ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

コラム再録延長(4)延期と変更のお知らせ

2013年03月13日 17時14分08秒 | メルマガ再録
 暖かいなか強い風が吹き荒れるきょうの神奈川県東部。まさに“春の嵐”という感じです。

 さて、きょうは「コラム再録延長(4)『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔下〕ハードランディングとソフトランディング』」を掲載する予定でしたが、事情により明日に延期するとともに、それを次回最終回に先送りし、明日は『角をためて牛を殺すな 〔上〕“お手伝い”することから』に変更させていただきます。ご了承ください。

 ところで「第19回青少年支援セミナー」の開幕まであと10日。まだ日がありますので、2日目のパネラーの生きざまや将来像が一覧になった比較対照表を掲載した案内書をお持ちでない方はご請求いただき、また代表のツイート(ツイートを記録している「ツイログ」が読みやすいです)もご覧いただきながら、趣旨と内容をご理解のうえ参加をご検討いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

 では、1日遅れの「コラム再録延長(4)」をお楽しみに。


今月の業務カレンダーを確認する
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(3)『「受容」とはどういうことか』

2013年02月27日 11時51分59秒 | メルマガ再録
 当メルマガ8年目の最後の号になりました。

 この8年間、151本のコラムをたくさんの方がお読みくださり、それぞれ参考にしてくださっていると思います。そして、お立場により状況により、読み取り方もさまざまだと思います。

 前々号で私は「いつまで同じことを続けなければならないの?」という親御さんの言葉に対して、第一に「納得できる対応を見出すことが必要」と、第二に「どんなに適切な対応であっても、効果が出るまでにはタイムラグ(時間のずれ)がある」とお話ししました。

 なかでも第一の説明のなかで「まずはその指示の真意をさらに問い直すこと(誤解なさっている方もいらっしゃいます)」と提案しました。

 と申しますのも、親御さんが「いつまで同じことを続けなければならないの?」とおっしゃりたくなる理由のひとつに<受容><肯定>といった用語を誤解なさっているケースがあると感じるからです。

 たとえば、当メルマガやそれを活字化した「ワンポイントブックレット」の読者のなかに、対応に関する私の意見を「本人のしたいようにさせておく」とか「本人が気づくまで放っておく」などと読み取り「それに従ってわが子の荒れに耐えているが、そういう対応をいつまで続けなければならないのか?」とおっしゃった方がおられるのです。

 確かに、私は「不登校・ひきこもりの“終わらせ方”はない」「堂々巡りは本人にしかやめられない」などと「本人しだい」であることを強調してきましたし、111号では「無条件の肯定です。寄り添い続けるのです」と書いています。

 そのあたりを捉えて「本人に働きかけてはならない」「本人に何をされても止めてはならない」などと読み取ってしまわれている方がいらっしゃるのかもしれません。

 ほかにも、かつてインターネットのある掲示版で「<受容>という言葉を自分に言い聞かせて、わが子からの暴力や使い走りさせられることに耐えている、でもこのままでいいのかとも思う」という親御さんの書き込みを見たこともあります。

 <受容><肯定>などの言葉の難しさ、危うさを自戒させられる思いです。

 ちなみに、私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います。

 そこで、私が考えるこれらの言葉の意味をご説明します。

 もともと不登校・ひきこもりは、一般に「周囲の対応・支援によって直すべきもの」「一日も早く本人を学校/社会に復帰させられる即効的な対応・支援すべきもの」などと捉えられています。

 それに対して私は「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」と考えています。

 そのため、相談場面でも当メルマガでも「本人の気持ちを理解し、その意思を尊重しながら、本人にも周囲にも無理のない自然な対応を積み重ねる」という考え方とその方法を、繰り返し提案しているわけです。

 このような言説には、確かに<受容><肯定>などの言葉がよく似合います。
 ただし、重要なのはその中身です。すなわち「何を<受容>するか」「何を<肯定>するか」ということです。

