年齢の高いひきこもり青年の親御さんは高齢ですから、お子さんの行く末をこのように心配されていることでしょう。事実この言葉は、親の会などでよく聞かれます。
前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。
それは、この言葉が正論だからです。親である以上そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。
現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。
そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。
親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。
1. 親無しで社会参加できるようになるのか。
2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。
3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。
しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。
言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。
「そうは言っても・・・」ということですよね。
社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。
あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。
親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。
この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。
「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など“精一杯譲歩しながらの切なる願い”を指しています。
ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。
前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。
しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。
本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、“神のみぞ知る”というレベルの事柄です。
ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。
それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。
家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。
楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。
私はこのことを、次のような“法則”として端的にまとめています。
親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの本人の笑顔の数に比例する。
現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。
2006.08.02 [No.126]
このシリーズおよびこの文章に対する感想を紹介した次号を読む
前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。
それは、この言葉が正論だからです。親である以上そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。
現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。
そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。
親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。
1. 親無しで社会参加できるようになるのか。
2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。
3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。
しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。
言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。
「そうは言っても・・・」ということですよね。
社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。
あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。
親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。
この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。
「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など“精一杯譲歩しながらの切なる願い”を指しています。
ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。
前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。
しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。
本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、“神のみぞ知る”というレベルの事柄です。
ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。
それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。
家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。
楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。
私はこのことを、次のような“法則”として端的にまとめています。
親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの本人の笑顔の数に比例する。
現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。
2006.08.02 [No.126]
このシリーズおよびこの文章に対する感想を紹介した次号を読む