語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】波多野完治『生涯教育論』再読(3) ~読書会、「話し合い」学習、映画~

2011年02月12日 | 心理
 学生時代、精神病理学の講義で講師から勧められた。凡百の解説書を読むより加賀乙彦『フランドルの冬』を読むべし・・・・。
 『フランドルの冬』は、精神科医のフランス留学記である。小説だが、当時の精神医学界と医師の生態を活写する。
 加賀乙彦は、すなわち小木貞孝である。小木には、竹内芳郎と共訳したモーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967)がある。ちなみに、『知覚の現象学 2』は、竹内のほかに木田元、宮本忠雄が訳者に加わっている(みすず書房、1974)。
 メルロー=ポンティは序文の末尾で次のように述べている。現象学を語って、もっとも美しく緊張に満ちた一節だ。
 「現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である--おなじ種類の注意と驚異をもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味の生まれ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである」

 木田元は、当時、現象学が広く一般の知識人のあいだに大きな関心をよび、高校生までをふくむかなり若い層まで浸透しているらしい、と『現象学』(岩波新書、1970)の序章で述べている。「たとえば、これはわたしなどには当初すこぶる奇異なことに思えたのであるが、1969年に燃えさかった学園紛争のさなか、バリケード封鎖中のある高校で、いわゆる自主講座のテキストにフッサールの著書の翻訳が使われたという話がある。これも、おそらくは現象学に自分の生きている現実について語ることを許してくれる哲学を、そしてひいてはそこに知的ラディカリズムの拠点を求めようとしたと聞けば、いくぶん納得のいく思いがしないでもない」
 『現象学』は、学生時代の読書会でとりあげられた1冊だ。途中から参加したので、本書をとりあげた主宰者の意図は聞いていない。しかし、おそらく木田が書いているような事情だったのだろう。

 ところで、波多野完治が紹介につとめたジャン・ピアジェは、現象学的心理学を痛烈に批判している(『哲学の知恵と幻想』、滝沢武久・訳 みすず書房、1971)。これもまた熟読玩味したから、我ながら妙な青春だった。

 もっと妙な青春を送ったのは、佐藤忠男だ。こちらは、はるかに個性的だ。『映画館が学校だった』(日本経済新聞社、1980。後に講談社文庫、1985)によれば、題名のとおり映画によって独学している。「世界全域の精神的な豊かさに目を開いて驚いた日々」だった(佐藤忠男『人間のこころを描いた世界の映画作家たち』、NHK出版、2011)。

   *

 読書会も映画も、『生涯教育論』は成人教育/社会教育の手法の一つと位置づける。

 大正7、8年に民衆大学、夏期大学が成立し、大正13年に旧文部省に社会教育課が設置された。
 日本の社会教育の方法は、学校教育をまねるところからはじまった。波多野が推定するに、江戸時代の社会教育が大きく影をおとしているらしい。それは「説教」の延長線上にある一方交通の方法を出なかった。心学の道話がそうだし、心学以外でも細井平洲の大衆講話がそうだ。
 上からの社会教育が講演といううわつらの方法しかとれなかったのに対し、下からの社会教育はもっと足が地についた、実効のあがる方法を編みだした。労働者のオルグを中心とする学習活動や学生集団の読書会(RS)は、日本の社会教育を豊かにするうえではかりしれない効果をもった。上からの社会教育と下からの社会教育は、交差することなく、併存したままで第二次大戦をむかえた。

 大戦後の日本ははしょるとして、フランスでも似たような流れをたどった。
 1920年代、日本の民衆大学とほぼ同じ時期に労働者教育が「講話」方式ではじまった。社会教育の必要性に目覚めたのは、知識層だった。第一次大戦で労働者出身の兵士と塹壕をともにしたインテリは、労働者もまた自分たちと同じく知的欲求をもっていることを発見したのだ。第一次大戦直後から、フランス成人教育の第一次ブームが起きた。しかし、毎日の生活と直結する問題の解決・・・・という労働者の実践的関心に応えるものではなかった。
 「話し合い」学習が編みだされた。フランス人は話好きである。フランスには、18世紀の啓蒙思想に大きな役割を演じたサロンが存在した。「フランス土着の成人教育」である。
 日本の社会教育主事に相当するアニマトールが、「話し合い」学習の結合剤の役割をはたす。こうした動きが人民戦線時代に出てきた。しかし、人民戦線内閣の短命のため、これは大きく成長することなく、第二次世界大戦をむかえてしまう。この方向が真に開花するのは、フランスに教育テレビができて、いわゆるテレクラブの運動が成功するときだ。教育映画を利用するシネクラブがあったが、こちらはイギリスのドキュメンタリー運動とちがい、フランス民衆の組織力の弱さ、組合の政治的偏向などが作用して、伸び悩んだ。テレクラブは、真にフランス的な小集団の話し合いを可能にし、大組合の団結力などがなくとも教育的結果が目に見えるやり方だ。このほうが大成功をみた。

 <補説Ⅷ>で波多野完治はいう。ラングランは、成人教育の方法が、一般に教育の方法に大きく貢献したとして次の二点をあげる。 
  (a)グループ・ダイナミックスの応用
  (b)視聴覚的手段の利用
 (a)はさておき、視聴覚的手段の利用が成人教育で成功して一般化し、それが学校教育へ導入された・・・・という主張は、1965年、パリでのユネスコ成人教育委員会で波多野が行った。波多野が生涯教育論になんらかの貢献をしているとすれば、この一点につきる・・・・。
 映画を教育に利用することは、映画芸術の発生当時からあった。第一次大戦前までは、映画のなかに娯楽と報道および教育の2機能を認める立場が強かった。市中の映画館でも、必ず一本か日本は「実写」すなわち記録性のあるものを上映していた。映画が娯楽にしぼられるのは、第一次大戦後だ。だんだん記録ものはつくられなくなった。ドイツのウーファは『美と力への道』といった記録をつくって教育への関心を示したが、経済的になりたたないので止めてしまった。
 映画が成人教育の方法として真に有効である、ということがわかり、これの利用運動が地についたものになるのは、発声映画の出現による。説明がコトバでつけられるようになったからだ。映像と概念との双方を利用して、はじめて映画の教育性が発揮される。このことを掴んだのは、グリスマンをはじめとするイギリス・ドキュメンタリーの人だった。彼らは、この考えにもとづいて映画をつくり、それを労組その他の小集会にもちこんで討論の材料に使った。この方式が教室にもちこまれ、「教材映画」利用の正道とされるにいたった。

   *

 以上、「第2章 生涯教育を困難にする条件 -生涯教育の政治学-」の「3 成人教育」による。

【参考】波多野完治『生涯教育論』(小学館、1972)
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