 123号で述べた「青少年の心には二つの窓口がある」を、ここでの説明に適した表現に書き変えてみましょう。

 ――人の心には、相手の言動(発言と行動)を受け取る<行の窓口>と、相手の心情(愛情や気持ち)を受け取る<情の窓口>があり、<行の窓口>は「意識」に、<情の窓口>は「無意識」に通じている。

 ――そのため、相手の言動(発言と行動)は「意識」に届くからすぐ気づくが、相手の心情(愛情や気持ち)は「無意識」に届くからすぐには気づかない(「無意識」の部分は自分では気づきにくいから)。

 どうでしょうか。「本人を受容/肯定する」と聞いて、わが子の言動(発言と行動)を「受容/肯定する」と解釈なさってはいないでしょうか。

 本人が望んでいるのは「自分の言動(発言と行動)」ではなく、その奥底にある「自分の心情(愛情や気持ち)」を「受容/肯定する」ことなのではないでしょうか。

 たとえば、暴力や暴言、無茶な要求を受け入れ続けていて、それらがエスカレートしたり、いつまでたっても止まらなかったりしていないでしょうか。

 そのときの本人は「のれんに腕押し」の心境かもしれません。「親が反応しない」あるいは「親が心にもない反応を返している」と感じるからです。そういうもどかしさから、ますますいら立って「これでもか、これでもか」とエスカレートしたり際限なく続けたりするのではないでしょうか。

 つまり、本人がそのように感じるのは、親御さんが本人の言動に対して、ご自身に生じた感情を無理に抑えている結果、本人との「心情の交流の回路」が閉ざされているからではないか、と思われるのです。

 本人の暴力や暴言、無茶な要求は、本人の心情(焦りや自己否定感や理解してほしい気持ちなど)の表現なのです。だとすれば、それに対する親の心情が返ってきて初めて、本人は親と心情で交流している実感が得られ、徐々に感情がやわらいでいきます。そして本人が求めているのは、親の「わが子の心情を受容/肯定しようとする心情」なのです。


2010.9.8 [No.181]


「肯定」のほうについて書かれている号をあわせて読む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(3)掲載のお知らせ

2013年02月27日 11時32分58秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」の3回目です。


 きょう転載するのは『「受容」とはどういうことか』。親御さんによる不登校・ひきこもりへの対応でよく言われる「ありのままを受け入れる」ことを示すこの用語。しかしその意味を取り違えると、かえって親子ともども苦しむことになる、ということを親御さんの実際の言葉を引いて訴えています。

 この文は、メールマガジン配信サイト「melma!(メルマ)」の当メルマガ案内ページにあるコメント欄にも感想が載ったくらい、少なからぬ親御さんの心を動かしたようです。

 不登校・ひきこもりのわが子が荒れていることでお困りの親御さんはもちろんすべての親御さんに、わが子と接する際に心がけるべき点のひとつとして、ぜひ読んでおいていただきたい一文です。


 では、このあと掲載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(2)『「問題」でもなく「生き方」でもなく』

2013年01月23日 14時54分15秒 | メルマガ再録
 最近、不登校やひきこもりを「生き方」と表現する支援者が増えてきました。確かに、不登校やひきこもりを「問題」としか認識できないのは誤解ですが、だからといって「生き方」と言われても、何となく自分の実感と合いません。

 なぜなら「生き方」ということばには、不登校やひきこもりになることを、自らの意思で選んだようなニュアンスがあるからです。たぶんそういう不登校児やひきこもり者は、ひとりもいないでしょう。もし選んだとすれば、それは意思によるものではなく、無意識からの指令によるものだと表現するほうが適切です。

 これまでにも何回か出てきましたように、私自身は不登校を運命的なものだったと感じています。なぜなら、不登校が終わったあとの高校生活で、私が体験した思い出深い出会いや活動は、その前の不登校がなければありえないものばかりだったからです。つまり私の不登校は、さまざまな体験ができる時期を迎えるための準備期間、言い換えれば“天の配剤”だったわけです。

