ヒュースタ日誌

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コラム再録(6)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔下〕寄り添い続けるということ』

2012年11月14日 13時47分13秒 | メルマガ再録
 前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年が「強いこだわり(自分のこだわり=“荷物”と世間の常識=“よろい”)」をなかなか捨てられない理由と、捨てさせるための対応の変遷について述べました。

 そして“荷物”を捨てさせるより“よろい”を脱がせるほうが、理解のある対応だと指摘しました。

 ところが、ここで考えるべきことがあります。それは、本人のことではなく周囲の人たちの問題です。


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 そのため、本人に早く“よろい”を脱いでほしいと願っている親御さんや関係者たちは「“よろい”を脱ぐことを勧める対応は適切である」という確信と、にもかかわらずその対応を受け入れない本人に対する「なぜだろう」「歯がゆい」といった気持ちを、抱きがちです。
 しかし、周囲の人々のこのような気持ちは“よろい”をなかなか脱ぐことができないでいる本人の気持ちに合っているでしょうか?(81号)

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 よく考えてみると「“よろい”を脱がせる」は「“荷物”を捨てさせる」と同様「○○させる」という強制的なニュアンスを含んでいます。
 つまり、どちらの対応も「べき」論(“荷物”を捨てるべき、“よろい”を脱ぐき)、すなわち「正論」にもとづいて行われるわけです。

 周囲の側は「“荷物”を捨てる」「“よろい”を脱ぐ」という望ましい結果、つまりめざすべき地点から逆算して、本人を見ているわけです。
 そのため、本人が“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできないと、周囲は「なぜできない?」と不思議に思ってしまいます。

 周囲のこのような反応は、本人にとっては、自分の現状を否定する、共感のないただの「命令」「押しつけ」にしか感じられないものです。
 これでは、いくら「“荷物”を捨てさせる対応」から「“よろい”を脱がせる対応」に変わっても、本人は「自分のことを理解してくれた」とは思えないわけです。

 近年、不登校やひきこもりの経験者による体験発表や手記などが増えています(このメルマガも一部そういう要素が含まれています)。経験者は、自分がいかにして“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできたかを語ることが少なくありません。なかには<あとに続く後輩(=現在不登校やひきこもりでいる人)>に“荷物”や“よろい”を捨てるこ
とを勧める人もいるでしょう。

 「“先人の教え”の押しつけがましさ」という感覚を経験した覚えのある方がいらっしゃると思います。
 現在不登校やひきこもりでいる人のなかに<先輩>の体験談を、聞いたり読んだりすることを苦痛に感じる人がいるのは、この「押しつけがましさ」を感じるからだと思います。

 つまり、彼らにとって<先輩>の体験談は、今述べている「“荷物”を捨てるべき」「“よろい”を脱ぐべき」という、自分の現状を否定するニュアンスを感じてしまうからだと考えられるわけです。

 それでは、このような複雑な感情を抱いて生きている本人に対して、周囲はどのように対応すればよいのでしょうか。

 まず“荷物”を捨てさせる対応です。論考では、イソップ童話『北風と太陽』を引用しながら述べました。

 ご存知のとおり、これは、北風と太陽が、どちらが早く旅人のマントを脱がせることができるか勝負し、北風が旅人のマントを吹き飛ばそうとしたが、旅人がマントをしっかり押さえて離さなかった。しかし太陽が旅人の体を暖めていくうち、旅人は暑くなってマントを脱いだ--という話です。

 私はこの話を、北風は旅人のマントにねらいを定めたのに対し、太陽は旅人の体とその周辺の空気にねらいを定めた--旅人がマントを必要としない環境を創り出した--と解釈しました。
 それを本人への対応に当てはめると、こうなります。

 “荷物”を捨てられない本人に対して、周囲が“荷物”を捨てさせようとすると、本人は“荷物”を奪われまいとして、ますます“荷物”をしっかり握って、離そうとしなくなります。逆に本人がひっかかっていることを否定せず、むしろその解決を手伝って“荷物”を軽くしたり、“荷物”以外の面に関心を移す、といったことで“荷物”を必要としなくなる環境を創り出せば、本人は“荷物”が気にならなくなるわけです。

 次は“よろい”を脱がせる対応です。論考では「本人の望むとおりにさせること」という、根本的で少々過激な方法を提案しました。

 前々号で述べたように、彼らは、内申点の関係で普通高校に進学することが不可能なのに、フリースクールを選択肢に加えることを拒否したり、ボランティアやアルバイトをせず、最初から正社員として就職することをめざしたりします。

 そのような「“普通の人生”“常識的なプロセス”をあきらめきれない」という本人の「今の思い」を、否定せずに支持し、思いに沿った行動に協力する意思を伝えることです。
 もちろん本人の状態からして、行動に移せずじまいに終わったり、行動しても失敗したりする可能性が高いでしょう。

 でもそのときこそ、そういう自分の現実を受け入れ“よろい”を脱がなければならない本人の苦しみを支えるという「対応」が始まるのです。
 「無条件の肯定」です。寄り添い続けるのです。


2005.11.02 [No.111]


文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)

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