語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【心理】きこえる音、きこえぬ音/きれいな音、いやな音/立体音(ステレオソニー) ~聴覚という知覚~

2016年12月16日 | 心理
●きこえる音、きこえぬ音
 <つぎに音の心理を述べよう。人間の耳にきこえるもっとも低い音は1秒12振動である。ふつうのピアノのキイで、一番左手にあるもの、すなわち一番ひくい音は27振動であるから、人間にきこえる音は、ピアノの一番ひくい音よりも、さらに1オクターブひくいということになる。
 ある映画館に大きなパイプ・オルガンをそなえつけたことがあった。パイプ・オルガンは空気の振動で音を出すのであるが、このパイプの中に、1秒2振動しかしない巨大なパイプがあった。つまり、人間の耳には絶対聞こえない「音」を出す楽器である。
 いったい低い音はこわい感じのするものである。ミッキー・マウスの映画などでは、こわい声はふとい、ひくい音として表現される。そこで、この映画館の主人は、あるスリラー映画の、ごくおそろしい瞬間に、この一番ふといパイプをならすことを思いついたのである。結果はどうであったか。おそろしいことがおこった。観衆たちはひじょうな恐怖にとらえられ、ある人たちは争って劇場の扉に殺到した、という。
 これによってみると、1秒2振動というような振動は、耳にはきこえないが、しかし人間の感覚には刺激をあたえるのであり、それは、きこえる音の最低のものよりももっとはげしい刺激、すなわち巨大な、おそろしい、という印象をあたえるものであることがわかるのである。
 このことは、耳の感覚的性質にたいして、われわれに一つの見とおしをあたえる。耳はわれわれに一つの刺激を「音」として感ぜしめる。しかし、耳が音として感ずる刺激には一定の制限がある。これは物の振動の中で、一つの特定の幅をもったものだけを、音としてキャッチするのである。
 たぶん耳は、昔は触覚と同じものだったのであろう。皮膚感覚だけを感ずる場所であったにちがいない。これが進化による分化の結果、ある種の刺激にたいして、とくに敏感な、耳、というオルガンに変形したのである。だから耳は今でも、もとの皮膚感覚の性質をのこしている。そののこされた皮膚感覚が、ひくい音に対して活動を開始して、おそろしい、という印象を生じたのである。
 だが、音のこういう性質--つまり音覚の皮膚感覚的性質をもっともよく教えるものは、高い音のばあいである。人間にきこえるもっとも高い音は、低い音のように一定ではない。すなわち人によって、聞きうる高い音にはちがいがあるのである。ある人は3万5千振動以上の音をきくことができる。しかし、人によっては2万振動くらいしかきこえない人もある。
 いっぱんに、人間は年をとるにしたがって、高い音にたいする感受性を失っていく。しかし、では、きこえない高い音というのは、どんな感じのものなのか。それを実験するには、ゴールトン笛をもちいる。これはパイプ・オルガンと同じ原理で、ただし、空気をごくこまかく振動させるように工夫されている笛である。1秒4万振動ぐらいまでの音を出すことができる。
 高い音はピイ、ピイいう。それは小さい、かわいらしい感じをともなう。なぜ高い音がかわいらしく感じられるかは、低い音はなぜ巨大な、そら恐ろしい感じを生み出すかとともに、よくわかっていない。
 ゴールトン笛をつかって、2万振動ぐらいから、だんだん高めていく。そうすると、耳にきこえる音が、高くなるが、同時に音が小さくなってくる、かすかにしかきこえなくなる。しまいには、もうほとんどきこえなくなる。ここに妙な現象がおこってくる。こういう音にたいし、めまいを報告している。とにかく、それはもはや、音としてでなく、奇妙な皮膚感覚として、コマクに感応するのである。
 しかし、これがさらにすすむと、もやは、そういう皮膚感覚させも感ぜられなくなる。 空気の振動は3万、5万と、さらに出つづけていうのだが、これは人体の感覚器官にはもはや刺激とならないのである。これは人間であるからのことであり、たとえば犬などにおいては8万振動ぐらいまできこえるらしい。

●きれいな音、いやな音
 音には騒音と楽音とが区別される。楽音は、規則正しい音波からなっている音であり、騒音は、不規則な音波を構成要素としている、と、ふつう言われるが、しかし、これは相対的なものであって、どんな楽音にも、騒音的要素がいくらかははいっているものである。純粋に規則正しい音ばかりでできている音は、かえって退屈で、単調で、つまらない感じがする。
 コップに水を入れてたたく、一つだけのコップだと、それは騒音とはいわなければならないが、コップを八つならべ、水の量を加減すれば、かんたんな歌を奏することができる。またシロホンのごときも、一つ一つの木の音は騒音なのである。
 人間の声も同様で、コトバは口腔や、舌や、喉を利用した騒音によらなければ成立しない。しかも、われわれはコトバのはいらない、ただの人声だけのメロディーでは退屈してしまう。
 不規則の音波は遠くへ達しない。このことをもっともよく示すのは、ヘンな音のチクオンキでも、遠くで聞くと、よくきこえることで、また遠くできく人の歌声は美しいものである。これは不規則な音が、途中で消えてしまって、規則的な音ばかりが伝わってくるからである。これを音の純粋性が高まるという。いやな、しゃがれ声の人の話も、遠くで聞けばそれほどでないのは、このためである。

●立体音(ステレオソニー)
 道をよこぎるとき、ゴー・ストップのないところでは、われわれは目と耳と、両方つかって車を避けなければならぬ。目は前方しかきかないので、いきおい、耳を十分にはたらかせることになる。
 耳によって、音の方向を知るには、次の三つの原理による。
 (1)左の耳に達する音と、右の耳に達する音との時間的ズレ。左手にある発音体では、音はまず左の耳に達し、つぎに右の耳に達するから、その間にかすかなズレができる。このかすかなズレが、発音体の方向を教える。
 (2)左の耳に達する音と、右の耳に達する音とで、強さが違う。左手にある発音体から発する音は左の耳に達し、ついで右の耳に達するが、そのわずかの間に、頭によって音エネルギー多少吸収され、よわまる。それが弁別のたすけになる。
 (3)音波は、空気のタテナミであるから、耳には気圧の変化として感ぜられるわけである。そこで、左右いずれかに片よった音源から出る音は、右の耳と左の耳とで、「同じ時間」には、気圧を異にしている。これが弁別の根拠になる。もし、われわれの耳を半メートルなり、1メートルひきはなして、このような微妙なズレ、または、ちがいを拡大することができれば、音源の位置の決定は、さらに正確さを加えることができるわけである。高射砲にそなえつけられた聴音機は、この原理にもとづいたものであった。

□波多野完治『心理学入門』(光文社、1958)pp.45-49を引用
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