 しかし、こうした“運命論”だけでは、人生の出来事は表現しきれません。そこで私は、不登校やひきこもりを「生き方」ではなく「生きざま」と表現しています。自らの意思によらず、いじめなどで否応なしに選ばざるをえなかった道、あるいは、気がついたときには選んでしまっていた道が、登校でありひきこもりである、と私は考えるのです。そして、その道をひたすら歩いている、つまり不登校やひきこもりを生きている、それが彼らにとって生きているということであり、そのときにはわからないがいずれわかる何かに向かって、ひたすら歩いている。

 -「生きざま」とは、そういう意味です。


2003.4.9 [No.25]


バックナンバーを読んでみる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(2)掲載のお知らせ

2013年01月23日 14時25分17秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して本欄で実施していた「コラム再録」を3か月間延長のうえ、半分の頻度で実施する「コラム再録延長」が、今月からスタートしました。

 きょうの延長2本目は『「問題」でもなく「生き方」でもなく』。「不登校・ひきこもりとは何か」を考えるための出発点とも言える、大げさに言えば筆者なりの“定義”を提示した短文です。

 『ごかいの部屋』で筆者は、2002年10月の創刊から半年間、自身の体験記をつづっていました。それが終わって2003年度からは、自分の体験にとどまらず不登校・ひきこもりの多くに共通するであろう点を論述していくわけですが、この文章はその第1弾であり、以後現在にいたるまで貫かれている“不登校・ひきこもり像”の柱となったものです。

 ここに記されている「生きざま」という言葉は「<なるほど!>と膝を叩いた」(元当事者)、「一般の人にも当てはめることができる表現だと思った」(研究者)などと広く受け入れられています。

 不登校・ひきこもりへの見方が変わる方がおられるかもしれませんので、ぜひご一読のうえ、よろしければコメントをくださいますようお願いいたします。。

 では、遅くなりましたがこのあと掲載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(1)『芯付きラッキョウ風玉ねぎ』

2013年01月09日 12時34分58秒 | メルマガ再録
 おせち料理の新しい食材ではありません(あったら食べてみたいですが)。

 私は最近、人の心を食べ物にたとえると「芯付きラッキョウ風玉ねぎ」みたいなものだな、と思うようになりました。

 ご存知のとおり「ラッキョウ」は、皮が幾重にも重なっているが芯はない、という食べ物です。
 一方玉ねぎは、いちばん内側に皮になりきらない部分があり、これが芯と呼ばれます。

 要するに「芯付きラッキョウ風玉ねぎ」とは「皮はラッキョウのように幾重にも重なっていて、いちばん内側には芯がある玉ねぎ」のことです。

 さて「芯付きラッキョウ風玉ねぎ」を人の心にたとえますと、最も純粋で本能的な要素――「本音」「無意識からの欲求」――で形成されているものが「芯」です。これに、その人が育つなかで取り込んできた常識という要素――「建前」「規範意識」――で形成されている<皮>が、まわりを幾重にも包んでいます。

 一般的に不登校児やひきこもり青年の場合<芯>を形成しているのは「自分に合った生き方がしたい」「もっと自然に生きたい」「自分を創り直したい」などという欲求だと思われます。

 一方、登校しようとして失敗して「きょうもダメだった」と落胆したり、社会人と自分を比較して「自分はダメ人間だ」と考えたりするたびに<芯>のまわりに<皮>が形成され、外側に向かって重なっていきます。

 こうして「学校に行けない」「社会に出られない」という「規範に反している自分」という考え方感じ方を繰り返すにつれ<皮>が分厚くなり<芯>がどういう要素で形成されていたかが忘れられていくのです。

 多くの不登校児やひきこもり青年が身動きがとれないように見えるのは、彼らの心がこのような「玉ねぎ構造」になっている――常識に包み込まれて自分自身を見失っている――からです。

