサポートしないまま、一方的に「捨てろ」とだけ説得しても、本人は捨てられないことが多いと思います。(78号)

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 次号では“荷物”と“よろい”を捨てることができない本人の心理に迫ります。


2005.10.05 [No.109]


78号から84号までの論考をあわせて読む(78号が出ます)
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