語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>憲法学者の、日本の憲法文化において闘う

2012年03月31日 | 震災・原発事故
 大災害に際し、いろいろな事柄がいろいろに語られた。うち、憲法と関連するレベルで言えば、13条「個人の尊重」、25条「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の2つから見ても明らかに原発は憲法違反である、といった主張がある。こうした考え方が広く支持されるほどに、原発反対の声が高くなってきている。
 ただし、憲法研究者の立場からすると、現行憲法が、原発という特定の制度あるいは設備を直裁に憲法違反とする条文を持っているかどうか、あるいはそういう憲法構造になっているかというと、なかなかそうだとは言えないところがある。
 原発の違憲・合憲問題はさておき、核武装・核兵器は、これは明々白々な違憲であって許されないと、これはもっと多くの国民は考えている。9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という明確な規定に反すると考えるからだ。核の有無に拘わらず「戦力」であるから「不保持」だと理解するわけだ。
 しかし、日本政府や日本を支配する政治権力は、9条について、これとまったく違った解釈をしている。彼らは、「自衛のための“実力”は憲法が禁ずる“戦力”ではない」という言い方で切り抜けている。最近は、堂々と「自衛戦力」という言葉がまかり通っている。こうした政府解釈によれば、じつは、核兵器・核武装も「自衛のために必要最小限であるかぎりは違憲ではない」ということになる。
 「非核三原則」は、多くの市民は憲法原則であると理解するが、「自衛のためには核武装は許される」という余地を残しておきたい日本政府・日本政治勢力は、これを憲法原則とはけっして認めたことはない。「日本国の“国是”」だと性格づけるにとどめる。この一事からみてもわかるとおり、日本の支配勢力は「原子核」への抵抗力がきわめて弱い。
 「原発のみならず、核兵器だっておかしいはずだ」という前提は、国民全体の言説ではなく、一部の人たちの言説であって、そもそも権力が承認する憲法上の原則ではないまま、ここまで来ている。
 憲法9条の内容とは、存外に曖昧模糊とされ、揺り動かされたまま来ているのだ。

 災害救助に出かける自衛隊は、なぜ迷彩服なのか。迷彩服はカモフラージュで、敵をごまかすためのものだ。敵と渡り合うための戦闘服であり、制服・正服だ。
 しかし、災害は、あの大規模な東日本の災害をもってしても、迷彩服を着なければ困るような敵はいない。ごまかす敵はいない。災害業務のためには、災害にふさわしい民間的(civic)な服装をして現れるべきだろう。

 もし「向こうっ方」がこちらの意に染まない憲法改正作業をしはじめ、それがトントンと進んで、憲法改正国民投票法の手続きのうえにそれが乗っかって、改憲運動がはじまる--もちろん改憲反対運動も出てくる--、そういう事態が生じたら、断々固として反対するだけではなくて、対抗案を出すべきだ。対抗案を出して、議会での議論のときにその改正の条項をつぶしていくことが必要だ。例えば、憲法1~8条の天皇の規定などについて改正を企画してきたときには、こちらは逆の改正を提案し、改正全体を空中分解させるのだ。
 対抗するときに、ただ単に「それは反対」という対案ではなくて、それにぶつけて、それを無効にするような対抗案(カウンターパンチ)を浴びせるべきなのだ。その方法の一つは、おそらく皆さんの賛同をその点では得られると思うが、今度ははっきりと「核武装反対」、そして「原発反対」の条文をオーストリア憲法のように掲げるのだ。
 憲法に「核兵器は持たない」と規定したら、およそ核兵器は持てない。オーストリアの憲法によれば、「核兵器の製造、貯蔵、運搬の禁止のみならず、原発の製造、稼働も禁止する」という条文があるらしい。これは歴史や経験が、そうさせたのだ。存外にわれわれの経験、われわれの要求は世界的になっているのだし、そういう世界の広がりをもっているのだ。

 憲法文化の質を高いものにもっていく。それが国民のやるべき仕事だ。
 さきほど澤地久枝さんも、独立した個人、人格がいかに大事な考え方であるか、とおっしゃっていた。独立した人格が平和を守り、健康で文化的な最低限度の生活をわれわれに権利として認めさせる国家を育て、展開させていくのだ。
 肝心かなめなのは、独立した人格をきちんと得ていくための原動力は、個人なのだ。しっかりした個人をつくっていく。それに対して民主主義教育を当てるということを前提にした憲法文化は、そうとう程度に煮詰められてきて、戦前や、戦後まもなくとは違ったものになっている。
 こうして、われわれが戦後60余年かけてつくりあげてきている憲法文化がある。その点において、まんざら悪くはなかった。一方では9条が崩されていったが、他方そうでない世界でそれ相応に、憲法でまんざら悪くない文化を育ててきた。文化の問題は、法的問題を超えた問題だ。

 憲法文化をつくっていく仕組みのなかで、裁判の働きは、憲法の性質上、重要だ。
 司法は、長い間、人権や平和の問題にすごく消極的だった。広くさまざまな領域にわたる市民の権利自由の法律制限は、戦後ある時期までは裁判所による違憲判断をほとんど受けることがなかった。裁判所は、権利自由に制限を加える法律をろくに吟味しないで、「こういった制約は“公共の福祉”の観点から必要なものだ」と判断してしまい、易々として合憲という結論を導き出してきた。“公共の福祉”が金科玉条の時代が、ずっとあった。
 しかし最近は、“公共の福祉”だけでは説明できない、という判断がくだされている。これは、人々がそれ相応に成熟し、それ相応に自分の自由、自分の権利を大事にし、それを法的に守って欲しい、裁判所に然るべき役割を果たしてほしい、と考えるようになってきたからだ。こうした市民の要求を前にして、裁判所は、“公共の福祉”アプローチを後退せざるを得なくなって以降、少しずつ意味ある司法になりはじめている、と感じられるようになっている。頼りになるものが、それなりにある、ということだ。
 「憲法の自衛のための実力は戦力ではない、違憲ではない」といった流れがありながらも、それに対して個別に闘っていく。というのは、裁判は個別に行われるから、個別の人間が原告あるいは被告になって立ち向かっていき、裁判所にその論理を認めさせる可能性が出て来た(最近の傾向)。
 まんざら捨てたものでもない。

□鶴見俊輔/澤地久枝/奥平康弘/大江健三郎『原発への非服従 ~私たちが決意したこと~』(岩波ブックレット、2011)のうち奥平康弘「日本の憲法文化において闘う」に拠る。
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