 このように考えると、彼らが楽になり動きやすくなるには、この「玉ねぎ」の<皮>をむいて<芯>が見える状態にする作業が必要だということになります。私が当メルマガで繰り返し提案している対応は、まさにそういう作業のことだと言えます。

 では「<皮>をむく」とはどういうことでしょうか。

 多くの不登校児やひきこもり青年の心=玉ねぎには、前述のように自己否定的な考え方感じ方で形成されている<皮>が幾重にも重なっています。そのため、この<皮>を一枚一枚むいていかないと<芯>にまで到達しません。

 この場合の「<皮>を一枚一枚むく」というのは、本人が考えていること感じていることに、ひとつひとつ対処していくことを指します。

 ただ、この「対処する」という対応は、多くの場合一筋縄ではいきません。169号でお話ししたように「そんなことはないよ」とか「こう考えたらいいじゃないか」などとまともに反論していては、本人は「自分の考えていること感じていることを否定された」としか受け取らないからです。

 そのため、ひとつひとつのテーマを細大漏らさず一緒に悩みながら考える、という対応が望ましいことになります。

 こう言うと「それはラッキョウの皮をむくようなものではないか」と反論されるでしょう。「ラッキョウの皮をむくように・・・」と言うのは、むなしいことをしている、答えの出ない問いを追求している、などという意味を持つ表現です。「ラッキョウには芯がないから、いくら皮をむいても何も出てこない」ということから来ています。

 確かに、本人は取り返しのつかないことにこだわっていたり、答えの出ない問いを繰り返していたりします。そのため、本人が親をつかまえて堂々巡りの話を延々と続けている場合が少なくありません。

 これは一見「ラッキョウの皮むき」そのものです。しかし、このような混迷の先に<芯>が見えてくるなら、これは「玉ねぎの皮むき」にほかならないのです。

 もちろん、これはご家族にとってはとても大変なことです。本人のこだわりが強いほど一緒に考える時間が長くかかりますし、本人の状態によっては考えているうちに荒れてしまう場合も少なくありません。

 玉ねぎの皮をむくときに目が痛くなって涙が出るのと同じように、本人の心=玉ねぎの<皮>をむくときも、実際に涙を流すこともあるくらい、本人にも家族にも大きな苦痛を強いる作業になります。
 そこで、そういう苦痛を軽減するため、ほんとうの玉ねぎの皮むきと同様工夫が必要になります。

 工夫と言っても、特別なことではありません。本人が荒れないコミュニケーションの仕方、体力的時間的に無理のない方法(「これ以上つき合えない」という一線など)、普段の家族生活の楽しみ方、家族以外の人からの協力の得方、等々を考え実行するだけです。これを不登校・ひきこもりに詳しい相談員などに相談しながらできればなお安心です。

 そういう工夫によって苦痛が軽減したら“心の皮むき”は順調に進み「納得したところで話を切り上げるようになった」「あれほど言い募っていたことを言わなくなった」などという変化が出てくるわけです。

 具体的な“<皮>のむき方”を含め、不登校児とひきこもり青年への対応について、今年も毎月考えていきたいと思います。


2010.1.13 [No.173]


文中で挙げられていた169号を読む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録延長(1)掲載のお知らせ

2013年01月09日 12時09分27秒 | メルマガ再録
 去年10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、無事全10回を終えました。

 この企画は多くの方にご注目いただいたようで、転載した日はいつもアクセス数が跳ね上がっていました。常にランク外だったアクセス数の順位が毎回ランクイン(おそらく3万位以内)していたほどです。
 
 そこで、この企画は3か月間延長し、通常号の配信日を除く毎月第2第4水曜日の正午を原則として実施することになりました。計5回です。引き続きコメント欄は無期限で開放しますので、ぜひご一読のうえよろしければコメントをくださいますようお願いいたします。


