語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【社会哲学】「同一化」から「非同一的なもの」へ ~ミメーシスについて~

2016年12月16日 | 批評・思想
 
 (1)アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』において、最終的には自然と文明の宥和をめざしていた。それは、たんなる自然支配とは別の自然との関わりを追いもとめるものであって、その際の自然には、外的な自然だけではなく、内的な自然もふくまれていた。アドルノとホルクハイマーは、外的・内的な自然支配の根底には、「同一化の暴力」が働いていると考える。
 〈例1〉稲妻は、ささいな電気現象と同一のものへと理論的に還元することで、無化することはできないまでも、避雷針などを使って制御することができる。
 〈例2〉集団生活になじめない子どもを指導して、集団へと同一化させようとする。その子ども自身がそういう規律を内面化して、自分で集団生活に同化するよう努力してくれるならば、いっそう事はうまく運ぶ。

 (2)(1)のような外的・内的な自然支配には、けっしてこれで終わりということがない。自然の支配は、つねに支配しきれないもの、同一化しきれないものを生み出す。集団への同一化にしても、それからはみ出す者をたえず生じさせる。あるいは逆に、同一化をはみ出すものを確認することによって、それ以外の者たちは同一であることを保証されるのだ、と言ったほうが正確だ。
 <ヨーロッパのキリスト教社会に暮らしていたユダヤ人ないし元ユダヤ教徒たちは、かなりの程度キリスト教社会へと「同化」していましたが、キリスト教社会の側はそれを認めていませんでした。反ユダヤ主義的であったのはなにもナチスだけではありません。ヨーロッパのキリスト教社会は、ドイツにかぎらず、たえず自分たちの不満のはけ口に「ユダヤ人」を利用してきました。
 その点からすると、同一化というあり方自体から私たちが踏み出すことが必要ではないか、と考えることができます。同一化は、その内部に私たちがいるかぎり安心感をあたえてくれますが、いつもその外部を必要としています。そして、学校などのいじめから、社会的マイノリティの排除にいたるまで、いつ私たちがその「外部」に振り当てられるか、じつは分かりません。それこそ、自分がその外部に振り当てられることへの不安から、私たちは自分以外の誰かをその「外部」にたえず追いやっているのに違いありません。ここでも、私たちの不安と恐怖は相変わらず断ち切られることなく続いていることになります。>

 (3)私たちを雁字搦めに縛っている同一化の呪縛から私たち自身を解き放つことが必要だ。それは、私たちが「非同一的なもの」を、私たちの内部でも外部でも、積極的に認めることからはじまるに違いない。私たちがおよそ何事かをほんとうの意味で「経験」しうるのは、非同一的なものをつうじてではないか、とも考えることができる。
 〈例〉旅先でガイドブックに書かれてあるとおりに旅程が進行しないとき、私たちは不安に駆られるが、あとで顧みれば、そういう齟齬のなかにこそ旅の醍醐味、その旅における「経験」があったと思いいたるはずだ。ベンヤミンも、ある都市を知るためには迷う能力が必要だと記している。

 (4)<そして、そのような「非同一的なもの」を認識する方法がミメーシスです。文字どおりには「模倣」ですが、アドルノとホルクハイマーはこれについて、フランスの社会学者ガブリエル・タルドからだいじな示唆を受け取りました。タルドの『模倣の法則』の初版は1890年に出版されています。タルドは、およそ社会と呼ばれるものが織りなされている根底に、模倣という振る舞いを置き、そのさまざまな法則を探究しました。このタルドの社会学的な模倣概念を、プラントン、アリストテレス以来の芸術表現における「模倣」と結びつけるところに、アドルノ独自のミメーシス理解が成立したと言えます。>
 
 (5)子どもは学校の先生の先生やお母さんの真似をする。発達心理学では子どもの社会化のプロセスに位置づけられるかもしれない。しかし、子どもは機関車や風車になりきったりもする。元来そこには他なるものへの押さえがたい関心が働いている。そこには、他なるものを自分へと同化・同一化するのではなく、自分をむしろ他なるものへと異化するような衝動が働いている。それはもちろん、子どもだけの問題ではない。アドルノとホルクハイマーは、そもそも文明の根底にあるものをミメーシス衝動と呼んでいる。したがって、その遺著『美の理論』にいたるまでアドルノがもっとも肯定的に捉えているミメーシス能力を、こう規定することができる。
 すなわち、ミメーシスとは、既知のものへと還元・同一化することなく、未知のものを未知のものとして経験し認識しうる能力である、と。それは、同一化という暴力を行使することなく、非同一的なものを認識し表現する能力だ。そしてその際、私たちの外部の非同一的なものと私たちの内部の非同一的なものは、何らかの形でたがいに呼び合っているに違いない。

 (6)とはいえ、『啓蒙の弁証法』において、ミメーシスはけっして一面的に美化されてはいない。反ユダヤ主義者たちがユダヤ人を迫害する際に「哀れなユダヤ人」の真似をしてみせたことなどを引き合いに出して、むしろ否定的な意味合いで用いられている場合が多いとさえ言える。
 したがって、重要なのは、文明の根底、そして私たち自身の根底にありながら、自然支配をことさらする理性がそれをタブー視することによってかえってさまざまな病的な模倣衝動として発露しているミメーシスの能力を、文明のただなかでどのようにして救出するか、ということになる。
 だから、『美の理論』においてアドルノは、シェーンベルグはもとより、カフカやベケットといった彼がもっとも評価する文学者たちの作品に即して、ミメーシス的契機と合理的契機の媒介について、繰り返し論じている。
 アドルノによれば、一見難解なカフカやベケットの作品は、この二つの契機のあいだをジグザクに縫い取るように進んでいるのだ。そのあてどない歩みにつき従うこと、まずもってそれが彼らの作品を読むということにほかならない。

□細見和之『フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(中公新書、2014)の「第5章 「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」」 
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 【参考】
【社会哲学】言語社会学の諸問題--ひとつの集約的報告 ~ベンヤミン~
【社会】格差社会における「承認の欠如」 ~第三世代のフランクフルト学派~





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