 さて、 きょうの延長1本目は、新年1発目にふさわしく、おせち料理にありそうな架空の食品をたとえに使って不登校・ひきこもりの心理とそれに対応する周囲の心がまえを説いた論考です。

 筆者の丸山の基本的考え方を示すものとして『ごかいの部屋』のご購読や当スタジオのご利用についての検討材料としてもお使いいただけます。

 では、このあと掲載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録(10)『願いと思いの葛藤ロード』

2012年12月26日 14時20分24秒 | メルマガ再録
 2010年度が始まりました。不登校状態からの進級進学や留年などで新しく出発した人、ひきこもり状態からアルバイトや仕事を始めた人、そのような目に見える進展がなかった人、・・・などそれぞれの春を迎えておられることでしょう。

 本人またはご家族からご相談を受けていて、本人が進級進学を果たしたケースのなかには、年明け前(今年なら去年、去年ならおととし)に「今の状態では難しい目標を設定している」と感じ、それがうまくいかなかったときの対応を想定して待機していたが、結局その必要がなかった、という場合があります。

 これは、前号でお話しした「無理しているから必ず挫折するとはかぎらない」という例に当てはまるケースだと言えます。

 もちろん、これで全面解決だと断定できるかどうかは誰にもわかりません。171号で使ったたとえで言えば「ホームランを打ったが試合はまだ続いている」といったところでしょうか。いずれにしろ、大きな一歩を踏み出した本人の決意と努力に拍手を送り、前途に幸あらんことを祈っています。

 ところで当メルマガは、今年度ひとつの節目を通過します。それは、次々号でコラムが150本目になることです(号数より少ないのは「情報版」というコラムのない号と、交互に配信していた時期があるため)。

 これだけの数の文章で、私はいろいろなことを書いてきましたが、そのすべてを貫いている論旨は「不登校児やひきこもり青年への対応は、本人の願いや思いを前提に判断され実行されるべきである」ということに集約できます。

 逆に言えば、対応は周囲の願い――多くは「学校/社会への復帰」――を前提に判断され実行されるべきではない、ということです。

 そのため私は「本人はこんなことを思い、あんなことを願っていますから、それに沿ってこういう対応をしてください」と提案することになります。

 こう申し上げると、新しい読者の方には「“学校/社会に復帰しなくてもいい”と無責任に煽るメルマガなのか?」と誤解されそうですが、そうではありません。

 と申しますのも、不登校児やひきこもり青年は「学校になんか行くもんか」「社会に出ずにすむならそうしたい」どころか、往々にして「学校/社会に復帰したい」と願っているものです。

 つまり、周囲が願わずともほかならぬ本人自身が「学校/社会に復帰したい」と願い、そしてそれを実現しようとするわけです。このことは「本人が無理な目標を設定している」と私が感じても、それをクリアする人がいる、という冒頭のお話からもおわかりいただけるでしょう。

 「それだったら話は早い。本人と周囲の願いが一致しているのだから、学校/社会への復帰めざして一緒にがんばればいい」ということで話が終わりそうですが、事はそう簡単ではありません。

 私が前提にすべきと考えている「本人の願いや思い」は、そこから先の話なのです。

「本人が復帰を望んでいるから復帰させてあげているのだ」
――不登校児の学校復帰やひきこもり青年の社会復帰を推進している教師や専門家や団体の方の、そんな発言や文章をよく見聞きします。
 確かに、前述のとおり本人の多くは「学校/社会に復帰したい」と本気で言います。その言葉に嘘偽りはこれっぽっちもありません。

 しかし、それなら彼らはなぜ担任の先生やクラスメートやメンタルフレンドの訪問を嫌がるのでしょうか。なぜ居場所など支援の場に行けないのでしょうか。なぜ就労支援を利用しようとしないのでしょうか。
 そして何よりも、なぜ学校/社会に復帰しても楽になれない人が少なからずいるのでしょうか。

 このように考えていくと「学校/社会に復帰したい」という、彼らの「願い」の奥には、彼らの多くも自分で気づいていない「でも・・・」という「続き」があるとしか思えないのです。

 先ほど私は「本人の願いや思い」と「周囲の願い」というふうに、本人には「願い」のほかに「思い」があることを示唆しました。
 「でも」から始まる「続き」が、この「思い」に当たる部分です。

 それは「でも復帰できない」という“現状を訴えるもの”だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。

 ですから、それらをも包含した奥行きと深さのある「願いと思い」をすべて認めて受け止めることによって、彼らは初めて楽になって元気を取り戻し、自分の主体的な意思で学校/社会とどう向き合っていくかを決めて実行することができるようになるのではないでしょうか。

 それとも「思い」を認めずに「願い」だけで頭がいっぱいのまま、脇目も振らずまっしぐらに突き進んで復帰を果たしたほうが、その先の人生に深い納得と肯定感が得られるのでしょうか。

 私は「願い」と「思い」のどちらを否定しても、本人は楽にならないように思います。したがって “願いと思いの葛藤ロード”を歩み続けて自分の生き方を見出したときに「自分の生き方に何が必要か」を自問した結果「学校だ」と判断すれば学校に復帰すればいいし「仕事だ」と判断すれば仕事に就けばいい、それでこそその先の人生に深い納得と肯定感が得られる、と考えるのです。


2010.4.14 [No.176]


文中に挙がっていた171号を読む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録(10)掲載のお知らせ

2012年12月26日 13時50分50秒 | メルマガ再録
 暮れも押し迫ってきました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、いよいよ最終回となりました。


 10本目=“大トリ”は、当メルマガの趣旨を体現している、その意味で“代表作”である、と言っても過言ではない『願いと思いの葛藤ロード』を転載します。

 「学校に行きたい」「社会に復帰したい」・・・不登校やひきこもりの青少年の多くが口にする言葉。しかし実際にはそれがなかなか実現しない。その言葉は嘘なのか、はたまた建前に過ぎないのか・・・。

 筆者は、その言葉を「願い」と、その実現を阻んでいるものを「思い」と、それぞれ表現し、そのどちらも嘘偽りのない本音であると考えます。

 ところが、多くの支援は「思い」を無視して「願い」を錦の御旗にして実践されています。「本人が学校に行きたいと言っているから」「本人が社会に出たいと言っているから」と・・・。

 しかし、その奥深くにうずいていて、本人もなかなか気づかないことが多い「思い」を汲んでこそ、本人への理解と対応が正しくできるのだというのが、筆者の主張です。

 この説は講演などでもよく話しており、そのたびに「面白いとらえ方だ」「いちばん印象に残った」「ほかには聞いたことがないがなるほどと思った」などという好評の声が必ず上がります。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。


 では、このあと掲載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラム再録(9)『「私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう」』

2012年12月19日 14時04分59秒 | メルマガ再録
 年齢の高いひきこもり青年の親御さんは高齢ですから、お子さんの行く末をこのように心配されていることでしょう。事実この言葉は、親の会などでよく聞かれます。

 前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。

 それは、この言葉が正論だからです。親である以上そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。

 現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。

 そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。

 親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。

 1. 親無しで社会参加できるようになるのか。
 2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。
 3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。

 しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。

 言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。

 「そうは言っても・・・」ということですよね。

 社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。
 あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。
            
 親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。

 この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。

 「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など“精一杯譲歩しながらの切なる願い”を指しています。

 ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。

 前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。

 しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。
 本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、“神のみぞ知る”というレベルの事柄です。

 ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。

 それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。

 家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。

 楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。

 私はこのことを、次のような“法則”として端的にまとめています。

 親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの本人の笑顔の数に比例する。

 現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。


2006.08.02 [No.126]


このシリーズおよびこの文章に対する感想を紹介した次号を読む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする